突然強い力に押さえつけられ、わけも解らずは目を瞬かせる。

自分に覆いかぶさる、大きくて温かいもの。

視界を占めるのは、漆黒の闇と・・・―――そしてその隙間から見える、白い・・・ワイシャツ?

それを認識したと同時に自分に覆いかぶさっていたものが離れて行き、そこで漸く事態を察したは呆然と目の前の無表情な男を見上げた。

「・・・リン、さん?」

あまりにも突然の出来事に思わず言葉に詰まったは、なすすべもなく彼の名を呼んだ。

髪の毛といわず、コートまでもがぐっしょりと水で濡れている。

さすが、水も滴るいい男だ。―――いや、冗談ではなく。

「大丈夫ですか?」

「うわっ!・・・は、はい。あの・・・えぇ?」

無表情に問いかけられ、反射的に頷いたは、それでも戸惑ったように目を瞬かせる。

どうやらリンは、降ってきた水からを守ってくれたらしい。

それを漸く認識したが、慌ててお礼を言おうと口を開きかけたその時。

「原さん!!」

離れたところで上がったナルの声にそのまま視界を巡らせれば、そこには膝を突いて崩れ落ちている真砂子の姿が。

「・・・どうやらあちらで出たようですね」

「えぇ!?」

なんなんだ、この展開は!

いろんな事がぐるぐると回る思考を持て余しながら、は心の中でそう叫び声を上げると、早速ナルたちの下へと向かったリンの後を慌てて追いかけた。

 

不可解な感情の、その意味

 

たちがナルの元へ駆けつけた頃、オトリとして別の場所にいた滝川たちも合流していた。

見れば2人ともびしょぬれである。

どうやらこの公園で起こっている怪現象に巻き込まれたのだろう。―――この真冬の寒空の下では酷く寒そうだ。

そのままチラリと視線を横へと向ければ、同じくびしょぬれになったリン。

本来ならばもこの仲間に入っているはずなのだ。―――リンが庇ってくれなければ、そうなっていた。

「・・・う〜ん」

どうしてリンは自分を庇ってくれたのだろうか。

リンはが・・・日本人が嫌いだと言っていた。

確かに彼はそれを個人に持ち込むことは馬鹿げた事だと思うと言っていたけれど、それでもそう簡単に割り切れないとも言っていた。

それともそんなものはまったく関係がなく、リンはただそこにいた相手を助けただけなのかもしれない。

リンがそんな博愛主義には見えないが、時に不器用な優しさを見せる彼ならそうなのかもしれないと思う。―――それ以外、理由が思い当たらないとも。

その理由はともかくとしても、が今水に濡れる事無くいられるのは彼のおかげに他ならないのだ。

ちゃんとお礼は言っておかないと・・・―――そう思い至り口を開きかけたは、しかし突如漏れた笑い声にビクリと肩を震わせた。

「・・・ふ」

吐息のような笑みに視界を巡らせれば、そこには今もまだ膝をついたままうなだれている真砂子の姿。

そういえば霊が取り付いてたんだっけ・・・?と思い出したその時、真砂子は不気味な笑い声を漏らしながらゆっくりと顔を上げた。

「ふふふふふ。いい気味だわ〜」

「うわっ!・・・怖っ!!」

反射的に身体を逸らせながら声を上げたは、そのままの勢いでリンを盾にして真砂子と距離をとる。

そんな中、同じく呆然と真砂子を見やる麻衣とは反対に、至極真面目な面持ちをしたナルが彼女を見て小さく頷いた。

「憑依されたな。ちょうどいい、このまま話を聞こう」

確かに今回の仕事の目的である女の霊が目の前に現れたのだから、ナルの言い分ももっともかもしれないが、それでも彼に恋する真砂子を知っている身としては彼女が哀れに思えて仕方がない。―――それをナルが気にしていない様子なのが、なおさら。

しかしはこうも思うのだ。

この女の霊が、自分に憑依しなくて良かったと。

霊の憑依のしやすさでは、真砂子よりもの方が断然上だろう。

なのに何故今回はではなく真砂子が憑依されたのかは解らない。―――真砂子とよほど相性が合ったのか、それとも当主自らの手で渡されたブレスレットとピアスが効力を発揮しているのかは定かではないが、それでも助かった事に違いはない。

そうして真砂子がかわいそうだと思う傍ら、それでも代わってあげようという気がないとしては、これ以上口は挟めなかった。―――自分とて同罪だと。

僅かな罪悪感を胸に遠い目をするを他所に、しかしナルは変わらない様子で真砂子へと声を掛けた。

「あなたがここに来た人たちに水を降らせた犯人ですか?」

至極真面目に問い掛けるナルに、真砂子・・・否、真砂子についた女の霊は更に高笑いを返して。

「そ〜よ〜。風邪引いて肺炎でも起こして苦しむがいいわ〜」

「っていうか、やる事ちっちゃ!!」

「こら、。煽るなって!!」

先ほどの罪悪感はどこへ行ったのか。

あっさりとリンの背後から姿を見せたの突っ込みに、頬を引き攣らせた滝川が手を伸ばしての口を塞ぐ。

それを恨みがましそうな目で見上げるを他所に、滝川は宥めるように苦笑いを浮かべた。

「何故そんな事を?」

しかしそんな外野の騒ぎなど気にした様子もなく、ナルは淡々とした口調で質問を続ける。

そんなナルの質問に唐突に高笑いを止めた女は、こちらもまた唐突に悲劇のヒロインよろしくその場に座り込むと、小さく震えながら泣き出した。

「腹が立つのよ、腹が立つのよ。イチャイチャイチャイチャしちゃってぇぇ!あたしはこんなにつらいのに〜」

もはや酔っ払いのようである。

確かに公共の場でいちゃついているカップルを見ると妙に腹が立つ時もあるが、しかし死んでからも嫌がらせをしたいと思うほどとは・・・―――思わぬ女の執念に、呆れればいいのか恐れればいいのか。

そんな真砂子を相手に、事を見守っていた麻衣が座り込んだ女の顔を覗き込むようにしゃがみこんだ。―――どうやら相手を宥める戦法を取る事にしたらしい。

そんな麻衣を相手に、先ほどまで嘆き哀しんでいたと思われる女は突然立ち上がり、滝のように涙を流しながらもまたもや高笑いを上げた。

「話すわよ、話してやるわよ!あたしはね、付き合ってた男に捨てられたのよ!捨てられて死んだのよ!無様でしょう、おかしいでしょう、笑うがいいわ〜!!」

そう言って両手を広げて空を仰ぎ見る女の背後に、二時間ドラマさながらの波しぶきが見えたような気がした。

それを見ていた滝川と麻衣は、お互い顔を見合わせて。

「・・・愉快な人だ」

「身体が真砂子だけに笑えるよね」

ごく小さな声でそう呟き合ったその時、空を仰ぎ見ていた女は恨めしそうに振り返って。

「笑ったわね〜」

「笑えって言ったくせに!!」

あまりにも理不尽な女の言葉に、麻衣が反射的に声を上げた。

しかし女はそれを聞いていないのか、更に自分の世界へと足を突っ込みながら何処か遠くを見つめつつ口を開く。

「こうなったら聞くも涙、語るも涙のこの恋の結末を聞かせてやるわ〜」

「そういうのって、たいていの場合そんな泣くような話じゃないんだよね」

「こら、だから煽るなって!!」

更にそう言い募る女の横でボソリと呟くの口をまたもや塞ぎながら、滝川はチラリと女の様子を窺う。

しかし女は既に自分の世界に入って聞いている様子はない。―――それにホッと安堵の息を吐きつつ、成り行き上女の話に耳を傾けた。

女の恋の始まりは、この公園から。

買い物帰りにこの公園を通ったその時、彼女が落としたねぎを彼が拾ってくれたのだそうだ。―――『落としましたよ』と輝くような笑顔を乗せて。

「運命の出逢いだったわ〜」

その当時の事を思い出したのか・・・夢見るように瞳を閉じる女とは対照的に、話を聞いていた3人は微笑み返すことも出来ずに頬を引き攣らせた。

「うそくさ〜・・・」

「っていうか、めちゃくちゃベタな展開過ぎて逆にすごいって言うか・・・」

「今ってこの手の古臭いネタ、リバイバルしてんの?」

相手を煽るのは止めろと言っていた滝川でさえ、この発言。

しかし女はそんな外野の声も聞こえていないのか、更に言葉を続ける。

「それからあたしたちはよくここでデートをしたのよ〜。それはそれは周囲もうらやむ仲の良さ〜」

「なんだ、結局そっちもいちゃつくカップルの仲間だったんじゃない」

「みたいだな〜」

そろそろ女の気性が理解できてきたのか、突然襲い掛かってくる事はなさそうだと判断を下した2人は、遠慮の欠片もなく感想を述べる。

「なのにっ!!」

しかし突然大声を上げた女に、そばにいた麻衣はビクリと肩を震わせた。

「なのにアイツは二股かけてやがったのよ〜!そして半年前の事〜!!」

偶然にも、相手の女と会っているところに遭遇してしまったらしい。

「よりにもよってこの美しい思い出の場所を汚すようなことを〜!!」

そう言って再び地面に顔を伏せ泣き喚く女。

なんなんだ、この気性の激しさは!と呆気に取られつつも、はチラリと周囲を窺う。

こんな大騒ぎをしていて、さぞや周りは引いているだろうと思い視界を巡らせると、公園内には人っ子一人見当たらない。―――どうやら係わり合いにならないようにと、全員が何処かへ避難したらしい。

懸命な判断だとは思う。―――そして出来ることならば自分もそうしたいと。

「・・・それで何故水なんですか?」

それでもナルはめげずにそう質問を続ける。

しかしその表情から窺うに、早く終わらせたいところが本音のようだ。―――どうやらもう嫌になってきたらしい。

「あまりの仕打ちにあたしはアイツに詰め寄ったのよ〜。そしたら・・・」

『しつこいんだよ、お前』

そう言ってペットボトルの水を頭からぶっ掛けられたのだという。

「なっ、なにそれ!!」

「そうでしょう、そうでしょう」

流石にあまりの仕打ちに麻衣が思わず声を上げた。

麻衣の同意を得られたからなのか、女は泣くのをやめ顔を上げると据わった目で頷く。

そうして女はあまりのショックに、いっそこの思い出の地で美しい思い出と共に永遠の眠りにつこうと考えたらしい。

そう付け加えられた言葉に、怒りに染められていた麻衣の表情が青ざめる。

「まさか・・・自殺」

「しようとしたのよ〜」

そう、女はこの思い出の地で永遠の眠りにつこうとしたのだが、しかしそのどれもがことごとく失敗に終わったのだ。

木で首を吊ろうかと思えばロープを吊った幹が折れ、睡眠薬を飲んで眠りにつこうかと思えばおまわりさんに見つかる始末。

「それでもう諦めて帰ろうとしたのよ〜」

「・・・なんだ」

女の口から出てきた言葉に、麻衣はホッと胸を撫で下ろす。

しかし返って来た言葉に、は訝しげに首を傾げた。

確かに自殺はよくないが、しかし今女が真砂子にとり憑いている以上、その命は失われてしまったのは間違いないと思うのだけれど。

そんな疑問は、その後続いた女の言葉ですっきり解決する事になる。

帰ろうとした女は、しかし茂みから突然飛び出してきた猫に驚き、そうして後ずさったそこに寝ていた猫に足を取られ、そのまま倒れこんだ先のレンガに頭を打ち付けて亡くなったらしい。

「気がついた時はこの姿よ〜」

「なんかもう、運が良いんだか悪いんだか・・・」

あまりの展開に、もうコメントのしようもない。

しかしその出来事が起こったのが、今から半年前。―――公園でカップルだけに水が降るという怪事件が起きたのもその頃だという話だし、計算は合う。

「じ、じゃあ、その男のところに直接化けて出れば・・・。いや、良くない事なんだけどね」

「やったわよ、やったわよ。枕元に立ったり肩に乗ったり・・・効きゃしなかったわよ〜。鈍感なのよ、鈍感男なのよ〜」

もう既にやった後らしい。

それにしたって、女もとんでもない男に捕まったものだ。―――そのせいで、今こうして命まで失ってしまったのだから。

「だから腹いせに、奴の代わりにこの公園でいちゃつく人々を同じメに合わせてやろうと思ったのよ〜」

だからといって、その発想もどうかと思うが・・・。

「そんなのダメ!!」

またもや高笑いをする女を他所にそう感想を抱いたは、しかし突如上がった麻衣の声に思わず目を見開いた。

「く、悔しいからって、そんな人のせいで他の人に悪い事したら、それで恨まれるのあなたじゃないの?そんなの・・・あなたばっかり損しちゃうじゃない!そんなの変だよ!!」

瞳にうっすらと涙さえも浮かべながら言い募る麻衣を見つめて、女も大きく目を見開いた。

こんな風に、たとえ相手が霊だとしても親身になってあげられる麻衣を素直にすごいと思う。―――そうして同じように、好ましいとも。

きっと優しい人たちに囲まれて育ってきた彼女だからこそ、出来る事なのだろう。

「だ、だからってどうすればいいのかとか解んないけど。だから無責任だけど・・・でも、恨んだり恨まれたり、そんなの・・・」

悲しいよ、という声にならない声が聞こえた気がした。

思わず黙り込んだ女の霊を前に、静かに話を聞いていたナルが疲れたようにベンチに腰を下ろす。

そうしてその体勢のまま、チラリと女へと視線を向けて。

「あなただって、このままの状態がいいものだとは思っていないはずです」

「そうそう。いつまでもこんな事してると地縛霊になっちゃうぞ。ちゃっちゃか成仏した方が幸せだと思うな〜」

ナルに続いてそう言葉を続けた滝川は、同じくしゃがみこんで女の顔を覗き込む。

それに僅かに身を仰け反らせた女を見下ろして、はにっこりと微笑んだ。

「それでもどうしても許せないって言うなら、私がその男をたぶらかして捨ててきてあげようか?―――あなたが本当にそれを望むなら、ね」

「・・・

「・・・いや、冗談だから。うん、冗談に決まってるじゃん」

背後から聞こえたリンの咎めるような声に、は盛大に表情を引き攣らせながらパタパタと手を横に振る。

勿論本当に冗談だ。―――先ほどまでならともかく、今の女がそんな事を望まないと解っていたからこその発言なのだ。

それでもは、こうして場を茶化す事でしか相手を慰められない。

そういう方法しか、彼女は知らない。―――だからこそ、はまっすぐ相手と向き合える麻衣がとてもうらやましく、そしてとても好きだった。

そんな無言の攻防戦を繰り広げるとリンを見やって・・・―――そうしてその視線を滝川たちへと向けた女は、訝しげに眉を寄せて。

「・・・あなたたち、心霊オタク?」

まさにそう思われても仕方のない発言に、滝川はうっと言葉に詰まり、麻衣とは困ったように笑った。

心霊科学者に、その助手とバイト。元高野山の坊主に、有名な霊能者一族の幹部と、今まさに女が身体を乗っ取っているのは霊媒のものだ。

こちらもまたコメントしづらい問い掛けに、全員が困ったように視線を泳がせる。

しかし女はそんな事はどうでもいいのか、口元に僅かな笑みを浮かべた。―――それは先ほどまでとは違う、酷く穏やかなもので。

「そうねぇ、損かもしれないわね〜」

サワリ、と緩やかな風が吹いた。

冬の冷たい空気の中、けれどそれはとても優しく感じられるもので。

「なんだか目から鱗が落ちたようよ〜」

そう言ってにっこりと微笑んだ女の笑みは、どこか晴れ晴れとしたもののように見えた。

「話を聞いてもらえて、なんだかさっぱりしたわ〜。―――ありがとう〜」

そう言って散々好き勝手に騒いだ女は、しかし意外とあっさりと浄霊された。

晴れ渡った空に解けていく女の姿は、けれどとても柔らかいもので・・・―――それを見送ったも同じような笑みを浮かべる。

しかしその余韻も長くは続かなかった。

「・・・はっ、わたくし、一体・・・?」

女が成仏した事から漸く正気に戻った真砂子を見て、滝川と麻衣は気付かれないよう顔を背けながら必死に笑いを噛み殺す。

そんな2人を見て呆れたようにため息を吐き出したは、こちらも漸くある事に思い至りハッと背後を振り返った。

そこには漸く事が済んだ事に安堵しているのか、小さくため息を吐き出すリンの姿。

やはり今もまだ髪の毛もコートもぐっしょりと濡れている。―――黒いコートで多少解りづらくはあるけれど。

そんなリンを見て、は慌ててカバンからミニタオル取り出すと、それを持ったままリンの頭へと手を伸ばす。

しかしかなり身長が高い彼の頭に、の手は届かない。―――彼女とて、決して背が低いというわけではないのだが。

「・・・結構です」

そうしての意図に気付いたのか、リンは伸ばされた手を避けるように身を引き、素っ気無くそう言い放つ。

伸ばした手が所在投げに宙を漂う。

その手をじっと見つめ、そうしてはムッと表情を顰めて、今度は避けられないようにとリンのコートの裾をグッと掴むと、それを強引に引っ張った。

途端に近くなるの顔。

それに僅かに目を見開いたリンなど気にした様子なく、はミニタオルを持った手を今度こそリンの頭へと伸ばした。

「もう、これくらいさせてよ。これで私の気が治まって、リンさんだってちょっとはマシな状態になるんだから」

そう言って乱暴に髪の毛を拭われる。

しかし一見乱暴に見えるその手つきが、しかし酷く優しいものだという事にリンは気付いた。

ふわり、と甘い香りが鼻腔をくすぐる。

「・・・これでちょっとはマシになったでしょ。―――はい」

途端にコートから手を離され、遠ざかるの顔をぼんやりと見つめていたリンは、咄嗟に手渡されたミニタオルを受け取る。

それに気付いた時には遅く、いつの間にかが一歩も二歩も先を歩いていて。

「そのタオル、使ったら捨ててくれていいから」

そう言い放たれ、リンは困ったように僅かに眉を顰める。

思えば出逢った時からそうだったように思う。

突然目の前に現れたかと思えば、ズカズカと彼の領域に足を踏み入れて。

言いたい事だけ言って、それでもリンの主張を受け入れるように引いて見せたりもして。

儚げに笑ったかと思えば、挑むような眼差しを向けたり。

そうして結局、彼女は最後の最後で自分の望みを叶えている。―――リンに名前を呼ばせる事も、リンが張り巡らせていた壁を越えて、こうして彼の内側に踏み込む事も。

そうしてそれが決して不愉快ではない事に、リンは気付いてしまった。

呆然と見つめるの背中が、一瞬だけ身じろぐ。

それにどうしたのかとリンが視線を上げたその時、はふわりと長い髪をなびかせながら振り返って。

「・・・リンさん、ありがとう」

そう言ってにっこりと微笑んだに、リンは大きく目を見開く。

大量の水から庇ってくれた事も勿論嬉しかったけれど、何よりも名前で呼んでくれた事が一番嬉しかったから。

なんだかんだ言いつつも、それでも最後には譲ってくれるリンの優しさが嬉しかった。

それを申し訳ないと思う気持ちもあったけれど、今のにとってはそれが何よりもありがたかったから。

だから一言お礼を言いたいとそう思ったのだ。―――今のには、そうするしか感謝を表す術がなかった。

立ち尽くすリンにもう一度微笑みかけて、は先を行くナルを追いかける。

今までに見た事がなかったの笑顔。

まぶたの裏に焼きついたそれをそのままに、リンは手の中のミニタオルに視線を落とす。

髪を拭かれた時に香った甘い匂いを思い出し、僅かに目を細めた。

「おーい、リン!帰るぞ〜!!」

遠くで滝川の呼ぶ声が聞こえ、リンは顔を上げると止めていた足を踏み出す。

から強引に手渡されたミニタオルを、コートのポケットへと乱暴に押し込んで。

胸の中にあふれ出す不可解な・・・けれど決して不愉快ではない感情を持て余しながら、リンは冷たい空気を切るように颯爽と歩き出した。

 

 

数日後、SPRの事務所には、いつものメンバーが顔を揃わせていた。

「へ〜、そんな事件があったの」

「無事に解決して、ようおましたね」

いつの間にか此処でこうして顔を合わせるのが日常になりつつある。―――そんな中、先日の公園での事件に未参加であった綾子とジョンが、揃って感想を述べた。

そんな2人を見て、実際にその場にいたとしては、参加出来ない方が良かっただろうと心の中で独りごちる。

あんな状態の真砂子は一見の価値アリとは思うが、それにしたってあの出来事は精神的に酷く疲れた。―――まぁ、の場合は水を被らなかっただけまだマシなのだろうが。

「まぁ、今回は麻衣のお手柄ってトコかな」

そうして2人の言葉にそう返した滝川に、も無言でコクリと頷く。

麻衣がいなければ、あの場はもっと混乱していたに違いない。

最悪の場合、無理に除霊する事になっていたかも・・・―――そう思えば、浄化していった女を見たとしては、今回の決着は最良のものだったと思う。

しかし麻衣は滝川との賞賛にも表情を緩める事無く、不本意そうに頬を膨らませて。

「んー、あたしはいまいち納得できない」

「なんでよ?」

すぐさま返って来た綾子の問いに、麻衣は更に頬を膨らませる。

「だって、相手の男の人は結局なにも知らないままじゃない。あんな酷い事して何の罰も受けないなんて・・・ズルイ」

確かに麻衣の言う事も解る、とは麻衣に淹れてもらったお茶を口元へ運びながら頷いた。

それに綾子も反論する言葉が見つからないのか、「まぁねぇ・・・」と控えめに頷き返す。

しかし滝川はそんな3人を見て、言い聞かせるように指を立てた。

「んな事ないぞ。今すぐでなくても、その内しっぺ返しが来るって。因果応報っていうだろ?」

「・・・うー」

確かに滝川の言う事も一理あるが、だからといってそんなに簡単に納得してしまえるほど人の心は単純ではない。

目に見えたしっぺ返しがほしいというわけではないにしても、このままではあの女の霊があまりにも可哀想だと。

そんな麻衣を見やって、ジョンは困ったように柔らかく微笑んだ。

「その女の人にも、麻衣さんの優しい気持ち通じてはりますやろ。あんまり気にしはるとかえってよくないと思います」

「・・・うん」

ジョンの説得に、麻衣はまだ納得しきれない様子を浮かべながらも1つ頷く。

それを見ていたは、持っていたカップをテーブルに戻して、僅かに身を乗り出してニヤリと口角を上げた。

「だから、そんなに納得できないんだったら、私がその男のところに行ってたぶらかして捨ててきてあげようか?」

「何言ってんのよ。あんたみたいな小娘がそんな高等技使えるわけないでしょうが」

言外に「それならアタシの方が適任でしょ?」と告げている綾子を尻目に、は呆れたような表情を浮かべた。

何故、張り合う。

「そうかなぁ?結構いけると思うんだけど。―――私って結構年上にモテるタイプみたいなんだよね。電車とかでも大学生とかその辺りに声かけられる事多いし」

「物好きもいたもんねぇ・・・」

「だよねぇ!」

そこは決して笑うところではないと思うのだけれど・・・―――そう半ば呆れながらも、綾子はチラリと横目で難しい顔をする青年を見やる。

の言い分も、あながち否定できないかもしれない。

何せ現在進行形で、年上の男から想いを寄せられているのだから。

まぁ、今のにはまだまだ恋愛事は無縁のような気もするけれど。

そんな考えを頭の隅へ押しやり、綾子は今もまだ暗い顔をしている麻衣へと視線を向けて。

「そーよ、本人が納得して成仏したんだからいいじゃない」

「そうかなぁ・・・?」

結局はそれがすべてなのだとそう言い聞かせるように告げれば、それでも麻衣は漸く納得したのか首を傾げながらも息を吐いた。

空に解けていった女の姿。―――確かにそれは、すっきりとしたように見えたから。

「お前はいいな、作りが簡単で」

「ちょっと、どーゆー意味!?」

しかし納得した麻衣とは反対に、別のところで戦いが勃発したらしく、相変わらず飽きる事がないのかぎゃあぎゃあと言い合いをする滝川と綾子を横目に、は再びカップへと手を伸ばす。

それと同時に軽い鈴の音が聞こえ、お客かと視線をドアへと向けた麻衣は、現れた人物の姿に僅かに頬を引き攣らせた。

「こんにちは。―――あら、皆さんおいででしたの。ナルはいます?」

やっぱり第一声はそれかよ・・・と心の中で独りごちながら、それでも麻衣は愛想笑いを貼り付け口を開く。

「また仕事の話・・・?」

「いいえ、お茶にお誘いしようかと思いまして」

しかし麻衣の問いにさらりとそう答えた真砂子に、は伸ばしかけた手をピタリと止めた。

「えー?無理よ、無理。行くわけないじゃない、あのナルが!」

「そ、そうだよ。仕事でもないのに・・・」

「そんな事ございませんわよ」

野次を飛ばす綾子の言葉に背中を押された麻衣が、引き攣った表情のままそう返すけれど、しかし真砂子には一切動じた様子はない。

それどころかにっこり笑顔まで浮かべる真砂子を見て嫌な予感を感じ取ったは、咄嗟に彼女へと手を伸ばした。

「ちょっと、ま・・・!!」

「あたくし、何度かご一緒しましたもの。映画やコンサートに」

しかしの制止もむなしく、真砂子の口から衝撃的な言葉が飛び出す。

ピシャーンと稲妻が走ったような錯覚を覚えながら、は咄嗟に真砂子へと伸ばした手をパタリと落とし、疲れ果てたように肩を落とす。

この収拾をどうやってつけろってんだ、このヤロウ。

奇妙なほどに静まり返った室内でそう独りごち拳を握り締めたその時、まるでタイミングを見計らったかのように所長室のドアが開かれた。―――おそらくナルにとっては、最悪のタイミングだったのだろうが。

「いい加減にしてもらえませんか!ここを喫茶店がわりにするなと何度・・・!!」

「こんにちは」

あまりの騒がしさに怒り心頭で顔を出したナルは、しかしにこやかな笑顔で挨拶を向けた真砂子を目に映した途端口を噤んだ。

その正直すぎるといえば正直すぎる反応をおかしく思いながらも、はソファーに座りなおして2人を傍観する。

こうなれば、ナルがどういう対応をするのか興味が湧いてくる。―――もっとも、彼の取る行動など予想できていたが。

「・・・麻衣、僕はちょっと出てくる」

「ま、でしたらお供しますわ」

「結構です、ごゆっくり」

先ほどは喫茶店代わりにするなと怒鳴った人物の発言とは思えない。―――そのままコート掛けに手を伸ばすナルに、しかしめげる事無く真砂子は手を伸ばして。

全員が頬を引き攣らせる中、ナルの腕に手を絡めた真砂子は、にこやかに微笑んだ。

「ご一緒させてくださいませ」

この世の中で、真砂子ほどの美少女にこう申し出られて断れる男が一体何人くらいいるだろうか?

そんな事を他人事のように思いながら、は何食わぬ顔でお茶をすする。―――おそらく、ナルはそんな男に入る者だとは思うのだけれど。

しかし相手が悪かった。―――今はそう言わざるを得ないだろう。

案の定、ナルはそれ以上断りの言葉を入れる事もなく、諦めたのか深い深いため息を吐き出しドアへと向かう。

勿論、真砂子の手はナルの腕に絡んだまま。

「ごめんあそばせ」

そう勝者の笑みを浮かべたまま、事務所を出て行く真砂子の後姿を見送って・・・―――そうして扉が閉まった頃、漸くその場にいた全員が我に返った。

「・・・なぁ、麻衣。ナルは真砂子に弱みでも握られてんのか?」

カランカランというドアベルの余韻を聞きながら、滝川は横目で麻衣を見やりそう問いかける。

「弱みぃ!?ナルに?」

「えっ、いや、だって今の・・・。こ、こないだの事件の件とかさ」

しかしすぐさま振り返って食いつくように声を上げた麻衣に、滝川はビクリと肩を震わせと惑いつつも言葉を続けた。

それを聞いて、ジョンも同じく首を傾げつつ口を開く。

「そういえば、渋谷さんらしくないですね」

「だろー?なぁ、前から聞きたかったんだけど、ナルってほんとにここの所長なのか?」

ジョンの援護を受けた滝川は、調子を取り戻して更にそう問いかける。

その問いに、麻衣はきょとんと目を丸くして。

ナルがここの所長かどうか?―――そんなもの、今更聞くまでもないと思うのだけれど。

「・・・そうだよ」

「オーナーとかいないのか?」

「いないよ。なんで?」

「なんでって・・・。お前、ここの家賃いくらすると思う?」

矢継ぎ早に質問され、麻衣はきょとんとしながらも1つ1つ律儀に答えていく。

一体何が聞きたいんだと更に首を傾げたその時、話を聞いていた綾子が納得したように頷いた。

「そうよねー。仮にも渋谷でしょ?ビルも新しいし、この広さだし」

「おまけにあの機材だ。高感度カメラ一台の値段は?」

言われて、麻衣は思い出したくない過去を思い出す。

その高感度カメラを壊した為に、麻衣はナルの手伝いに狩り出されたのだ。―――今となっては、それに感謝していたりもするのだけれど。

その高感度カメラのお値段、およそ×百万円なり。

「そうだよね〜。高感度カメラだけじゃなくて、ここには暗視カメラとか集音マイクとか山ほどあるんだもん。そういうの詳しい人にとっては、宝の山だよね〜」

お茶を飲みつつそう呟くに、漸く麻衣も滝川が何を問いたいのかを理解した。

渋谷のビルの家賃がどれほどのものなのかは想像がつかないけれど、ここにある機材の数くらいは大体把握している。

それらを全部合わせれば、一体いくらになるか想像もつかない。―――なのにどうして、ナルはそんな機材を山ほど抱えているんだろうか。

「パトロンでもいるのと違いますか?」

全員がそんな疑問を思い浮かべたその時、なんとも見事なタイミングで発せられたジョンの言葉に、思わず紅茶を口へと運んでいたは思いっきりそれを噴出した。

ゲホゲホとむせながら浮かんだ涙を拭えば、ジョンが不思議そうに目を丸くしている。

「お前な・・・」

同じくずっこけていた滝川が恨めしげにそう口を開くが、しかしジョンは至極真面目な面持ちで口を開く。

「けど、欧米やったらようあることです。超心理学ゆうのはまだ理解されない学問ですから、どこの研究所も後援者がいるのが普通やし、大きな財団が後援してるとこかてあります。博士号や教授職を作ってる財団かて・・・」

「・・・ジョン」

つらつらと語るジョンの肩に静かに手を置いて、滝川は1つ深呼吸する。

ジョンは何も悪くない。―――悪くないのだけれど、しかしこれだけは教えておかなければならないだろう。

「日本でパトロンつったらすこーし意味が違うんだわ、覚えといて。あんだすたーん?」

「・・・はぁ」

やはり不思議そうに首を傾げるジョンが本当に理解しているのかどうかは怪しいところだけれど、しかしこれで聡明なジョンがむやみにパトロンなどという言葉を口にする事はないだろう、おそらく。

「しかしその線は悪くないな。後援者がいたとして、それが真砂子の父親とか・・・」

「だったら真砂子の誘い断れないもんね」

そうだったらいいなという想いを込めて呟く麻衣を横目に、は改めて紅茶を口へと運んだ。―――当たらずとも遠からず、というところだろうか。

「ナルが実はお坊ちゃまって事もあるわよ」

さりげなく付け加えられた綾子の言葉に、全員が考え込む。

考えれば考えるほど解らなくなってきた。―――そして考えたからといって解る問題でもないような気がする。

そう判断した滝川は、早々に考える事を放棄して、立ち上がりざまに麻衣へと声を掛けた。

「ま、いっか。―――おい、麻衣。まだ仕事あんの?」

「ん?んーん、今日は特に何も・・・」

「んじゃ、映画でも行くか。奢ってやるよ」

「ほんとー!!」

滝川の誘いに、麻衣は身を乗り出す勢いで声を上げる。

流石にさっきの今だ。―――あんな場面を見せ付けられては、同じくナルに恋をする少女にとってはつらいだろう。

いつも元気な麻衣に落ち込まれるのは堪えるのだ。

出来るならば、いつも笑っていて欲しいとそう思う。―――まぁ、現実問題としてそういうわけにもいかないのだろうが。

そんな滝川の想いを読み取って、カップをテーブルに戻したはやんわりと微笑む。

滝川と同じように、もまたそう思っているのだ。

「ぼーさんってば太っ腹!よっしゃ!麻衣、何の映画見る〜?」

「・・・別にお前の分まで奢るなんて言ってないんですけど」

「今って何の映画やってたっけ〜?」

滝川のささやかな抵抗をさらりと流して、は何食わぬ顔で麻衣へと笑いかけた。

この機を逃してなるものか。―――人のおごりで見る映画は、自分でお金を出して見る映画よりも面白いに違いない、きっと。

そんなはしゃぐ2人と、しかしまんざらでもない様子でそれを見つめる滝川を交互に認めて、綾子は呆れ混じりにボソリと呟いた。

「アンタがロリコンだとは知らなかったわ」

そんな綾子の嫌味のこもった発言にいつもなら食いつくはずの滝川は、しかしこちらもフッと嫌味な笑みを浮かべて一言。

「なんとでもおっしゃい。おデートの相手もいないくせに」

「なぁんですってぇ!い、いるわよここに!―――ジョン、いらっしゃい!おねーさんが奢ってあげるわよ!!」

「えぇ!?」

問答無用で腕を捕まれ、ジョンは戸惑いの声を上げる。

それでもきっと彼は綾子に連れられるまま映画館に連れて行かれるのだろう。―――そんなジョンの優しさが目にしみる・・・と、は涙を拭うマネをする。

そんな騒がしい中、何の前触れもなく普段は滅多に開く事のない資料室の扉がガチャリと音を立てて開いた。

「こんにちは、リンさん」

室内の騒がしさに流石に頭にきたのか、はたまたただ資料を取りに来ただけなのか・・・―――おそらくは後者だろうと判断を下して、は姿を見せたリンへと視線を向けて朗らかに挨拶を投げる。

それに軽く会釈だけを返したリンに、しかしはめげる事無く声を掛けた。

「これからぼーさんのおごりで映画見に行くんだけど、リンさんも一緒にどう?」

「いえ、私は結構です」

至極あっさりと返された言葉。―――しかし予想済みだったそれには1つ笑って見せて。

「そう?んじゃね、リンさん」

たまには付き合いも大切だよ〜と、余計なお世話ですと返ってきそうな言葉を投げ掛けて、他のメンバーと共にドアへと向かったは、しかし不意に自分を呼び止めるリンの声に気付き振り返った。

「・・・どうしたの?」

「・・・・・・いえ」

まさか呼び止められるとは思っていなかったが首を傾げて問いかければ、しかしリンはしばらくの沈黙の後小さくそう呟く。

それに訝しげな表情を浮かべたは、それでも何も言わずに「・・・そう?」と返し微笑む。

本当のところはリンが何を言いたかったのか気になるところではあるけれど、こうなってしまえばきっと彼は何も言わないだろうと簡単に想像できて・・・―――そうしてきっと想像通りなのだろうと口を噤んだ彼を認めてそう判断したは、それ以上何を言うでもなく笑みを零した。

、何やってんの!?さっさと行くわよー!!」

「解ってるって!―――それじゃあ、リンさん。またね」

自分を呼ぶ綾子の声に返事を返し、そうしてリンへと振り返ったは軽く手を振って踵を返した。

カランと、小さくドアベルが鳴る。

少しづつ遠ざかっていく小さな足音。

それが完全に聞こえなくなった頃、リンは小さくため息を吐き出しながらスーツのポケットからミニタオルを取り出した。

捨ててもいいと、彼女は言っていた。

見れば材質もそれほど高価なものではないし、きっと言葉通り捨ててしまっても彼女は困ったりはしないだろう。

けれどどうしても捨てる事が出来なかったそれは、しっかりと洗濯をされた状態でリンのポケットに収まっていた。―――いつか返す日が来るだろうと、そう思って。

しかしそのチャンスがあった今、どうして返す事が出来なかったのか・・・。―――そんな自分を思うとなんとも情けなく感じられて、リンはもう一度ため息を吐き出す。

別に今の機会を逃したところで、これから返すチャンスがないわけではない。

きっとこれからも仕事があれば、彼女と会う機会もあるだろう。―――その時に返せばいいだけだ。

リンは自分にそう言い聞かせて、ミニタオルをもう一度ポケットに収めなおすと、目的の資料を手にする為に資料棚へと足を向ける。

窓の向こうから、少女の楽しげな笑い声が聞こえた気がした。

 

 

◆どうでもいい戯言◆

これはもう本当に、最初は普通のお話だったにも関わらず、なんともいわくつきのお話になってしまいました。

詳細は日記の方で書く予定ですが、本当にもうコメントのしようもないというか。(ワケがわかりませんが)

とりあえず『公園の怪談』後編をお送りしました。

リンがどことなく彼らしくない気もしますが・・・。

作成日 2007.12.9

更新日 2007.12.9

 

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