あの日。

恐怖に満ちた支配から逃れる事が出来た人々が歓喜の声を上げた、あの日。

私は、たくさんのものを失った。

 

 

長い長い戦いだった。

それこそ私の物心が付く前から始まっていた戦いだ。

闇の帝王の支配。

それから逃れる術などなく、多くの人々が迫り来る恐怖にただ怯えていた。

いつ終わりが来るとも知れないそんな日々は、しかしある日唐突に終焉を迎える。

それをもたらしたのが、まだ物心もつかない幼子だというのだから、何が起こるか解らないものだ。

多くの闇祓いが命を落とし、それでもどうする事も出来なかったというのに・・・。

「・・・様」

漸く帰宅できた私は、何をする気力もなくただソファーにその身を預ける。

傍らでセルマが心配そうに私を見ていたけれど、それに答えてやれるだけの気力は今の私にはなかった。

突然の終焉。

それがもたらしたものは、何も喜びだけではなかった。

否、大多数の人々にとっては歓喜以外の何者でもないだろう。―――ただ、私にとってはそうではなかったというだけの事。

闇の帝王の失脚が残念だったわけではない。

私もまた、闇祓いとしてその為に戦っていたのだ。―――それ自体は、喜ばしい事には違いないのだけれど。

「・・・あっけないものだな」

足元に転がるトランクを一瞥して、私は小さく独りごちた。

本当にあっけないものだ。

事後処理は面倒なものばかりだったけれど、すべて終わってみれば本当にあっけない。

様・・・」

掛ける言葉が見つからないのか、セルマが戸惑ったように私の名を呼ぶ。

それに沈みかけていた意識を手繰り寄せ、視線を上げたその時だった。

小さく軋む音が聞こえ、上げた視線をそちらへと向ける。―――するといつの間に入ってきたのか、リビングの扉の傍でリーマスが無言のまま立ち尽くしているのが見えた。

「・・・リーマス?」

本当に、いつの間に入ってきたのだろうか。

自分でも気に聡い方だとは思っていたが、まったく気付けなかった。

それはリーマスが気配を消す事に長けているのか、はたまた私の注意力が散漫だったのか。

今の自分の状態を思えば、どちらとも判断が付きかねた。

「どうした、リーマス。そんなところに立っていないで、こちらに来たらどうだ?」

視線が合ってもまったく動こうとしないリーマスに、私もまた身体を起こす事無くそう問い掛けた。

今は指一本動かすのも億劫だ。

幸いな事に、リーマス相手に気構える必要もない。―――長い付き合いに甘えてそのまま視線を投げ掛けると、しばらく迷った素振りを見せながらもリーマスはゆっくりと口を開いた。

「・・・。魔法省を辞めたんだって?」

「情報が早いな。・・・誰から聞いた?」

「・・・・・・」

「大方、魔法省から説得してくれとでも泣きつかれたか?―――こんな時ばかり調子がいいと、放っておけばよかったのに」

リーマスは、その生い立ちからあまり扱いが良いとはいえない。

こんな時ばかり彼を頼るのはお門違いだ。

そう言ってやればいいのに・・・―――それでも彼に白羽の矢が立ったのは、間違いなく私のせいなのだろう。

そう思えば、申し訳ないという気持ちも浮かんでくるけれど。

しかしそう言った私に、リーマスはゆるゆると首を横に振った。

「放ってなんて置けないよ」

「・・・・・・」

「放ってなんて置けるはずないだろう?闇祓いは、君の夢だったんだろう?ご両親と同じ職に就くのが目標だって、あの時言ってたじゃないか」

まだホグワーツにいた頃。

進路を決めるあの時に、確かに私はそう言った。

あまり共にいる事は出来なかったが、私は両親を・・・そして両親の仕事を尊敬している。

だからこそ、私自身もその職に就く事を望んだ。―――私自身の、意思で。

それも今となっては、過ぎた事だ。

辞める際の事後処理は面倒極まりなかったが、それもすべて終わった。

今の私は、何に縛られる事もない。

その事実に僅かに口角を上げた私を認めて、リーマスは先ほどよりも厳しい口調で言葉を続けた。

「なのに、どうして闇祓いを辞めたの?」

「・・・辞めてなどいないさ。たとえ公に赦されてはいなくとも、私は闇祓いだ」

「そういう事を言ってるんじゃない。―――君だって本当は解ってるんだろう?」

もちろん、リーマスの言いたい事がなんなのか、それが解らないわけじゃない。

彼の言いたい事など聞かずとも解っている。

ただそれを口に出したくはないだけだ。

それを解っているはずだというのに、けれどリーマスは言葉を紡いだ。

「・・・シリウス、だね?」

尋ねる形ではあるけれど、断定的なその声色に、私は言葉を返す事無く苦笑を浮かべる。

リリーとジェームズがヴォルデモートに襲われたという情報が私の元へ届いたのは、もうすべてが終わった頃だった。

別の場所で闇の魔法使いと対峙していた私は、その場にすぐに駆けつける事が出来なかった。

何よりも大切だったのに。

他の何を犠牲にしても守りたかったはずなのに・・・―――それなのに私は、その大切なものを何一つ守る事が出来なかった。

そうして私が慌てて帰還した頃には、既に事態は取り返しのつかないものへと発展していた。

リリーとジェームズを売ったのが、他でもないシリウスなのだという事。

リリーとジェームズの死に逆上したピーターが、2人を陥れたとされるシリウスへ戦いを挑み、そうしてそのシリウスがマグルをも巻き込んで彼を殺害した事。

あまりにも現実離れした報告に、思わず言葉も出なかった。

伝え聞く話は、あまりにも私の知るシリウスとは別人のようであったからだ。

何かの間違いに違いないと思った。―――否、そうであると疑いもしなかった。

けれどすべては私の手の届かないところで進んでいく。

捕らえられたシリウスは、碌な裁判もされずにアズカバンへと収容された。

何かの間違いだと訴えても、誰も聞き入れてはくれない。

誰もが、シリウスの裏切りを疑わなかった。―――彼をよく知る、リーマスでさえも。

まるで、悪い夢でも見ているようだった。

それでも、だからといって諦める事など出来ない。

このまま無実の罪で、シリウスをあの場所へ放り込んでおくわけにはいかない。

ただそれだけを胸に、私は抗議を続けた。

裏切りの疑いが拭えないのならば、正式な場で調査・裁判をするべきだと。

しかし、私のその訴えが認められる事はなかった。

そうして数年が過ぎ、誰もがあの忌まわしい事件を記憶の奥へと押し込めたその頃、私は絶望と共に足掻く事を諦めたのだ。

もう、すべての気力を使い果たしてしまった。

その一番の理由は、当事者であるシリウスが何の抗議もしなかった事だ。

どうしてシリウスが何も語らないのか、その理由は私には解らない。

けれどシリウスがリリーとジェームズを売ったなどという事実だけは間違いだと信じていた。―――他のどんな罪を犯そうとも、それだけはしないという自信が私にはあった。

けれどもう、疲れてしまったのだ。

だから私は、最後の抗議として魔法省を辞めた。

散々引き止められはしたけれど、決意は揺らがなかった。

もう、あの場所にいたくはなかったのだ。―――聞きたくなどない言葉ばかりが溢れる、あの場所には。

・・・!」

「もう、終わった事だ」

尚も言い募るリーマスへとキッパリ言い放ち、私は静かに瞳を閉じた。

あの日、私はたくさんのものを失った。

だからせめて、僅かに残ったものだけでも守りたかったのだ。

シリウスの無罪。

それを信じる心だけは、絶対に失いたくはなかった。―――たとえ、闇祓いという職を失ったとしても。

、考え直してくれないか?シリウスはもう・・・」

「聞きたくない」

キッパリと言い放ち、ため息を吐き出す。

聞きたくはない。―――リーマスの口から、シリウスの裏切りを信じる言葉など。

私は、私に残された僅かなものを守り通す。

たとえそれが、どれほど愚かだと言われようとも。

 

 

                     誰の言うことも聞かない

私が聴くのはお前の言葉だけだ

(だからどうか、お前の口から否定の言葉を聴かせてくれ。―――シリウス)

 


ハリー・ポッター。

闇の帝王が敗れたその後、彼女の手に残ったのは。