ふと気が付くと、は崑崙山にいた。

玉虚宮から少しだけ離れた場所にある、彼女のお気に入りの場所に。

すぐにこれが夢なのだと察した。―――なぜならは今、金鰲島の、王天君の亜空間内に閉じ込められているのだから。

どうせなら、夢だという認識などしたくはなかった。

これが夢なら・・・せめて夢の中でだけでも、穏やかな現実を感じさせてくれれば良かったのに。

空を見上げれば、雲ひとつない青空。

風は暖かく穏やかで・・・まるで封神計画が始まる以前の日常に戻ったかのよう。

不意に背後からジャリと土を踏む音が聞こえ、振り返ると。

そこには太公望がいて。

けれども彼は、昔のような笑顔を浮かべてはいなくて。

ただただ、悲しげな・・・どこか辛そうな表情を浮かべて、を見つめている。

「・・・・・・望」

どうして、そんな表情をしているの?

一体何があったの?

何がそんなに悲しいの?

心の中でひっそりと問い掛ける。

答えは聞かなくとも、分かっていたけれど。

 

この世界で一番大切なもの

 

ガクン、と頬杖をついていた腕から頭が落ちて、目が覚めた。

ぼやける視界で辺りを見回しても、ここに来た時からまったく変わらない暗闇が続くばかりで、は大きくため息を吐いた。

やはりさっきのは、夢だったのだ。

分かってはいたけれど・・・―――どことなく残念な気分になるということは、やはり分かっていなかったという事だろうか?

ここに閉じ込められてから、どれくらいの時間が経ったのだろう?

ずいぶん長い時間が経ったようであり、しかしそれはすごく短い時間だったようにも感じる。―――何の変化もないこの空間で時間を計るのは、思ったよりも難しかった。

何もする事がなく暇だったので、いつも通り昼寝でも・・・と思ったが、どうやら後味の悪い夢を見せられてしまったようだ。

先ほどの太公望の表情が、脳裏に過ぎる。

彼のあの表情は、おそらく本人に向けられたものだろう。

そしてそれに心当たりはあった。

には太公望にさえ話していない事がたくさんある。

別に隠しているわけではない。―――ただ聞かれなかったし、わざわざ自分から話したいと思うような内容ではなかった為、黙っていただけの話だ。

他の誰にも知られたくなくとも、太公望にだけなら話しても良いかな・・・と思っていた。

しかし彼は聞いてこなかった。

何か思うところがあるのだろうか?―――聞きたそうにはしていたけれど、それを実行に移したことは、今までに一度もない。

フウ・・・と小さく息を吐いて、縮こまるように膝を抱えた。

と王天君の関係は、それほど特別なものではない。

王天君の本当の名前は、王奕。

太公望同様、兄弟弟子・・・という間柄だ。―――いや、『だった』というべきか。

今からだいぶ昔、元始天尊が崑崙山に1人の少年を連れてきた。

どこか不思議な雰囲気を持った少年で、『こいつ誰だ?』とか『なんか胡散臭い』とか『元始天尊のやつ、何を企んでるんだ?』とかいろいろ思ったりしたが、昔から積極的に人と関わる性質ではなかったは、兄弟弟子と言えどもそれほど関わったりしなくて。

それなのに、いつからだっただろうか?

気が付けば馴染んでいたような気がする。―――気が付けば、彼はもうの隣にいた。

それは違和感なく受け入れる事が出来た。

あまり人を寄せ付けない性質のにとって、王奕は数少ない大切な人になった。

はそんな自分自身に、正直驚いていた。

は昔から、大切なものばかり失ってきていたのだから。

かけがえのない唯一のモノ。―――絶対に失いたくない何か。

それは必ずと言っていいほど、まるで両手に掬った水のように零れ落ちていった。

どうしてなのだろう?

どうして大切なものほど、簡単に壊れてしまうんだろう?

そんな経験を繰り返しているうちに、ふと思うようになった。

大切な人を失いたくないのなら、大切な人を作らなければいい。

その思い通り、は人に深く関わらなくなっていった。

彼女の思惑通り、人を失う辛さは感じなくなっていた。―――その代わり、人と接する楽しさや嬉しさも、感じなくなったけれど。

は臆病になっていたのだ。

そんなの心の中に、いつの間にか入り込んでいた王奕。

大切な誰かを作ることのほんの少し恐怖は、いつしかそれを覆い隠すほどの楽しさや嬉しさにかき消されていた。

しかしそんな幸せな日々も長くは続かなかった。

再び、失う時が来たのだ。―――久方ぶりに出来た、大切な人を。

ある日、金鰲島を統べる通天教主が崑崙山を訪ねてきた。

崑崙と金鰲は、すこぶる仲が悪い。―――何か余程のことでも起きたのだろう。

通天教主の話によると、ついに妲己が金鰲島を出て独り立ちしたらしい。

その際に金鰲島の仙人・道士の半数以上を引き連れていき、その上仙人界の奪取をほのめかしたと言う。

日に日に力を増していく妲己に、彼らは恐怖を抱いた。

もさりげなく妲己を討って欲しいというニュアンスを含んだ言葉を言われたが、気が付かない振りをしてあっさりと流した。

彼女にとって、妲己もまた数少ない大切な人の1人だったから・・・。

元始天尊と通天教主は仙人界を護るため、崑崙山と金鰲島に不可侵の条約を結び。

友好の証として、通天教主からは彼の息子・楊ゼンが差し出された。

そしてそれに習い、元始天尊が通天教主に差し出したのが・・・―――王奕。

当時の王奕は、現在の太公望と同じ立場に立つ者として育てられていた。

通天教主も『楊ゼンに劣らない能力を持つ王奕ならば』とすぐに納得し、条約は無事成された。

もちろんは反対した。

友好の証が必要ならば、自分が金鰲島に行くと。

しかしその時点ですでに元始天尊以上の力を持っていたの主張は受け入れられるハズもなく。

成す術もないまま、王奕は金鰲島へと連れて行かれたのだ。

その時から、は元始天尊を憎むようになった。

それが完全な逆恨みだとわかっていても。

それが上に立つ者として、おそらくは最良の決断なのだと理解していても。

は恨んだのだ。―――自分から、再び大切な人を奪った、彼を。

人間が金鰲島で・・・妖怪に囲まれて生きていくのは、そう簡単な事ではない。

今はどうかは分からないが、少なくとも昔は簡単な事ではなかったはずだ。

王奕が金鰲島でどんな扱いを受けたのか想像するしか出来ないが・・・おそらく想像以上の苦難があったのだろう。

それを、最近王奕・・・―――王天君に会って確信した。

昔の彼にあった不思議な・・・そんな雰囲気はもうなくなってしまっていたから。

「きっといろいろあったんだろうね。だからあんなに荒んじゃって・・・。柄悪いったらありゃしない・・・」

「そんなこと言って・・・。本人が聞いたら怒りますよ?」

誰に聞かせるわけでもなく、ただぼやくように言ったその言葉に思わぬ返答があり、は勢いよく顔を上げた。

声のした方へ視線を向ける。―――その視線の先にいたのは。

「・・・・・・とうとう気がおかしくなったのかしら?ありえないモノが見えるわ」

「大丈夫ですか?」

「これが現実逃避っていうのね。こんな幻を生み出しちゃうなんて・・・」

「寧ろそれが現実逃避ですよ」

独り言のようにぶつぶつとつぶやくに、その人物は律儀にも返答を返していく。

そしてとうとう頭を抱え込んでしまったを見て、その人物は深いため息を吐くと。

パァン!!

躊躇う事無く、彼女の後頭部を思いっきり叩いた。

「痛っ!!あんた今思いっきり叩いたでしょっ!?」

「私の話を聞きなさい。わざわざこんなところまで来てあげたというのに・・・」

放置されていたその人物は、少しだけ不機嫌そうな表情を浮かべ、そのままの隣に腰を下ろした。

「頼んでないし・・・。っていうか、あんた一体どこから来たわけ!?」

ようやくそうツッコミを入れたを見て。

その人物・・・―――申公豹は、満足気な笑顔を浮かべた。

 

 

のツッコミに『神出鬼没は私の信条ですから・・・』とあっさり答えた申公豹は、と同じように暗い虚空を眺めていた。

この男は一体何のためにここに来たのだろうか?と首を傾げたくなるくらい、申公豹は何もせずに黙ってそこに座っていた。

特に居心地が悪いわけではない。―――寧ろ申公豹がいることに、少しだけ心の中に余裕が出来たのも事実だったが、いつまでもこの状態のまま・・・というのもおかしい気がして、がとりあえず口を開きかけたその時。

「そうそう。貴方に伝えようと思っていたことがあったんです」

あっさりと申公豹が口を開いた。

この青年はいつもそうなのだ。

タイミングがいいというか、悪いというか・・・―――おそらくわざとやっているのだろうから、タイミングがいいというべきだろうか?

「・・・そう」

彼と付き合っていくには、もう気にしないのが一番だと察しているは、あえて何も突っ込まずに話しの先を促した。

「太公望は動力炉を壊すために、動力室に向かっているようですよ」

申公豹の口から出てきた思わぬ言葉に、は思わず身を乗り出した。

その反応に満足そうな笑みを浮かべた申公豹は、話を続ける。

「この金鰲島を崑崙山ともども落としてしまおうという算段なのですね。相変わらずやることがむちゃくちゃですが・・・。でもまぁ、それはそれで面白いので構わないでしょう」

構わないのか。―――と心の中でツッコミをいれてから、は少しだけ笑みを浮かべた。

やることが大胆で、しかし効果的なその方法。

最近の太公望は少しいつもの調子を失っているようだと思っていたが、どうやら調子を取り戻したらしい。

「楊ゼンは通天教主と接触したようですね。まぁすでに通天教主は正気を失っていますから、会話にはならないと思いますけど・・・」

「・・・・・・あんた」

「ああ、黄親子は雲霄三姉妹と一緒に十天君の一部と交戦中みたいです」

「・・・ちょっと!」

「それから他の仙人たちは、すでに崑崙に戻り治療を受けているようです。四不象の宝貝のパワーを食べる能力を使って、王天君のダニ宝貝の力を吸い取っている最中です」

慌てているなどお構いなしに話を続ける申公豹。

はただパクパクと口を動かしながらも、その話をただ聞いていた。

その話は、が知りたいと思っていた事ばかりだったから。

と離れてしまったせいで、そして王天君の亜空間に囚われてしまったせいで、一切の情報を絶たれてしまった

単身で金鰲島に乗り込んだ黄親子や、つい先ほどまで一緒にいた瀕死状態ぎりぎりの楊ゼン。おそらくはダニ宝貝に犯されている十二仙たちの安否。

そして一番心配だった、太公望の動向。

「他に知りたいことはありますか?」

人を食ったようなその笑顔に、はとりあえず重いため息を吐いた。

「もしかして・・・私に伝えたい事って、それ?」

「ええ、気になっていると思いまして・・・。まぁ、それだけじゃありませんけど」

後半のセリフが少し引っかかったが、それでも今一番欲しいと思っていた情報を持って来てくれた申公豹に、は微笑み返した。

「ありがとう、申公豹」

「どういたしまして」

意外とそっけないその返答に、は堪えきれずに小さく笑い声を上げた。

こういう時の彼は、照れているのだと知っていたから。

それにバツが悪そうな表情を浮かべた申公豹は、しかし気を取り直して、いつもとは比べ物にならないくらい真剣な表情での正面に立ち、そして彼女を見下ろした。

「・・・申公豹?」

「それで、貴方はこれからどうするつもりなんですか?」

その質問に、はハッと目を見開く。

それこそが、今まで散々と頭の中を駆け巡っていた問題そのものだったのだから。

「貴方が王天君の事を大切に思っているのは知っています。そして太公望の事を大切に思っていることも。それで、貴方はこれからどうしますか?」

和やかだった雰囲気は一気に吹き飛んで。

張り詰めたような空気を壊さないように、はゆっくりと瞬きをした。

「太公望と王天君は、すでに別々の道を歩いています。いずれ2人が戦う時もあるかもしれません。その時貴方はどうしますか?黙って見ていますか?それもいいかも知れませんね。生き残った側に付くというのも分かりやすくて」

「あんたね・・・」

呆れたような表情を浮かべるに、しかし申公豹は言葉を続けた。

「こうなってしまった以上、貴方はどちらかを選ばなければなりません。太公望を選べば王天君を失い、王天君を選べば太公望を失うでしょう。どちらも選ばない選択肢もありますし、全然別の第三者を選んでも構いません。しかしいつまでもこのままでは、貴方はいつまで経っても前に進むことは出来ませんよ?」

最もなその言葉に、は弾かれたように顔を上げ・・・そしてやんわりと微笑んだ。

申公豹の言う通りだ、と思う。

いつまでもこんな風にうじうじしていて、挙句の果てに罠に引っかかり捕まってしまうなんて、ずいぶん自分らしくない。

自分でもう決めていたのではないのか、と心の中で自分自身に問い掛ける。

何があっても、『太公望に生きていて欲しい』と思っていたのではなかったのか?と。

確かに王奕は大切な人ではあるけれど。

共に生きて行きたいと思うのは、太公望だけなのだと改めて思う。

「その様子だと、答えは出ているようですね。わざわざこんなところまで来た甲斐がありました」

申公豹はやんわりと微笑み、おもむろに踵を返して歩き出した。

「ちょ、ちょっと。帰っちゃうの?」

「ええ、もうここに用はありませんから」

来た時も突然なら、帰るのも突然なんだな・・・と思わず笑みが零れる。

「それよりも、貴方はいつまでここにいるつもりなんですか?ここから抜け出そうと思えば簡単に抜け出せるでしょう?」

不思議そうな申公豹に、はいつもの調子を取り戻し、言った。

「まだもうしばらくここにいるつもり。人を、待ってるから・・・」

「・・・人を?王天君のことですか?」

その質問に、はゆっくりと首を横に振った。

「ううん。もう1人の・・・この戦いの首謀者を、ね」

ポツリとそう言い笑うと、は申公豹の返事など気にも止めずに、膝を抱えてうずくまるようにして目を閉じた。

すぐにスースーという寝息が聞こえてくる。

「相変わらず、寝つきがいいですねぇ・・・」

ため息混じりに呟き、しかしいつも通りのに少しだけ安堵し、申公豹はそのまま亜空間内から脱出した。

再び暗闇の中に、静寂が戻ってくる。

聞こえてくるのは、の息遣いだけ。

完全に申公豹の気配がなくなった頃、はようやく顔を上げて。

「・・・ありがとう、申公豹」

穏やかな笑顔を浮かべ、消えそうなほど小さな声でポツリと呟いた。

は臆病になっていたのだ。

太公望に全てを話して・・・―――もしも彼が自分から離れていってしまったら、と。

真実を話せば、もう後戻りなど出来ないのだと分かっていたから。

そんなことをしなくても、もう後戻りなど出来はしないというのに。

だから曖昧な言葉でその場を取り繕い、冗談を言って話を逸らし。

しかしそれではダメなのだ。

臆病なのは罪なのだと知った。―――曖昧なのも。

結局がしてきたことは、太公望を傷つけるだけでしかなかったのだ。

夢に出てきた太公望の目は言っていた。

『どうして何も話してくれないのか?』と。

『自分では、頼りにならないか?』『自分の事を信頼してはくれていないのか?』と。

「ごめんね、望・・・」

ポツリと呟く。

それを合図に、の頬に一筋の雫が零れ落ちた。

けれども、もう迷ったりはしないと強く思う。

彼女の優先順位の一番上には、太公望がいるのだと気づいたのだから。

「早く会いたいな・・・、あんたに」

穏やかに微笑んで、はゆっくりと目を閉じた。

長い間止まっていた彼女の時間は、今ようやく動き出した。

 

◆どうでもいい戯言◆

申公豹、久しぶりの登場。(笑)

随分と久しぶりのような気がします。

封神演義の中でもかなり好きなキャラなので、もっと登場させたいとは思ってるんですけどね。

作成日 2003.12.12

更新日 2008.10.3

 

戻る