「・・・じゃあな」

そう言って去って行った敏夫の背中は、今でも鮮明に脳裏に焼きついている。

 

 

片手に鞄を提げて。

ジーンズにTシャツというラフな格好をして、私は目的地へ向けてぶらぶらと歩く。

高校を卒業して、私は村を出て都会の大学へと進学した。

別に都会に憧れていたわけではないけれど、この住み慣れた思い出のたくさん詰まった故郷から、少し離れてみたいと思ったのかもしれない。

結局は大学を卒業したと同時に、こうして外場村に帰ってきたのだけれど。

それだって、私にとっては最初から決めていた事。

大学を卒業したら、故郷に戻って両親の仕事を継ぐ。

それを求められていたわけではないけれど、幼い頃から漠然とそう思っていた。

そうして私は今、この外場村で納棺師として働いている。

まぁ、人口1300人ほどの小さな村で早々お葬式なんてあるわけもないから、普段は線香や蝋燭を置いた小さな店を構え、わりとのんびりと過ごしているけれど。

ちなみに、私の家業は葬儀屋じゃない。

そんな人手もないし、そもそも誰かを雇うつもりもない。

この村には弔組がいるのだから、あえて葬儀屋が必要というわけでもないし。

だから今の私は、お寺に雇われているという形で仕事をしている身に過ぎない。

そんな風に静かに穏やかに、私は毎日を過ごしていた。

傍からは退屈な生活に見えるかもしれないけれど、今の私には何の不満もない。

そうして、小さな幸せを感じながら毎日を暮らしてきたというのに・・・。

「やぁ、ちゃん」

特別急ぐでもなく舗装されていない道をぶらぶらと歩いていた私は、不意に掛けられた声に顔を上げた。

グルリと視界を巡らせれば、少し離れたところに武藤さんの姿が見える。

にっこりと笑顔を浮かべて手を振る彼に軽く手を振り返すと、武藤さんはわざわざ乗っていた車から降りて私の元まで歩み寄った。

「散歩かい、ちゃん?」

「ええ。散歩がてら、ちょっとお寺までね」

「寺?―――ああ、若御院のところか」

「借りていた本を返そうと思って」

私の言葉に、武藤さんは心得たとばかりに頷く。

この村で、私たちが幼馴染だという事を知らない人はいない。

だから私がお寺に行くといっても、不思議がられた事は1度もなかった。

「それよりも、武藤さんは?こんなところで何をしてるの?今って、仕事中じゃ・・・」

「ああ、俺は明日の手伝いに狩り出されて・・・―――って、そうだ!ちゃん、知ってるか?」

むしろこんな時間にこの場所にいる武藤さんの方が不思議だと私がそう問いかけると、武藤さんは何かを思い出したようにパッと笑顔を浮かべて。

何が?と問いかける私に向かって、それはそれは嬉しそうに口を開いた。

「明日、敏夫くんが家に戻って来るんだよ。しかも、なんと!お嫁さんを連れてさ」

身振り手振りを加えてそう話す武藤さんを見つめて、私はやんわりと微笑む。

完全に戻るんじゃなくて、ご両親にお嫁さんを会わせる為だけの帰郷らしいんだけどさ・・・とそこまで一気に話して、けれどあまり食いつかない私に気付いたのか、武藤さんは不思議そうに首を傾げた。

ちゃん、あんまり驚かないんだな」

「だって、知ってるもの」

武藤さんの問いかけに、私はさらりと一言。

こんな小さな村で、唯一の病院の跡継ぎがお嫁さんを連れて帰ってくるなんて絶好のネタ、この村の人たちが逃すはずなんてないもの。

今日ここで武藤さんに会うまで、何人もの人がその話に花を咲かせている場面を見た。

それに・・・―――私たちは、幼馴染なんだもの。

「昨日の夜、敏夫から連絡があったの。明日帰るぞ、って」

「ああ、なんだ。そっか、そりゃそうだよな」

「まぁ、突然お嫁さんを連れてくるって聞いた時は流石に驚いたけど」

そう言って小さく笑えば、武藤さんも豪快な笑みを浮かべた。

みんながみんな、敏夫の結婚を自分の事のように喜んでいる。

彼が医者としてこの村に帰ってくるわけではないのに・・・―――けれど村の人たちは、将来は敏夫を先生と呼ぶだろう事を疑ったりはしていないのだろう。

だからこそ、喜ぶ。

将来この村の健康を守るだろう人間が、結婚し子を成すだろう事を。

「あっと、いけね。準備の途中だったんだった」

ぼんやりとそんな事を考えていた私の耳に、武藤さんの慌てた声が聞こえる。

それに問いかけるように視線を投げれば、それを受け取った武藤さんはにっこりと太陽のような笑顔を浮かべて。

「明日の準備だよ。敏夫くんが帰ってくるってんで、盛大に宴会するんだってさ」

「・・・へぇ」

みんなのその嬉しい気持ちも解らなくはないけど、お嫁さんは都会の人なんだから、そういうのは合わないんじゃ・・・。

そう思ったけれど、嬉しそうな武藤さんの顔を見ているととても言えなくて、私は無難な笑顔を浮かべて相槌を打った。

今更私が何を言ったって、事が収まるとは思えないし。

これもこの村の特徴だと、敏夫のお嫁さんには受け入れてもらうしかない。

「じゃあな、ちゃん。明日楽しみにしてろよ」

武藤さんはそう言い残して、停めたままになっていた車へと駆けていく。

そうしてクラクションをひとつ鳴らして走り去っていく車を見送った私は、浮かべていた笑みを消して小さくため息を吐き出した。

おめでたい話に、村中が浮き立っている。

それは喜ぶべき事なのに、それとは反対に私の心はどんどん暗い方へと沈んでいくような気がする。

「・・・結婚、か」

小さく小さく漏らした言葉は、思っていた以上に胸の中で重く淀んだ。

 

 

「こんにちは〜」

「あら、いらっしゃい、ちゃん」

玄関でそう声を掛ければ、おばさんが笑顔で出迎えてくれる。

静信のお母さんは、いつも綺麗だ。

一体幾つくらいなのかは聞けないけれど、昔からほとんど変わっていないように見える。

静信のあの穏やかな優しい雰囲気は、きっとおばさん譲りなのだろう。

「静信なら部屋にいるわ。どうぞ、上がって」

「お邪魔します」

小さい頃から馴染みのある室井家をおばさんに勧められ上がり、勝手知ったるなんとやらで静信の部屋へ向かう。

そうしてノックをひとつすれば、扉の向こうからは聞き慣れた声が聞こえた。

「おじゃまします」

「・・・?」

突然の私の訪問に驚いているらしい。

こうして何の連絡もなく来るなんて、今までの私にはなかった事だから・・・―――それでも静信は向かっていた文机から立ち上がり、私を部屋へ入るように促した。

「どうしたの、突然・・・」

「突然来られたら迷惑?」

「いや、そんな事はないけど・・・」

私の意地悪な言葉に戸惑いを見せる静信を認めて小さく笑みを零した私は、持っていた鞄から借りていた本を取り出し、それを静信へと手渡して。

「借りてた本を返そうと思って」

「ああ、別にいつでも良かったのに・・・」

「だから今日返しに来たの」

あっさりとそう言い返して、私はさっきまで静信が座っていた文机へと歩み寄った。

そこにはたくさんの本と、たくさんの原稿用紙。

それを認めて、私は改めて申し訳ない気持ちになって今もまだ立ち尽くす静信へと振り返った。

「ごめんなさい、仕事の邪魔しちゃったかしら?」

「いや、そんな事ないよ。今日は資料を纏めてただけだから。―――それに、少し休憩しようと思っていたところだったんだ」

あくまで気遣いそう言ってくれる静信に、私はやんわりと微笑む。

静信は、優しい。

いつだって私を気遣ってくれる。

だからだろう。―――ダメだと思っているのに、それでも彼に甘えてしまうのは。

「・・・原稿、出来たら読ませてね」

「勿論。編集よりも厳しい君から合格点を貰わない事には、安心して担当に渡せないよ」

冗談交じりにそう言って笑う静信に心がフッと軽くなる。

けれど、これから口にしなければならない言葉を思うと、気分が重くなるのも事実だった。

きっとそれを言えば、静信は困ったように眉を寄せるのだろう。

「それで・・・どうしたんだ、今日は。本当に本を返す為だけに来たわけじゃないんだろう?」

ほら、やっぱり。

静信にはすべてお見通しだ。

隠そうとしても、きっと隠し切れない。

「・・・実は、静信にお願いがあって」

「・・・お願い?」

「これを・・・」

訝しげな表情を浮かべる静信から視線を逸らしながら、私は再び鞄へと手を運んで。

そうしてそこから取り出したご祝儀袋を差し出して、俯いたまま小さく笑った。

「敏夫に、渡しておいて欲しいの」

「僕から・・・?」

静信の探るような問いかけに、私は無言のままひとつ頷いた。

「明日・・・敏夫には会いに行かないの?」

「明日は少し・・・用事があって。大学時代の友達と会う約束をしているの。久しぶりだから、どうしても断れなくて。だから・・・」

「・・・・・・」

つらつらと用意していた言い訳を並べ立てる私をジッと見つめながら、静信はひとつため息を吐き出した。

解ってる。

こんなの、言い訳にすらならないって。

無言のままの静信を前に、居た堪れず唇を噛む。

それでも、どうしても顔を上げる事は出来なかった。―――こんな顔、見られたくない。

「・・・

「・・・・・・」

「・・・、顔を上げて」

優しく諭すように言われても、どうしてもそれに従えない。

解ってる。―――自分がどれだけ、馬鹿な事を言っているのかは。

だから、どうかお願い。

これ以上何も言わずに、これを受け取って。

「・・・

けれど静信は私のそんな思いを打ち破るように口を開いた。―――今回だけは、どうしても見逃してはくれないらしい。

それにもうこれ以上は誤魔化せないと諦めた私は、ゆっくりと視線を上げて静信を見た。

彼は微笑んではいなかった。

けれど、どこか優しい眼差しをしているように見えたのはどうしてなのだろう。

「・・・昨日、敏夫から連絡が来て」

「うん」

「結婚するって聞いて、すごくびっくりして」

「うん」

「私、本当にびっくりしたから・・・」

「うん」

ポツリポツリと話す私に、静信は言葉を挟む事無くただ相槌を打つ。

それに何かが赦されたような気がして、私は身体の力を抜いて深く深く息を吐き出した。

敏夫が、結婚する。

それはいつか来るだろう未来のはずで、だけどこんなにも早く突然訪れるなんて思ってもいなかったから。

じゃあ、たとえばそれが3年後だったら平気な顔をしていられたかと聞かれれば、きっと私は頷けないだろうけど。

大学進学の為に、道を別った私たち。

それぞれの生活に忙しくて、連絡を取り合う暇もなかった。

だから、この気持ちは忘れる事ができたと思っていた。―――思っていたのに・・・。

けれどそれがただの思い込みだったのだという事を、昨日思い知らされた。

『・・・じゃあな』

そう言って、去って行った敏夫。

その見慣れた背中を、きっと私は忘れた事なんて1度もなかった。

「心の準備が、まだ出来ないの」

「・・・・・・」

「今はまだ、その現実を見たくないの」

もうどうしようもない事だと十分理解していたし、どう足掻いたって私の想いが報われる事なんてないと解っていたけれど。

敏夫が選んだ、女性。

その人を、この目で見る勇気が出なかった。

せめて、もう少しだけ時間が欲しかった。

再び俯いて拳を握り締めた私の手に、温かい手が重なる。

それに気付いたと同時に、いつの間にか握り締めていたご祝儀袋は静信の手に渡っていて。

「僕が上手く言っておくよ」

「・・・静信」

のさっきの言い訳じゃ、絶対に敏夫を誤魔化せないからね」

そう言って困ったように笑う静信を見返して、私は泣き出しそうな表情のまま無理やり笑みを返す。

たとえば、あの日。

彼の背中を見送ったあの日。

この想いを口にしていれば、もしかすると何か変わっていただろうか。

今の私は、もう少しマシな自分になれていただろうか?

たとえこの想いが受け入れられなくても、前に進めていただろうか。

けれど・・・たとえもう会う事がなかったとしても、幼馴染という近くて遠い特別な場所を手放したくなかった。

だから、これは当然の報いなのかもしれない。

「・・・ありがとう、静信」

皺の寄ったご祝儀袋を丁寧に伸ばしてくれている静信に向かって、私は懺悔するように小さな声でお礼を告げた。

 

 

            こんな痛みを知らないままなら、

                   一生苦しまずにいられたのに

                                (だけどこの想いを手放す事なんて、きっと私には出来ないんだわ)


敏夫の結婚話。

人の気持ちは、簡単に思い通りにならない。

                                                         作成日 2009.3.18

                                                           更新日 2009.8.23

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