それは、酷く穏やかな日だった。

 

 

ペンを片手に原稿用紙と格闘しながら、僕は縁側に座ってただジッと外を眺めているを視界の端で捕らえた。

昼間だというのに、辺りは静寂に満ちている。―――残念ながら、僕の手はなかなか動き出す気配もない。

それに小さくため息を吐き出せば、ずっと外を眺めていたが僅かに振り返って。

「筆が進みませんか、先生?」

「先生は止めてくれ」

に先生呼ばわりなんてされると、気恥ずかしいというかむず痒いというか。

隠す事無く嫌そうな顔をした僕を認めて、はクスクスと小さく笑った。

「私がいて気が散るなら帰るけど・・・?」

「別にそういうんじゃないよ」

そう、別にそういうんじゃない。

静かで、穏やかな日。

仕事をするにはうってつけだと思えるのに、なかなかいい文章が浮かんでこない。

それはきっと、他の事に気をとられているからだ。

ここへ来てから、ほとんど何も話さずずっと外を眺めている

時折走る車の陰を見つけては、僅かに身じろぎする。―――それは戸惑いからか、それとも隠しきれない喜びからか。

敏夫の父親が、死んだ。

この村唯一の医者であった敏夫の父が亡くなった事で、村の中にも当然だが動揺が走った。

人が亡くなるだけでも一大事だというのに、それが村唯一の医者だというのだから、みんなが不安にならないわけがない。

そしてそんな状況で、敏夫が知らん顔を出来るはずもなかった。

「・・・敏夫に会いに行かないのか?」

静けさの中にポツリと落ちた僕の言葉に、はピクリと肩を震わせる。

そうして咎めるような眼差しで僕をチラリと見やった彼女は、非難するようにため息を吐き出した。

「静信は意地悪ね。なんだか、だんだん意地悪になってきた気がする」

「そうかな?」

「そうよ。敏夫がいた頃の静信は、何だか中間管理職みたいだったもの。―――私と敏夫の間に挟まれて1人苦労してる、みたいな」

それはあんまり嬉しくないんだけど。

そんな思いが顔に出ていたんだろう。―――はもう1度クスクスと笑みを零して、再び窓の外へと視線を向けた。

「会いに行かないわけじゃないの」

「・・・え?」

ぽつり、と言葉が零れた。

その予想外の言葉に思わず目を丸くした僕を見返して、は困ったように笑う。

「いつまでも逃げられるわけじゃないし、覚悟を決めて会いに行ったの。でも・・・」

「でも・・・?」

「敏夫、忙しそうだったから」

だから、そのまま帰ってきちゃった。

僅かに肩を竦めてそう言ったに、思わずため息をひとつ。

そしてその足で僕のところに来たというわけか。

らしいとそう思う反面、その選択に僅かな嬉しさが胸を襲う。

きっと彼女にとってはそれほど重要な事ではないだろう。

気心の知れた、幼馴染。

そして彼女の心の内を知るたった1人の人間。

本人の言うように、逃げるつもりはないのだろう。

敏夫が村に帰ってきた以上、彼女が村を出る以外に会わずにい続けられる方法などない。

だから、彼女は敏夫に会いに行った。

けれど、引越しの準備や病院を再開する準備で忙しい尾崎家に割り込んでいく事は躊躇われたのだろう。

彼女の思慮深さと、そして彼女を知る者には意外とも思えるほどの弱気な部分が、彼女を引き返させたのだ。

そしてそのまま家に戻る事も躊躇われ、僕のところに来たんだろう。

そう、そこに特別な意味も感情もない。

けれど僕には、にとって最後の最後で頼れる相手が自分であると言われたような気がした。

そんな思いを噛み締めながら、僕は殊更なんでもないかのようにへ向けて言葉を放つ。

「今日中に行った方がいい。前に結婚祝いを欠席した時、敏夫怒っていたから」

あの時の敏夫は、本当に見物だった。

呆気に取られたように僕を見て、そして呆れたようにため息を吐き出した。

その後に浮かんだ少し寂しげな表情に胸は痛んだけれど、これはこれで良かったのかもしれないと思う。

敏夫が大学進学を機に村を出てから、と敏夫は1度も会っていないという。

近況を知らせる手紙のやり取りをしたり、時折連絡は取っていたようだけれど、直接会う事はなかったらしい。

だからこそ敏夫はに会いたかったのだろう。―――敏夫のその気持ちも理解できる。

けれど結婚したばかりの妻が隣にいるというのに、その敏夫がと再会し楽しそうな嬉しそうな顔をしていれば、妻として楽しいはずもないだろう。

女性はそういった気配を読むのに長けているという話だし、もしかすると一悶着あったかもしれない。

それはにとっても望む事ではないだろうから。

ぼんやりとそんな事を考えていた僕を見てどう思ったのか、は窺うような眼差しで僕を見つめ、少しばかり不安そうな面持ちで恐る恐る口を開いた。

「・・・怒ってた?」

「相当ね。幼馴染の結婚祝いよりも優先すべき事があるのかって」

そんなを安心させるように少しだけ声色を明るくしてそう言えば、その冗談に気付いたのか彼女はもう1度困ったように笑う。

「・・・あらら。そんなの聞くと、ますます会いに行きづらくなっちゃうわね」

冗談めかしてそういうを視界の端に映しながら、僕は僅かに目を細めた。

会いに行けと、そう急かす自分とは反対に、頭の奥から声がする。―――別に、わざわざ会いに行く必要なんてないと。

こうして彼女が傍に来る度、僕の中に混在する喜びと罪悪感。

それに人知れずもがきながらも、僕はその現実に安堵する。

彼女に1番に頼られるのは、自分だけで良いのだと。

彼女にこんな思いをさせている原因の一端は、自分にあるのかもしれないと思っていても。

が、敏夫を想っている事は知っていた。

気がつけば、はいつも敏夫を見ていた。

近すぎず、遠すぎず、幼馴染という立場を大切に大切に守りながら、いつも敏夫の傍にいた。

そして、僕は知っていた。

敏夫も、を想っているという事を。

勿論、最初は気付かなかった。

だけどずっと一緒に居たんだ。―――ずっと見ていれば、彼らの視線の先に誰がいるのかぐらい容易に想像できる。

だけど、僕はそれに気付かない振りをした。

は僕の事が好きなんだと、敏夫がそう誤解している事にも気付いていたけれど、それは違うと正す事が出来なかった。

小さな・・・―――けれど決定的なすれ違い。

あの時その間違いを正していれば、今は敏夫の隣で笑っていたのかもしれない。

楽しそうに、幸せそうに・・・―――まるで幼い頃のような笑顔で。

だけど僕は、心の底から笑わなくなったでも、傍にいて欲しいとそう願ったんだ。

そしてその願い通り、は今僕の傍にいる。

は、言う。

大学進学の為にこの村を出る時、あの時にこの想いを伝えていれば、自分は前に進めていたかもしれないのにと。

たとえ受け入れられなくとも、少なくとも踏ん切りはついたのにと。

けれど彼が結婚した今となっては、もう伝える事も赦されない。

逃してしまったタイミングは、取り戻す事は出来ないのだ。―――そう、これから一生。

それは自分の弱さが招いた事態。―――だからこれは、自業自得なのだと。

確かにが勇気を振り絞り、敏夫に想いを伝えていれば、結果は違っただろう。

そうすれば、敏夫の隣にはがいたに違いない。

だからこれは、ある意味奇跡なのかもしれなかった。

の弱さと、僕の狡さが招いた奇跡。

「さて、と。それじゃそろそろ帰ろうかな」

ジッと外を見つめながら考え込んでいた僕を見て、仕事に集中していると思ったのだろう。

小さな声でそう呟き、ハッと顔を上げた僕にやんわりと微笑みかけてひらひらと手を振る。

「それじゃあ、先生。お仕事頑張って」

「・・・先生は止めてくれって言ったのに」

恨みがましくそう言えば、は楽しそうに笑う。

その笑顔を見上げていた僕は、口に出しかけた言葉を飲み込んだ。

敏夫に会いに行くのか、なんて聞けなかった。

聞いてどうするって言うんだ。

今日会いに行かなくても、近い内に2人は再会する。

久しぶりに幼馴染3人が揃ったと、敏夫は楽しげに笑うのだろう。

その光景を思えば楽しみだと僕もそう思うのに、けれどそれと同時にもやもやとした感情が胸の中を占めるんだ。

子供の頃からずっと一緒に居た3人。

けれどあの時には決して戻れないと知っているからか。

それぞれがそれぞれ複雑な感情を抱きながら、それでも僕たちは何もなかったかのように笑うのだろう。

そうしてやんわりと微笑んだまま部屋を出て行くを見送って、僕は小さくため息を吐き出す。

自分の感情なのに、自分自身で上手く処理できない。

敏夫も、も大切だ。

そこに差なんてつけられないし、つけようとも思わない。

また3人が揃う事は、僕にとっても嬉しいことなのに・・・。

「・・・敏夫?」

そんな考えに囚われていた僕は、不意に窓の外から聞こえてきたの声に顔を上げた。

そのままゆっくりと立ち上がり窓辺へと歩み寄れば、そこから玄関を出たばかりのの後姿が見える。

そしてその向こうには、煙草を加えたまま目を丸くしている敏夫がいた。

「おー、。なんだ、お前ここにいたのか。家に行ってもいないから、どこにいるのかと思えば」

「会いに来てくれたの?」

「おー、お前が来ないからな」

意外そうなの声色に、敏夫は嫌味を込めながらそう告げる。

結婚祝いにも顔を出さなかったのだから、帰ってきた時くらいはすぐに顔を見せろと言いたいのだろう。

そんな敏夫の言葉の裏に込められた意味に気付いたらしいは、軽く肩を竦めて笑って見せた。

「行ったわよ。ただ忙しそうだったから、出直そうと思っただけで」

「そんな遠慮する間柄かよ」

呆れたように言いながらも、敏夫の顔には笑みが浮かんでいる。

何年かぶりの再会は、けれど別れた時と何も変わっていない。

まるであの時に時間が戻ったかのようだ。

けれど次の瞬間、の口から零れた言葉に、それがただの感傷なのだと再確認する。

「遅くなったけど・・・結婚、おめでとう」

の声色は、酷く穏やかだった。

僕からは彼女の表情は見えないけれど、きっと優しく微笑んでいるのだろう。

昔からそうだった。

は自分の感情を押し殺す天才なんだ。

いつもそうやって自分を押さえつけて、そして苦しんでいる。

その不器用さが、心配でもあり愛しくもあった。

「・・・ああ、サンキュ」

「奥さん、どんな人?」

困ったようにはにかみながら礼を告げた敏夫に、は更に質問を投げ掛ける。

聞けば傷つくと解っているのに、どうして聞かずにはいられないのだろう。

もしかすると、それはなりの敏夫への想いとの訣別なのかもしれなかった。

「ああ、村には住まないが時々顔見せるつってたから、その内会う事もあるだろ」

「・・・そう、ね」

さらりとそう告げる敏夫に、は僅かに俯いてひとつ頷く。

ほら、やっぱり。

そうやって自分を追い詰めて、自分を傷つけて、はこれからもずっと敏夫を想って生きていくのだろうか。

「じゃあ、私そろそろ行くわ」

「もうか?」

「いつまでも店放っておくわけにはいかないしね」

「客なんて早々来ねぇだろう」

「失礼な事言わないでくれるかな、敏夫」

早々に会話を切り上げたへ敏夫は名残惜しそうに声を掛けるけれど、はそれ以上立ち話を続けるつもりはないのか、ひらりと手を振って敏夫の隣をすり抜ける。

そんなの横顔を見ていた敏夫は、咄嗟に・・・とでもいうように口を開いた。

「また今度、3人でゆっくり飲もうぜ」

「うん、楽しみしてる」

そう言っておどけたように笑い、今度こそ振り返る事なく去っていくの後姿を、敏夫はジッと見つめていた。

そんな敏夫の表情を見つめながら、僕は僅かに拳を握り締める。

敏夫は、結婚したというのに。

もう愛する奥さんも、家庭もあるっていうのに。

ありきたりでも、確かに幸せを手に入れたというのに。

なのにどうして、今もまだそんな眼差しでを見つめるんだ。

高校時代から変わらない、何よりも愛しい者を見るような眼差しで。

そんな僕の視線に気付く事無く、敏夫は小さくため息を吐き出すと、家の中へと姿を消した。

扉の向こうからは敏夫を出迎える母の声と、そして階段を上ってくる足音。

「静信、いるか?」

一声掛かった後に遠慮なく部屋の中に入ってきた敏夫は、もういつもの敏夫だった。

「・・・おかえり」

「おお、ただいま」

開口一番にそう言って笑みを浮かべれば、敏夫はニヤリと口角を上げる。

その笑い方も、全然変わっていない。―――まぁ僕はと違ってちょこちょこ敏夫とは会っていたから、それは目新しい事ではないけれど。

「さっきそこでに会った。あいつも全然変わってねぇな」

「・・・そう」

何事もなかったかのようにさらりとそう告げる敏夫へ相槌を返して、僕は窓辺から文机へと移動した。

何事もなかったかのように・・・なんて言い方は可笑しい。

実際、何事もなかったんだ。―――彼らの再会は、幼馴染のそれと変わりなかったんだから。

もし違うように見えていたなら、それは僕の思い込みに過ぎない。

「しっかし相変わらず仲良いな、お前ら。子供の頃からずっと一緒に居て、いい加減飽きねぇか?」

思わず黙り込んだ僕に気付く事無く僅かに表情を顰めてそう言う敏夫に、僕はやんわりと微笑んだ。

ずっと隣にいてくれる事を願った僕。

ずっと大切な想いを抱え、進む事も戻る事も出来ずにいる

そして想いを捨てたように見えて今もまだ捨てきれず、それでも新しい道を選んだ敏夫。

小さくて、大きなすれ違い。

僕らは今、それぞれ苦しみながら生きているのかもしれない。

「・・・敏夫」

「あー?」

「・・・今度、3人で飲もうか」

窓の外に視線を移して、さっき敏夫が口にしたセリフを僕も口にしながら、まるで懺悔するかのようにゆっくりと目を閉じた。

 

 

            君の幸せを願うことも出来ない

                          愚かで卑屈な

                                                (それでも、この想いは捨てられないんだ)


相変わらず不憫な静信。

でも彼って不憫な感じが似合うんですよね、とても。(とんでもない発言)

作成日 2009.3.21

更新日 2009.11.1

 

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