変わらない日常が、何よりも愛しかった。

 

 

耳を劈くように、辺りに響き渡る蝉の声。

照りつける太陽の熱は、じりじりと肌を焼いていく。

流れ落ちる汗は際限なく、うんざりしたように太陽を仰ぎ見た。

「・・・今日も暑いわね」

生命を強く感じさせる夏は嫌いではないけれど、この暑さはどうにかならないものだろうか。

こんな日は出来れば家の中で過ごしたいところだけれど、今日はどうしても外せない用事がある。

せめて曇り空だったら少しはマシだったのに・・・と零れ落ちそうなため息を飲み込んで、差していた日傘を改めて握りなおす。

そうして空へと向けていた視線を前方へと向ければ、熱のせいか揺らめく空気のその先に見知った男の子の姿を見つけた。

「あら。おはよう、夏野くん」

学生服に身を包んだ彼へと声を掛ければ、夏野くんは面倒臭そうに振り返る。

それでも無視をしないところが、この子の優しいところだとそう思う。―――本人に言えば、全力で否定されそうだけれど。

予想通り、振り返った夏野くんは挨拶を返すわけでもなく、鋭い眼差しでジッと私を見返していた。

「これから学校?学生は大変ね、暑いのに学校で勉強なんて」

「・・・・・・」

そんな彼に構わず、私は笑顔を浮かべながら言葉を続ける。

夏野くんは最近この外場村に引っ越してきた結城さんのところの息子さんで、田舎暮らしに憧れて越してきたと笑顔で言っていた結城さんとは違い、あまりこの村が好きではないようだった。

そんな彼の気持ちは解らなくはないし、年頃の男の子からすれば当然の事だと思えた。

いろんな事を体験し、結果的に田舎暮らしを選んだ結城さんとは違い、夏野くんには夏野くんの都会での暮らしがあったんだろう。

それが親の都合でこんな何もない村に越してくる事になったんだから、子供視点で見れば可哀想なのかもしれない。

それが養われる子供の性とはいえ、それで納得できるほど大人でもないだろうから。

だから私はそんな夏野くんを見かけると、必ず声を掛けるようにしている。

せめて少しでもこの村に馴染んでもらえるように。―――まぁ、彼にしてみれば余計なお世話で迷惑な話だろうけど。

「でももうすぐ夏休みだものね。あと少しの我慢・・・」

「すいませんけど・・・」

黙り込んだまま・・・―――けれど律儀に私の話に付き合っていた夏野くんは、私の言葉を遮り唐突に口を開いた。

それにどうしたのかと首を傾げれば、夏野くんは鋭い光を瞳に宿したまま、ジッとまっすぐ私を見返して。

「下の名前で呼ぶの、やめてもらえます?」

ジロリ、と冷たい眼差しを向ける夏野くんに、私はきょとんと目を丸くした。

あらら、機嫌を損ねちゃった感じ。

どうも本気で名前を呼ばれるのが嫌いらしい。

「名前で呼ばれるの嫌い?」

「・・・女みたいだろ?」

躊躇いがちに・・・けれどしっかりと返ってきた言葉に、私はやんわりと微笑みながらコクリと頷いた。

「そう・・・、男の子だものね」

女の私にはよく解らないけれど、男の子はきっとそういうのが気になるんだろう。

そういえば、敏夫も変なところで見栄を張る事があった。

懐かしい過去を思い出し、小さく笑みを零す。

それを笑われたと思ったのだろう。―――更に鋭い眼差しで私を睨みつける夏野くんに気付いて、しまったと口元へ手を当てた。

これは誤解されたかもしれない。

別に夏野くんの事を笑ったわけじゃないんだけど・・・。

それに夏野って名前、私はすごく綺麗な響きだと思うんだけど・・・―――まぁ、そういうのは本人の感覚だから、他人の私がとやかく言えた問題でもないけれど。

「それはそうと、夏野くん」

心の内で1人妙に納得した後、それでも彼の名前を呼んだ私に、夏野くんはさっきよりも更に冷たい眼差しを向けた。

まぁ、彼の気持ちも解らなくはないし、別に嫌がらせでもからかっているつもりもないんだけど。

「私、貴方のお父様とも交流があるの。もちろん、お母様ともね。お父様の事は『結城さん』って呼んで、お母様の事は『奥さん』か『小出さん』って呼ぶわ。だったら貴方の事は、『夏野くん』って呼ぶしかないと思わない?」

それとも、結城さんのところの息子さんって呼び方の方がいいかしら?

私としては名前の方がいいけれど・・・―――だって呼び止める時、それじゃあ長すぎるしね。

そういえば夏野くんは嫌そうな表情を前面に押し出しながらも、不貞腐れたようにムッツリ黙りこんだ。

きっと了承したのではなく、諦めたのだろう。

これからそうは係わり合いになる事もないだろうと・・・―――こういうところ、夏野くんって子供らしくないわよね。

しみじみとそんな事を思ったその時、不意に背後から誰かが駆けてくる足音が聞こえてくる。

それに振り返る前に、元気の良い声が辺りに響いた。

「結城くん、おはよう!!」

「・・・ちっ」

可愛らしい声と同時に聞こえたのは、小さな舌打ち。

不思議に思って夏野くんを見ると、彼は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。

それに気付かなかったふりをして、私は声の主である少女へと笑顔で振り返った。

「あら、恵ちゃん。おはよう」

さん?こんな時間に何してるんですか?」

笑顔で挨拶をすると、私がここにいるのが余程予想外だったのか、目を丸くした恵ちゃんが不思議そうな面持ちで首を傾げる。

まぁ、確かに私は早朝からうろうろするタイプでもないしね。

何事もなければ、普段は構えた小さな店の番をしている。―――残念ながら、お客さんはそう多くはないけれど。

そんな恵ちゃんへとにっこりと微笑みかけて、私は持っていたカバンを軽く上げてみせた。

「ちょっと街まで買出しにね」

「じゃあじゃあ・・・!!」

きっとその言葉をある程度予測していたんだろう。―――私の返答にパッと瞳を輝かせた恵ちゃんは、ごそごそと鞄を漁ると一冊の雑誌を取り出した。

「ついででいいから、このお店でこのワンピース買ってきてくれません?」

「あら、可愛いワンピース」

「でしょう!?すっごく欲しいんだけど、通販とかやってなくて。しかも数量限定だから早く買いに行かないと絶対売り切れちゃいそうなのに、なかなか行けないから・・・」

ジタバタと足を踏み鳴らしながらそう声を上げる恵ちゃんに、私は小さく笑みを零した。

私と恵ちゃんの接点は、それほど深くはない。

仕事柄、村の人たちとはある程度親しくさせてもらっているけれど、それが子供たちにまで及ぶ事はそれほど多くはなかった。

そんな私と恵ちゃんが親しく会話をするようになったのは、実を言うとつい最近だったりする。

彼女はファッションにとても敏感だ。

この村ではそういうのを気にする人はほとんどいないから、周りからは少し浮いて見られる事があるみたいだった。

そんな時、たまたま買い物をして帰ってきた私を見た恵ちゃんが、私の持つ荷物を見て声を上げたのがきっかけだった。

私はそれほど派手な服装をする方ではないけれど、やっぱりどうせ着るなら自分の好きな服がいいと思っていたし、幸いな事に時間はたっぷりあったから、こうして街に出て買い物をする事がある。

そんな私を見て、恵ちゃんが声を掛けてきてくれたのだ。

「いいわよ。ついでだし、買ってきてあげる」

「やったー!ありがと、さん!!」

彼女の可愛いお願いに私がにっこり微笑んで頷くと、恵ちゃんは両手を上げて歓声を上げた。―――どうやら、本気で欲しかったらしい。

こんな風に、自分の好きなものをはっきりと好きだと言えるのはすごいと思う。

ある意味閉鎖的なこの村の中で自己を主張するのは、考えているよりも難しい。

だからこそ、彼女は少し浮いてしまっているのだろう。

そんな恵ちゃんを、私は放っては置けないでいた。―――意味は違えど、私も昔は周りから少し浮いていたから。

そんな私がこうしていられるのは、間違いなく敏夫と静信のおかげだから。

だから、頼りない私だけれど少しでも力になれるのならなってあげたいとそう思う。

瞳を輝かせる恵ちゃんから雑誌を受け取りながら、私はチラリと腕時計を見やる。

そうしてこの服も可愛いよねとはしゃいでいる恵ちゃんに視線を移して、私はもうそこにはない気配に困ったように笑みを零した。

「それはそうと、早くしないと学校に遅れちゃうわよ。夏野くん、先に行っちゃったし」

「えぇ!?」

気がつけば、もう既に夏野くんはそこにはいない。

女同士の話に付き合ってられないと思ったのかもしれないし、恵ちゃんの登場をきっかけに私から逃げたのかもしれない。

「あ〜あ、一緒に学校行きたかったのになぁ・・・」

もう先に行ってしまっただろう夏野くんの立っていた場所を見つめながら、恵ちゃんは小さな声でそう独りごちる。

けれどその呟きはしっかりと私の耳に届いていた。

「恵ちゃんは、夏野くんの事が気になるのね」

「そりゃそうですよ!やっぱり都会の人って違いますよね。なんていうか、雰囲気が洗練されてるっていうか。―――村の子たちとは大違い」

そりゃ、確かに村の子供たちと夏野くんは、良くも悪くも全然違うだろう。

都会には都会の良いところが、村には村の良いところがある。―――半面、悪いところも。

恵ちゃんは、そういったこの村の雰囲気があまり好きではないみたいだから。

まぁ、年頃の女の子としては仕方ないかもしれないけれど。

そこまで考えて、私はふと夏野くんの姿を思い出す。

確かに、この村にはいないタイプの子だ。

けれど彼の雰囲気が同じ歳の子供と違うのは、なにも都会に住んでいたからだという理由だけではないと思う。

まだ村に引っ越してきたばかりでよくは知らないけれど、それでも知らないなりに複雑そうな家庭環境らしい事は感じ取れるから。

結城さんも奥さんも朗らかで、人はいい感じなんだけど・・・―――息子としては、色々と思うところもあるだろうから。

「あー!もう、こんな時間!!遅刻するー!!」

延々と夏野くんの良いところを話していた恵ちゃんは、現在の時刻に気付いたのか慌てたように声を上げて。

「じゃあ、さん。ワンピース、よろしく!!」

けれど念を押す事は忘れず、それだけを告げると振り返る事無く熱い空気の中を駆け出していく。

その反動で揺れるツインテールをぼんやりと見つめながら、私は小さく息を吐き出した。

「・・・元気ねぇ。やっぱり若さの違いかな?」

今の私には、走り出す意欲はない。

蒸すような空気を肌で感じながら、私にも確かにあった若かりし頃を思い出しつつ、時間に追われる事のない私はゆっくりとした足取りでバス停を目指して歩き出した。

 

 

「お、なんだ大荷物で・・・」

夕方、たくさんの荷物を抱えてバス停を降りたと同時に掛けられた声に、私は不思議に思いながらも顔を上げた。

「・・・敏夫?」

そこには予想に違わない敏夫の姿がある。

もう既に見慣れた白衣姿で、手には大きな鞄を持って、更に付け加えるならばもう既にトレードマークになった煙草を口にくわえながら、訝しげな様子で私を見つめている。

「敏夫こそ、どうしてここに?まだ診察時間内でしょう?」

「俺は往診だ」

あっさりと返ってきた言葉に、なるほどと納得しコクリと頷く。

村には病気で動けない人もいる。

その為に、敏夫は定期的に往診をする必要があった。―――車で連れてくるにしても、限度があるからね。

それこそ大きな街ならともかく、小さな村に医者が1人。

こうなれば、医者が合わせる方が簡単だった。

そんな敏夫を労うべく、私はにっこりと笑顔を浮かべながら口を開いた。

「・・・そう、ご苦労様。今日は一段と暑かったから、参っている人も多かったでしょう?」

「まぁな、この村は年寄りが多いからな。―――お前は買い物か?」

「ええ、ちょっと買出しに」

「ちっ、俺が汗だくで走り回ってる間に買い物か?」

私の返答に、敏夫は面白くなさそうにぼやく。

確かに敏夫の忙しさを思えば申し訳なく思わなくはない。

けれど私は医者ではないし、手伝える事があるとは思えない。

まぁ、敏夫もそんな事は十分に解っているだろうけど。

「敏夫が頑張ってくれれば頑張ってくれるだけ、私はのんびりと毎日を過ごせるわ。すごく感謝してるのよ」

私の仕事は、出来るだけ暇な方がいい。

私が暇である限り、避けられない絶対的な悲しみを感じる人はいないんだから。

そんな私の言葉に、けれど敏夫は不貞腐れたようにそっぽを向いて。

「ああ、そうですか」

どうやら感謝の言葉だけじゃ、納得できないらしい。

最近は特に暑いしね。

お年寄りだけじゃなくて、敏夫自身もへばりそうなのかもしれない。

医者は体力勝負だというけれど、村の人たちの健康をすべて背負う形になっている彼の負担は想像以上だろうと思えるから。

だから私は私に出来ることで、彼を労うしかない。

「あら、折角いいお酒を買ってきたのに敏夫はいらないのね。―――じゃあ、これは静信と2人で飲んじゃおうかしら」

チラリと持っていた荷物に視線を落としながら、からかうようにそう告げる。

今日の私の本当の目的は、このお酒を買う為だ。

買い物は、そのついでに過ぎない。―――まぁ、買い物を楽しんだ事は否定しないけど。

最近人気のこのお酒は、残念ながら村の酒屋には売っていない。

仕入れてくれるとは言っていたけれど、人気商品なだけに入手は難しいみたいだ。

そしてこのお酒は、敏夫の最近のお気に入りでもあった。

私の言葉に同じように紙袋を覗き込んだ敏夫はパッと顔色を変え、さっきまで文句を言っていたとは思えないほどきびきびとした様子で踵を返すと、ググッと大きく伸びをひとつ。

「よし、後ちょっと頑張るか。―――今夜は空けとけよ」

言いたいだけ言い残して、慌てた様子でばたばたと走り去っていく敏夫の背中を見つめながら、私は小さくため息を吐き出す。

「・・・現金なんだから」

笑みと共に零れた言葉は、もう既に走り始めた彼には届かない。

翻る白衣。

眩しいほどのそれは、私の瞼の裏に焼きついて離れない。

その光景を、一体どれほどたくさん見たのだろう。

敏夫と再会するまでは不安を抱いていた心も、今となっては遠いもののよう。

そう感じるほどに、現実は日常へと摩り替わっていった。

確かにまったく辛くないといえば嘘になる。

仲の良さそうな敏夫と恭子さんを見る度に、まだこの心は痛むけれど。

「・・・ほんと、今日も暑いわね」

既に太陽も落ちかけ、遠くの空はオレンジ色に染まっている。

まだ空気は熱を含んでいたけれど、真昼のそれとは比べようもない。

朝にはあれほど煩かった蝉の鳴き声も、今は微かに聞こえるだけ。

妙に静かなそこに立ちつくし、私はぼんやりと空を見上げた。

こうして、私の時間は淡々と流れていくのだろう。

特別な事など何もなく、それを望む事もなく、ただ静かに過ぎていく。

それはこの村ととても似ている気がした。

「さ、帰ろうか」

家に帰る途中に恵ちゃんの家に寄って、頼まれていた物を渡さなくちゃ。

それから家に帰って、今晩の為に何か美味しいおつまみでも作ろう。

冷たいお酒と、美味しいおつまみ。

そして3人揃えば、きっと楽しい夜になる。

そんな楽しい時間に想いを馳せながら、私は大きく伸びをひとつ。

苦しかった現実がいつしか日常へと変わっていったように、私のこの想いもいつか消えるのかもしれない。

そんな事もあったのだと、懐かしく想いを馳せる日が来るのかも。

早くそんな日が来てくれる事を願いながら、私はゆっくりとした足取りで歩き出した。

 

 

                 いつか貴方の全てを

想い出に変えてしまえますように

                                                           (さぁ、その第一歩を今踏み出そう)


前向きなのか、後ろ向きなのか。

それでもちょっとは前に進もうと思えるようになった主人公。

作成日 2009.3.21

更新日 2010.2.14

 

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