門人たちの威勢の良い声が響き渡る。

これが、試衛館の日常風景。

 

縁 〜にし〜

 

「次っ!!」

目の前で次々と門人たちを叩き伏せていく惚次郎を目に映して、勇は深い息を漏らした。

先ほど父・周助と交わした会話が鮮明に脳裏に甦る。

『あいつは、危ねぇなぁ・・・』

そのセリフの意味するところは、勇も十分理解していた。

惚次郎は強い。

ここ試衛館で、若いながらも師範代を務めるほどの腕前だ―――他の門人たちが惚次郎に敵わないのは当然とも言える。

だからこそ勇は惚次郎を危ないと思い、そして不安も尽きなかった。

負けるという事を知らない惚次郎―――自分が出て行けば惚次郎に負けを教えてやれるのかもしれないが、それではあまり意味を成さない。

天然理心流の師範に負けても、惚次郎は悔しがるだろうが落ち込みはしないだろう。

負けることに慣れていないとはいえ、勇に負けても『相手は若先生なんだから仕方がない』と思うかもしれない―――それでは意味がないのだ。

「惚次郎!お前あんまり調子に乗んじゃねぇぞ!!」

同じように惚次郎の剣技を目の当りにしていた歳三が、不機嫌そうに声を上げた。

「なに?じゃあ、土方さんがまた相手してくれる?」

そんな歳三に悪戯っぽく笑いかける惚次郎―――そんな惚次郎に、歳三は憮然とした表情でそっぽを向いた。

歳三とて解っているのだ・・・惚次郎がどれほど強いのか。

先ほどいともあっさりと返り討ちにあったばかりの歳三に、再び惚次郎に向かっていく気力と体力はないようだ。

そんな2人の遣り取りを眺めながら、勇は深く深くため息を吐き出す―――そして何気ない様子で、道場の一角に座っているを見た。

同じように防具に身を包み、惚次郎の手合わせを真剣な表情で見詰めている。

不意に戸惑いが生まれた。

それをするか否か、肯定と否定の狭間で勇は僅かな時間思案する。

「もう!次は!?誰もいないの!?」

惚次郎のそんな声に勇は道場内を見回した―――そこには既に惚次郎に叩き伏せられ、息も絶え絶えな門下生の姿が転がっている。

情けないなぁ・・・とでも言いたげな惚次郎の表情に、勇は心を決めたように軽く息をつき、先ほどから身動き1つしないに身体ごと向き直った。

。次はお前の番だ」

勇のその言葉に、はゆっくりと勇へと視線を向けた―――惚次郎がピクリと反応したのを見逃さず、勇は重い口を押し開いて更に言葉を続けた。

「惚次郎の相手をしてやれ」

掛けられた言葉に、はコクリと1つ頷く。

自分の前に置いていた面を被り、木刀を手に持ったはゆっくりと立ち上がり、道場の中央へ―――同じように防具を身につけた惚次郎の前に歩み出る。

「よろしくお願いします」

「・・・よろしく、お願いします」

が礼を取ったのを見て、惚次郎も少しばかりぎこちなく頭を下げた。

「そういやぁ、と惚次郎が手合わせするのを見るのは初めてだな」

そんな2人を眺めていた歳三が漏らした軽い言葉に、勇は更に深くため息を吐き出した。

 

 

最初に動いたのは惚次郎の方だった。

向き合ってすぐ、素早い動きで構えた木刀を振り下ろす。

それを何処にそんな力があるのかと疑いたくなるほど華奢な身体をしたが、自分の木刀でいともあっさりと受け止めた。

そのままは力を込めて惚次郎を押し返す―――その力の流れに逆らわずに、惚次郎は後ろに飛ぶと再びに攻撃を仕掛けた。

息をつく間もないほどの惚次郎の攻撃を、は漏らす事無くすべてを受け止めていく。

2人の手合わせを見ていた門人たちは、感嘆の息を漏らした―――それは歳三も例外ではないらしく、2人の腕前にただただ感心するばかり。

だがそんな攻防が続くうちに、歳三はある疑問を抱いた。

チラリと勇の顔を窺えば、そこにあるのは苦々しい表情。

その表情に自分の考えが思い過ごしではない事を悟った歳三は、その意味するところが解らず僅かに首を傾げた。

なかなか勝負はつかず、ただ惚次郎の掛け声と木刀の打ち合う音が道場内に響く。

終わりの見えないそれに、勇は諦めたように声を上げた。

「そこまで!!」

掛けられた声に、惚次郎は振り上げていた木刀を下ろした―――それを見届けて、も構えを解く。

それと同時に決して多いとはいえない門人たちから歓声が上がった。

「ありがとうございました」

「ありがとうございました」

お互い礼を取って、そして面を外す―――そこにはいつも通りの無表情を湛えたと、良き手合わせを終えたとは思えないほど憮然とした惚次郎の顔があった。

「今日はここまで!」

いい加減くたくたになっている門人たちに稽古の終わりを告げ、勇は汗を拭く為に道場を去っていく惚次郎の後ろ姿を見送った後、緩慢な動作で立ち上がった。

「おい、勝っちゃん」

不意に声を掛けられ振り返ると、そこには眉間に皺を寄せた歳三の顔。

「どうした、歳?」

「ちょっと聞きてぇことがあるんだが・・・」

いつもは物事をはっきりと口にする歳三らしからぬ言い方に、勇は彼が何を言いたいのかを察して苦笑を漏らした。

「惚次郎との事か?」

「ああ、そうだ」

言い当てられたことになんの驚きも見せない歳三に笑みを零して、勇は彼を連れて人気のない縁側に向かった。

 

 

「惚次郎は、に勝ったことがないんだ」

誰もいない縁側で、勇は歳三にそう話を切り出した―――その言葉に、歳三は驚いたように眉を上げる。

「勝ったことがない?」

あの惚次郎が?・・・と言葉に含んで聞き返せば、勇はからかうように笑う。

「ああ。だが、負けたこともないけどな」

謎掛けのような言い回しに、歳三は訝しげに表情を顰める。

「さっきの手合わせを見ていて、お前も不思議に思ったんだろう?惚次郎の変化との様子について・・・」

勇にそう告げられ、歳三は素直に肯定の意を示した。

今まで門人たちを軽く相手していた惚次郎が、しかしを相手にした途端見せた鬼気迫る気迫。

そして繰り出される惚次郎の鋭い攻撃をいとも容易く受け止め・・・けれど何があっても攻撃を返さない

傍目から見ていれば、攻撃を受け止めるのに精一杯なのだと思うだろうが、あの惚次郎の攻撃を食い止められる人物が一度も攻めに回れないとは思えない。

「惚次郎との手合わせを見るのは初めてだと、お前はさっき言っただろう?それは偶然でもなんでもなく、意図的にそうしないからなんだ」

「意図的にそうしない?」

「ああ。惚次郎はと手合わせをしたがらない。何だかんだ言って、それを避けている」

「・・・なんでだ?」

が強いからだよ」

あっさりと返された言葉に、歳三は呆気に取られた。

しかしだからといってそれで納得できるわけではない―――が強いという部分は否定しないが、だからといってそれがどうして手合わせを避ける理由になるのだろうか。

普通は強い相手と手合わせをしたいと思うものだろう。

そして歳三の目から見て、惚次郎もそれを望んでいるように思える。

歳三の疑問を読み取って、勇は広がる青空に視線を向けるとつらつらと語り始めた。

「惚次郎にとって、は守るべき人間なんだよ。ここに来た当初・・・今も大して変わらないけど、人と接する事が苦手で自分の殻に閉じこもりがちだったを、惚次郎は懸命に身体を張って守ってきた。それは今でも変わらない」

「・・・・・・」

「だけど剣術に関してだけは、そうとも言えなかった。は天然理心流を学び始めてからめきめきと腕を上げた。それこそ惚次郎と対等に戦えるほど・・・」

守るべき相手が・・・守ろうと決めた人間が、自分と同じ強さを持ったという事。

それは惚次郎にとって、戸惑い以外の何物でもない。

「惚次郎との実力差から見て、3回に2回は惚次郎が勝つだろう。だけど惚次郎にしてみれば、3回に1回の負けさえ許されないんだ。常によりも強くなければならない。負けることは、惚次郎の誇りが許さない」

負けることによってしか得られない物があると、勇は惚次郎に教えてやりたかった。

けれどそれは相手にもよる―――に負けた惚次郎はきっと、負けて得ることよりも今まで築き上げてきた自信を丸ごと喪失してしまうに違いない。

落ち込むだけでは済まないのだ。

「それが解ってるから、は惚次郎に攻撃を仕掛けないのか?」

「聞いた事はないけど・・・多分そうじゃないかと俺は思ってる」

それは相手にとって侮辱にも等しい行為だ―――はおそらくそれを解っていてなお、手を出さないのだろう。

そして惚次郎もおそらくは解っている。

解っていても、それに反論する事が出来ずにいるのだ。

「誰かが惚次郎に敗北を教えてやれたら良いんだがな・・・」

そうすれば、惚次郎とをこんな風に手合わせさせる必要もない。

良き好敵手となってお互いに腕を磨き合って欲しいと勇は思うが、今となっては2人のそんな関係を崩す事にも不安が募る。

だからこそ望んだ願いなのだが、それもそう簡単な話ではないだろう―――惚次郎よりも腕の立つ剣客が、都合よくその辺にゴロゴロと転がっているわけはない。

「歳が一番有力なんだが・・・」

「無茶言うな!」

歳三は先ほど惚次郎に返り討ちにされた光景を思い出し、不機嫌そうに言葉を返した。

 

 

門前の掃き掃除をしていたは、突然の来訪者に小さく首を傾げた。

中年の男と女、そしてその2人に連れられて来た若い女―――おそらくは親子なのだろう身なりの良い3人は、迎えに出たふでに連れられて家の中に入っていく。

あれがこの間勇が言っていた、婚約者なのだろうとはぼんやりと思う。

実際、勇が結婚するという事に実感は湧かないが、周りの人間がどう思おうと話は着々と進められているようだ―――勇の困惑した顔を思い浮かべ、は勇も大変だなと他人事のように思いながら掃き掃除を再開した。

そのすぐ後、バタバタと慌ただしい足音が響き、飛び出すように玄関から勇が駆け出してくる。

「・・・・・・?」

!私はこれから少し出かけてくるから!!」

不思議そうな表情を浮かべるに、勇が慌てたように早口でまくし立てる―――婚約者が来てるんじゃないの?と視線を家の方に向ければ、が先ほど思い浮かべた通りの表情を勇は浮かべて。

「後のことは源さんに任せてきたから!私はこれから稽古代を滞納している広岡さんのところへ行かなければならないんだ」

そんな必要もないのに、勇はにそう言い訳をすると一目散に試衛館を飛び出していった―――その背中を見送って、は少しだけ思案すると持っていた箒を門に立てかけて勇の後を追った。

「どうしたんだ、!?」

後を着いてきたを振り返った勇に、はいつも通りの無表情でポツリと呟く。

「私も行く」

「行くって・・・稽古代の取立てに行くんだぞ!?」

驚いたように言葉を返す勇に、しかしはただコクリと頷いた。

あまりそういう場面にを連れて行きたくないと思う勇だったが、当のが勇の着物を掴んで離さない―――ここでぐずぐずしていれば、すぐに誰かが自分を連れ戻しに来るだろう事は容易に想像できて、勇は困ったようにため息を吐き出すとの腕を掴んで勢い良く走り出した。

「私から離れるんじゃないぞ!?」

言い聞かせるように言う勇に、は僅かに頬を緩めてしっかりと頷いた。

 

 

「ここ・・・か?」

お世辞にも立派とはいえない造りの長屋に、勇とはいた。

知らされていた広岡の住まいは間違いなくここのようで、洗濯をしていた主婦に聞いた広岡の家に声を掛ける―――が返事は一向に返って来ない。

「留守なのかな・・・」

戸惑ったように・・・しかし仕方ないとばかりに、勇は広岡の家に足を踏み入れた。

そこは本当に狭い部屋―――六畳あれば良い方だと思えるそこには、布団が一組畳まれた状態でぽつんと置かれてあるだけだ。

他には箪笥もなければ生活に必要だと思われる日用品もない。

どこか生活感の感じられない部屋に、勇は僅かに首を傾げる。

ともかくもここが広岡の家なのだというからには、彼は必ずここに帰ってくるだろう。

「仕方ない。しばらく待つか」

傍らに立つにそう話し掛け腰に差していた刀を脇に置くと、勇は土間に腰掛けて静かに目を閉じた―――それを見ていたは、勇から少し離れた(といっても狭いのでそれほど距離はないが)玄関の引き戸に背中を預けるようにして地面に座り込む。

聞こえてくるのは先ほどの主婦が洗濯をする微かな水音と、どこかではしゃぎ声を上げる子供たちの声。

音で溢れ返っているというのに、はこの場がとても静かだと何気なく思う。

そしてどこか寂しくも思った―――それは試衛館での騒がしさに慣れているからなのか、それとももっと別のことなのかはには解らなかったけれど。

そんな穏やかな空間に、不似合いな気配を感じたのは直後のことだった。

ジャリ・・・と砂を擦る音が聞こえ、不意にの頭の上に影が差す。

が不思議に思い顔を上げる前に、その影は室内に飛び込み土間に座る勇に襲い掛かった。

「なっ・・・!?」

突然の襲撃に、勇が声を上げた―――飛び込んできた男は勇の喉元を締め上げ、身体を押し倒すように拘束している。

それを目にした瞬間、の身体は自然に動いていた。

勇が土間に置いた彼自身の刀を手に取り、素早く抜くとそれを男の喉元に突きつける。

「・・・・・・っ!!」

決して切りつけたりはしない―――けれど少しでも男が動けば命はない。

刀と首の間に薄い紙一枚分の隙間を開け、鋭い視線で男を睨みつけた。

「止めろ、

ピクリとも動かなくなった男に押さえつけられた勇が、苦しそうな声色で制止する。

「勝っちゃん・・・」

「良いから・・・刀をしまうんだ、

いつもの柔らかな口調ではない真剣な声色でそう告げる勇に、は大人しくそれに従った―――いともあっさり刀を鞘に収めて、それを勇の傍らに置く。

「ごめんなさい」

その謝罪は誰に向けられたものなのか?

しかし軽く頭を下げたを目に映した男は、ゆっくりと勇の首元から手を離した。

 

 

「借金の取り立て・・・ですか?」

成り行きで家の中に上がり込んだ勇は、恐縮した様子で正座をすると土間に座り込んだ男に遠慮がちに問い掛けた。

男はどうやら勇と広岡を間違えたらしい―――鋭い視線を向ける男に身分の証明をすると、漸く男は自分が人違いをしたのだと納得してくれた。

「それで・・・失礼ですけど・・・」

未だ名を名乗らない男にそう問い掛ければ、無言で鋭い視線を返される。

「言いたくないのなら、構いませんが・・・」

しかし無口な人間を相手にするのはで十分慣れている勇は、何か事情があるのだろうと勝手に推測して、それ以上聞くのを止めた。

しかし男はそんな勇を見て、少しだけ戸惑ったように視線を泳がせてから重い口を開く。

「山口一」

「山口さん・・・ですか」

確認の為に勇は男―――山口の名前を繰り返して、おもむろに先ほど同様玄関口に座り込むに視線を向けた。

「お前もちゃんと自己紹介しなさい」

勇にそう促されて、は素直に山口の前に歩み出ると深々とお辞儀をする。

・・・です」

「・・・・・・」

名を名乗ったを一瞥して、山口は視線を逸らした―――先ほど見せた殺気など微塵も感じさせないの無防備な雰囲気に、山口は僅かに戸惑いを感じる。

無口な山口とに、何を話して良いのか解らない勇。

自然と室内は静寂に包まれ、3人はそれぞれどこか居心地の悪さを感じる。

早く広岡が帰ってこないかと勇が心の中で思った時、家の外から聞き覚えのある声が聞こえて来た。

3人は素早く家の外に視線を向ける―――数人の子供が何かの包みを持って走り去った後、問題の広岡が顔を出した。

それと同時に山口は素早い動きで立ち上がり、驚愕に顔を歪める広岡に逃げる隙も与えずに後ろ手に腕を拘束すると、近くに詰まれてあった木箱に広岡を押し付けた。

「お前が踏み倒した代金、3両を受け取りに来た」

「あの、広岡さん。うちの稽古代も・・・」

山口に習って家の外に出た勇は、押さえつけられて痛みに顔を歪める広岡に遠慮がちの声を掛けた。

「あの・・・ここでは人目がありますから、場所を変えませんか?」

何事かと距離を保ちつつ様子を窺う長屋の住人たちを目に映して、勇は促す宥めるように山口の肩を叩いた―――それに渋々といった様子で、山口は広岡の腕から手を離す。

とりあえず広岡の知り合いの店に場所を移す事になり、勇と山口は広岡に連れられて長屋を後にした。

「大丈夫か、?」

普段はあまりこういったいざこざを目にしないを気遣って声を掛けた勇は、当のがただジッと山口を見ているのに気付いて更に声を掛ける。

「どうした?」

言葉少なに掛けられた声に、は無言で首を横に振る―――しかしの視線はまだ、山口に注がれていた。

そこにどんな意味があるのか、勇には解らなかった。

恐怖の色はない―――怯えも軽蔑もない。

普段あまり感情を表に出さないの心理を読み取る事は非常に困難な事だった―――例えそれが、一番との付き合いが長い勇であっても。

しかし確実にが山口に興味を持った事は感じ取れて、勇は複雑な思いを吐き出すように深くため息をついた。

 

 

広岡に連れられて来たのは、小さな居酒屋だった。

まだ真昼間で何処も店は開いていないだろうと思われたが、知り合いの店なので多少の融通は利くのだと言う。

薄暗い店内で席についた勇は、穏やかな口調で話を切り出した。

本当ならば稽古代を取り立てに来た筈の勇だが、しかし勇はそれをせずにまた道場に顔を出して欲しいと広岡に声を掛ける―――恐縮した様子の広岡が、それでも温かな勇の言葉に表情を緩ませたその時、山口は変わらない鋭い声色で広岡に詰め寄る。

「明日まで待ってください・・・」

顔色を悪くして俯いた広岡に、勇は柔らな雰囲気で声を掛けた。

「当てはあるんですか?」

広岡はそれに黙って頷く―――待ってあげてくれないかと、何故か広岡の弁護に回った勇の言葉にも、山口は頑なにそれを拒んだ。

「明日になれば金が入るのか?」

「・・・はい」

「明日、何がある?」

問い詰める山口の厳しい声に、広岡は身体を強張らせて俯いた。

「何故、明日になると金が入る?」

山口の的を得た質問に、広岡は更に身体を強張らせる―――何か良くない事情があるように、の目には映った。

静まり返った空間に、おそらくはこの店の主人だろう男の魚を捌く音だけが響く。

その重苦しい雰囲気に耐えかねたように、広岡が立ち上がった。

「何処へ行く?」

「・・・この期に及んで逃げたりしませんよ。・・・・・・厠です」

依然顔色を悪くしたまま、広岡は逃げるように店の奥へと姿を消した。

 

 

「品川の美濃屋には、一度行ったことがあります。山口さんは・・・そこの用心棒なんですか?」

広岡がいなくなった後、沈黙に耐えかねて勇は話を切り出した。

「・・・俺の話はいい」

しかし返ってきた素っ気無い山口の言葉に、勇は言葉を濁すしかない。

再び落ちた沈黙に、助けを求めるようにを見た勇は、当のが浮かべる怪訝そうな表情に気付いて同じように眉を顰めた。

「・・・どうした?」

「あの人・・・帰ってこない」

ポツリと呟かれた言葉に、勇はそういえば・・・と広岡が消えた方へ視線を向けた。

厠に行くと出て行ってからかなりの時間が経っている―――いくら何でもそろそろ帰ってきても良い頃だ。

「あのー、さっき厠に行った男は?」

不審に思った勇は、台所に立つ主人に声を掛けた。

「帰ったよ」

「・・・は?」

あっさりと返ってきた言葉に、勇が間の抜けた声を上げた―――それと同時に状況を察した山口が勢い良く席を立つ。

「無駄だ!!」

戸口に向かう山口に、店の主人が強い口調でそう怒鳴った。

「お前・・・あの男の仲間か?」

「まぁな、同郷のよしみだ。同じ水戸出身なんでな・・・この店には向こうの連中がおのずと集まる」

主人の言葉に、山口が踵を返した―――もう間に合わないと解っていながらも、彼は広岡を追うつもりなのだろう。

「野郎のことは放っとけよ!!」

更に掛けられた言葉に、山口は目に鋭い光を湛えて振り返った。

「俺は自分の仕事をする」

「今日まで待ったんだ。明日まで待てねぇ道理はねぇはずだ」

最もな男の言葉に、山口は口を噤んだ―――もとよりあまり口が立つ方ではない山口に、太刀打ちできるはずもない。

しかしは、先ほど見た広岡の表情と、そして今目の前にいるこの店の主人の鋭い眼光がやけに気になった。

『明日、何がある?』

先ほど聞いた山口の問いが、やけにの耳に残っていた。

 

 

「鯉の洗いだ、食ってみろ」

再び席に座らされた3人に、店の主人が小さな器を出した。

器の中には魚の刺身が入っている―――主人の言葉通りならば、それは鯉なのだろう。

「騙されたと思って食ってみろ」

反論を許さない強い口調で言われ、勇は困惑したように店の主人を見詰め返した。

しかしだからと言って素直にそれに従うには、店の主人の放つ気迫はどこか威圧的で怪しい―――どうしようかと葛藤する勇の目の前を、不意に白い腕が通り過ぎた。

驚いて顔を上げると、箸を持ったが器に手を伸ばしている。

!?」

勇の驚きの声も気にせず、は躊躇なくそれを口に運んだ。

無言で口を動かすはやはり無表情で、美味しいのか美味しくないのかさえも解らない。

「ほら、食べろ。・・・・・・お前も」

勇に箸を押し付けて、同じように山口にも強引に勧める。

仕方がないと箸をつけた勇と同様に、拒否するかと思われた山口も不本意そうな面持ちで箸を器に向けた。

「どうだ、美味ぇだろ?」

主人の言葉に、がコクリと頷く。

同じように同意を返した勇を見て、主人は満足そうに笑った。

「この鯉に免じて、今日のところは見逃してやってくれ」

「ふざけるなっ!!」

山口は箸を叩きつけるように置くと、溜まりかねたように再び戸口に向かう。

そんな山口を後ろ手に拘束して、店の主人は顔を歪ませた。

「・・・ったく、あいつにいくら貸してる?」

「・・・3両だ」

呆れたような口調で言う主人に、山口は吐き捨てるように言う―――すると主人は仕方ないとばかりに懐から財布を取り出した。

「あんたが払うのか?」

山口の疑問を無視して、店の主人は金を勘定する。

「・・・っと、少しばかり足りねぇな。あんた、ちょっと貸してくれ」

「・・・良いですけど」

突然話を振られ、勇は思わず頷いて自らの財布を取り出した。

稽古代の取立てに来た筈なのに、逆に支払わされている勇を目に映しながら、は困ったようにため息を零した。

ともかくも金を受け取り一応は納得した山口だが、やはり気になっていたのか自分たちに背を向けた店の主人の背中に声を掛ける。

「広岡子之次郎という男、一体何者だ?」

「・・・・・・」

「金もないのに女と遊んで道場に通う。一体何が目的だ?」

無言で振り返った店の主人に、山口は更に言葉を続けた―――すると主人は至極楽しそうに口角を上げる。

「明日になれば解る」

明日と言う主人の言葉。

そして広岡の言う、明日と言う言葉。

「・・・明日、一体何があるの?」

思わず口を挟んだの言葉に、店の主人がくつくつと笑みを零した。

「広岡子之次郎と言う名前、覚えておいて損はねぇ。明日、天地がひっくり返るぞ」

「天地がひっくり返る?」

勇が聞き返すが、主人はそれ以上答えようとはしなかった。

店を出る間際、勇は振り返り主人に声を掛ける。

「・・・貴方は?」

「水戸脱藩、芹沢鴨」

「鴨?」

「一度聞いたら、忘れられねぇだろ?」

店の主人―――芹沢鴨は、そう言うと不敵な笑みを浮かべた。

 

 

結局は稽古代を取り立てることが出来なかった勇とが試衛館に戻ると、慌てた様子の源三郎が玄関で待っていた。

どうしたのかと事情を聞くと、山南と言う男と惚次郎が試合をし、惚次郎が負けてしまったのだと言う―――試衛館の名誉挽回のため試合に借り出された勇を見送って、は試合に負けて落ち込んでいるという惚次郎の元へ向かった。

惚次郎は井戸の側に呆然と座り込み、何をするでもなくただ宙を見詰めている。

「・・・惚次郎」

が声を掛けると、惚次郎はビクリと身体を震わせた。

・・・」

顔を上げた惚次郎は気まずそうにから視線を逸らして、ただ悔しそうに拳を握り締めると俯く。

そんな惚次郎に何を言うでもなく近づいて、は無言のまま惚次郎の頭をポンポンと軽く叩いた。

「・・・私の方が年上なんだから、子供扱いは止めてよ」

恨めしそうに見上げる惚次郎の顔に、はかすかに微笑んだ。

「あっち行ってよ」

自分の傍らに座り込んだにチラリと視線を向けて、惚次郎が呟く―――しかしは聞こえない振りをして立ち去ろうとしない。

惚次郎は諦めて、先ほどと同じように宙を見上げた。

空は灰色の厚い雲に覆われていて、まるで圧し掛かるような重さを感じる。

それはそのまま、自分の心のようだと惚次郎は思った。

「・・・あ」

不意にが小さな声を上げた―――同じように惚次郎も声を上げる。

ヒラヒラと、白い欠片が2人の上に舞い降りた。

「雪だ」

「うん・・・雪だ」

の呟きに同意の言葉を返して・・・ただ舞う雪を眺める。

「・・・惚次郎」

「・・・何?」

「惚次郎は、強いよ」

揺るぎない強い響きを持つの言葉に、惚次郎は僅かに頬を緩めた。

「当たり前だろ」

失った自信は未だ回復してはいなかったけれど。

そう言い返せばが嬉しそうに笑うから―――だから、惚次郎も少しだけ嬉しくなる。

「こりゃ、積もりますね・・・」

台所から出てきた源三郎が空を見上げて呟く。

「積もると良いな」

「うん、積もると良いね」

と惚次郎と源三郎。

3人揃って空を見上げて、舞い落ちる白い雪を目に映しながら穏やかな笑みを浮かべた。

 

 

◆どうでもいい戯言◆

やっとこ斎藤さん(山口さん?)登場!

とか思いきや、ほとんど絡みはありません(←ダメじゃん)

試衛館に残って山南さんと絡ませるか迷ったんですが(そっちの方が面白そうだし)この気を逃すと、次の回が終わったら当分の間斎藤さんと絡みらしい絡みがないし・・・ということで。

山南さんとも絡ませたかったけど、思ったよりも長くなったので次回に持ち越し。

そして芹沢鴨登場!(名前は一回しか出てこなかったけど)

もういろんな人がいて、誰に重点を置いて良いやら・・・(笑)

作成日 2004.6.27

更新日 2007.9.13

 

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