ガタン、と。

不意に何かを倒すような音が聞こえ、は反射的に振り返った。

音の発生源は、薄暗い路地の中から。

「・・・・・・?」

不思議に思ったは、小さく首を傾げてその路地へと足を向けた。

 

試衛館入事件

 

安政7年、3月29日。

その日、試衛館道場の4代目・近藤勇の祝言が行われようとしていた。

門人や使用人たちが忙しく動き回る中、何もすることがないは同じく忙しく動き回っていた源三郎に1つだけお願いをしてみた。

自分にも、何か手伝わせて欲しい。

のその言葉に、源三郎は驚いた―――そして微笑ましくも思い、思わず笑みが浮かぶ。

きっとは大好きな勇の役に立ちたいのだろう。

その気持ちを汲んでやりたいと源三郎は思った。

思ったのだけれど・・・実際ができることなどたかが知れていて。

料理などは出来ない―――過保護な勇が、に家事などさせなかったから。

洗濯や掃除などは問題ないが、今の時点でそれは必要とされていない。

山南が引き受けてくれた受付の仕事を手伝ってもらおうかとも思ったが、人見知りの酷いにそれが勤まるとも思えない。

「え〜っと・・・」

期待に目を輝かせて自分を見上げるに、源三郎は困り果てて意味を成さない声を出す。

「何もないか?」

そんな源三郎の様子を見て、は自分にできるような仕事がないのだろうと察した。

傍目では解らないが、長い付き合いの源三郎にはの落胆振りが手に取るように解る。

そんなを前に、『はい、ありません』などと誰が言えるだろうか?―――少なくとも人の良い・・・そしてやはりには甘い源三郎に、その言葉が言える筈もなかった。

「そうですね・・・」

必死に脳を回転させて、源三郎は思いつく限りのしなければならないことを考えた。

しなければならない事と、にできそうな事を頭の中で分類していく―――その中で、漸くにもできるだろう仕事を思いつき、源三郎は笑顔でを見下ろした。

「では、買物に行ってきて貰えますか?」

 

 

最初に言っておくならば、はあまり1人で町に出たことがない。

以前1人で町に出た際にごろつきに絡まれたと言う経緯のせいか、の保護者的存在である勇が心配した末にあまり外出させなかったのが原因だ。

それでも町の構造を知らない訳ではなく、迷う心配はなかった。

源三郎に『宴で出す饅頭』のお使いを頼まれたは、預かった財布を片手に目的の店を目指す―――難なくその店に辿り着き、前以て源三郎が注文していたと言う紅白饅頭を受け取ったは、珍しくニコリと微笑みながら手の中の荷物に視線を落とした。

自分も勇の為に何かが出来ると言う喜び。

それは本当に些細なことなのかもしれないが、勇の一世一代の良き日を祝いたいと言う気持ちは他のみんなと同様だ。

勝手に町に出かけたということが知れれば良い顔はされないかもしれないが、きっと勇は自分の気持ちを解ってくれるだろうとそんなことを思う。

早く道場に帰って、これを源三郎に届けよう―――腕の中の包みを柔らかく抱いて、は歩調を速めた。

その帰り道、突如背後でガタンと大きな音が響き、は思わず振り返る。

あまり人気のない道。

すぐ側にある日の光の届かない薄暗い路地に、張り詰めたような気配を感じた。

「・・・・・・?」

不思議に思って首を傾げる―――殺気ではないその気配が、妙に気になった。

少しばかり思案した後、は薄暗い通路に足を向けた。

普段なら絶対にしないだろう行動。

勇の祝言に気が高ぶっていたのか?

それとも、初めて1人で出来た買物に気が緩んでいたのか?

その行動が正しかったのかはにも解らない―――ただ正しかったのかと聞かれれば、きっと彼女は首を縦に振っただろう。

路地に入り、辺りの様子を窺う。

乱雑に積まれた木箱や、立てかけられた板などが視界を遮り見通しが悪い。

けれどはその人物を見つける事が出来た。

ほぼ一月程前に会った、取り立て屋の男。

「・・・・・・山口さん?」

にしては珍しく、相手の名前を覚えていた。

の声に反応して、山口が勢い良く顔を上げる―――警戒心に満ちたその目は、困惑の色を強く宿していて・・・。

「お前は確か・・・」

どうやら山口の方もを覚えていたらしい―――確かに初対面で刀を突きつけられれば、容易に忘れる事など出来ないだろうが。

地面に座り込み無言で自分を見上げてくる山口を、も無言で見下ろした。

視線は彼の顔から左腕に移り、そこから流れる血を目に映して。

山口は、どうしたのかと口を開きかけたの腕を咄嗟に掴み、自分が潜む暗がりへとを引きずり込んだ。

咄嗟のことにも声を発する事無く身体を強張らせたに、山口は気にする余裕もないのか鋭い視線を表通りへと向けた。

「何処に行った!?」

「あっちだ!!」

同時に聞こえてくる男たちの怒号と、路地の前を掛けていく役人たちの姿。

それを眺めていたは、強張った身体から力を抜いて、自分を拘束する山口の顔を見上げた。

「お前は、試衛館の者だな?」

山口の押し殺した声に、はコクリと1つ頷く。

「試衛館はどっちだ?」

問い掛けられて、無言のまま試衛館のある方角を指さす。

「・・・そうか」

が指さした方に視線を向けて、山口は1つ頷く―――それと同時に漸くの身体の拘束を解いて、おもむろに立ち上がった。

「悪かったな・・・」

謝罪の言葉を口にしてその場を去ろうとする山口に、は無意識に手を伸ばしていた。

グイ・・・と強く着物の裾を引いて、驚いて振り返った山口を見上げる。

「そっちから行ったら、見つかる」

「・・・・・・」

「こっちからなら、きっと大丈夫」

あまり町に出たことはなくとも、長く住んだ町だ―――以前惚次郎と悪戯をしてみつに追いかけられたときに使った抜け道を、必死に思い出す。

強い力で着物の裾を引っ張り歩き出したに、山口は戸惑ったような声色で問い掛ける。

「連れて行ってくれるのか?」

コクリ、と頷く。

「何故?」

山口の簡潔な問いに、はピタリと立ち止まり再び山口の顔を見上げた。

「勝っちゃんに、会いたそうだから」

あっさりと返された言葉に、山口は軽く目を見張った―――今の自分が厄介ごとを抱えているだろうことは明白なのにも関わらず、ただそれだけの理由で自分を連れて行こうというのだろうか。

自分を見詰めるの顔に表情はなく、感情が読めない。

けれど澄んだその目に、偽りはなく。

山口は僅かに頭を下げて、ポツリと呟いた。

「・・・かたじけない」

 

 

試衛館の門を潜ったすぐ側にある茂みに山口を隠し、は饅頭の包みを抱えて裏口に回った。

自分では山口をどうすれば良いのか解らない―――とりあえず饅頭を源三郎に届けて、それから勇を捜しに行こうとは考えた。

台所に入り辺りを見回すが、そこに源三郎の姿はない。

近くには惚次郎もみつも姿がなく、忙しく動き回る使用人に声を掛けるのは躊躇われた。

ひとまず饅頭をその場に置いて、台所を出たは再び玄関を目指す―――そのまま勇を捜しに行っても良かったのだが、祝言の最中ならばに勇を呼び出す手段はない。

あまり山口を1人にして置いては不安だと、早足で来た道を戻るの耳に、源三郎の鋭い声が届いた。

「誰だ!!」

普段は滅多に耳にしない源三郎の厳しい声に、は慌てて走る速度を上げる―――玄関とは反対方向の茂みから飛び出したの目に、源三郎に後ろ手を拘束されている山口の姿が映った。

「源さん!!」

思わず声を上げて、源三郎に飛びつく。

普段は大声を発しないの珍しい態度と突然の出現に、その場にいた歳三・山南が驚きに目を見開いた。

山口の腕を拘束していた源三郎を遠ざけて、呆然とする3人の前に立ちはだかる。

「・・・?」

困惑したように名前を呼ぶ歳三に向かい、フルフルと首を振った。

何をどう説明すれば良いのか、には解らない。

山口がどういう事情を抱えているのかをは知らない。

けれど彼が悪い人間ではないと、は思う―――何か確信があるわけではなく、それはの直感なのだけれど。

この状況をどうしようかと顔を見合わせる3人の向かい、山口は重い口を開いた。

「近藤さんに・・・会わせてくれ」

切羽詰った山口の表情と、縋るような目を向けてくるを目の前にして。

3人は軽くため息を吐くと、渋々1つ頷いた。

 

 

山口を勇に会わせる為、源三郎が彼を連れて奥へと向かう。

そんな2人の後ろ姿を目に、は玄関口に座り込んだ。

山口を勇と会わせる条件として、の同行は歳三によって却下された―――歳三としては、これ以上不審者とを関わり合わせたくなかったのだ。

その歳三も既にこの場を去り、玄関にはと山南の2人の姿だけ。

見るからに落胆した様子のを目の端に映しながら、山南は気付かれないようにひっそりとため息を零した。

がどういう経緯で山口と知り合ったのか山南は知らないけれど、が試衛館から外に出ることが滅多にないことから、それほど何度も面識があるとは山南には思えない。

自分がここに来る以前の知り合いなのかとも思ったが、普段はほとんど行動を共にしている歳三や源三郎も知らないとなれば、その予測は妥当なところだろう。

ほとんど面識がなかったと思われる山口に、はとても懐いている―――その事実に、少しばかり心が重くなった。

いや、別にが誰に懐こうとそれは構わない。

が山口に懐いている事が問題なのではなくて・・・。

山南は再びため息を付く。

自分が試衛館に来てからほぼ一月―――しかしは未だに山南に心を許さない。

この一月の間、山南はと会話をした事もなければ笑顔を向けられた事もない―――それどころか、の無表情以外の顔を向けられた事がなかった。

少しだけ心が粟立つ。

心の中に渦巻く奇妙な感情がなんなのか、山南は正確に答えられない。

けれど理解している事は幾つかある―――話をして欲しい、笑顔を見せて欲しい。

それは心を許して欲しいと言う想い。

どうすれば良いのか解らない。

が人に心を許す基準が解らないからだ―――どうして自分に心を許してくれないのかが解らないからだ。

不意に足音が鳴り顔を上げると、源三郎がいつもの人の良い笑みを浮かべて立っていた。

「あの人は・・・?」

「お帰りになられました」

山南の問いに源三郎がサラリと答える―――それに一瞬不安そうな表情を浮かべたを見逃さず、源三郎は安心させるようにやんわりと微笑んだ。

「大丈夫ですよ。若先生と話をして、お金も持たせましたから。ちゃんと逃げ切る筈です」

自信に満ちた声色に、漸くがホッとした表情を浮かべた。

「あの人はどうして・・・?」

「実は・・・」

どうして山口が追われているのか?

それを問うた山南に、源三郎は自分が聞いた話を聞かせた―――あまり口外する事ではないとは思ったが、彼の来訪を知る山南と彼を連れて来た張本人であるにならば聞かせても構わないだろうと判断しての事だ。

「人を斬ったのですか・・・」

源三郎が話し終えた後、山南はチラリとの様子を窺った。

人を斬った罪人―――そんな山口を、はどう思うだろうか?

きっと驚いた顔をしているだろうと思われただが、しかし話を聞き終えた後もの表情はいつもと変わりない。

そこには嫌悪も軽蔑も恐怖もない、・・・・・・ただ山口が逃げられただろうと言う事実に安堵した表情だけがあった。

どうしてはこれほどまでに山口を心配するのだろう?

山南の胸中に、再び疑問が湧き出てきた。

宴の準備があるからと台所に戻る源三郎を見送った後、再び訪れた沈黙に耐えかねて山南は重い口を開いた。

さんは、どうして彼をそれほどまでに庇うのですか?」

問い掛けられ、が山南へと視線を向ける。

僅かに口を開きかけて―――しかし口を閉ざすと、微かに眉を顰めて山南を見上げた。

の目に浮かぶ、戸惑いと不安。

何故自分に向けられる視線は、いつもこんなものばかりなのだろう。

「貴女は・・・私がお嫌いですか?」

不意に口を突いて出た言葉―――慌てて手で口を抑えるが、出た言葉は消えてはくれない。

驚いたように目を見開くから目を逸らして、山南は居た堪れない様子でただ門を見据えた。

重苦しい空気が2人の上に圧し掛かる。

は門を見据える山南から視線を逸らして俯いた。

別には山南が嫌いなわけではない―――嫌いなのではなく・・・ただ苦手なのだ。

山南は、今までの周りにはいない種類の人間だった。

いつもニコニコと笑顔を浮かべて、心の奥にある考えを上手く隠している。

伝えられる言葉はいつも綺麗なものばかり―――その奥底に含まれた意味を、まだ知り合って日も浅いには読み取る事が出来ない。

良くも悪くも、まっすぐで言葉を偽らない人々に囲まれていたには、そんな山南が自分たちとは違う人間のように見えた。

良い人なのだと言う事はも解っている。

だからと言って、何を考えているか解らない相手に無邪気に近づけるほど、は警戒心がないわけではない―――けれど。

はチラリと山南の横顔を盗み見て、先ほど聞かれた言葉を反芻する。

『貴女は・・・私がお嫌いですか?』

聞かれた時は吃驚した。

聞かれた内容にもだが、山南がそんな事を聞くとは思っても見なかったからだ。

先ほどの山南の様子から見て、その言葉が彼の意思とは関係なく飛び出してきたのだと言う事はにも解る―――隙などあまり見せなかった山南が見せた、初めての素直な言葉。

恐る恐る山南の着物に手を伸ばして、遠慮がちに裾を引っ張る。

「・・・どうかしましたか?」

驚いたように自分を見下ろす山南を見上げて、は今の自分の素直な気持ちを言ってみる事にした。

「嫌いじゃ、ないよ」

たった一言―――言葉少なに告げられたそれに、しかし山南はいつもの冷静さなど感じさせないほど驚き目を見開いて。

「そう・・・ですか」

呟き、そして笑った。

その笑顔は、いつも目にする当り障りのないものではなく。

が初めて目にする、眩しいほどの笑顔。

突然向けられたその笑顔に驚いて、は声を発する事が出来ずにただ頷いた。

「ありがとうございます」

何故礼を言われるのかは解らなかったけれど、はそれにも1つ頷いて。

思ったよりも柔らかい山南の放つ雰囲気に、少しだけ苦手意識が薄れた気がした。

「ごめん・・・な」

「いいえ」

今までの非礼を詫びれば、あっさりとした返事が返ってくる。

それがなんだか嬉しくて、はぎこちなくではあるが微かに表情を緩めた。

それが、山南が見たの最初の笑顔だった。

 

 

が山南と少しばかり打ち解けた後、そのままの流れで共に受付をすることになった。

祝宴は既に始まっており、試衛館の古い門人であるは祝宴に出なくて良いのかと山南が聞けば、はああいう席は苦手なのだと答える。

確かに・・・と山南は聞こえてくる賑やかな声に笑みを零した―――多摩の人たちと面識があるとはいえ、が率先して入りたがるような場所ではなさそうだ。

山南はそれ以上何も言わず、ただ来客のない受付の仕事に専念する事にした。

も何も言わずにただ隣にいる―――しかし時折交わす会話は・・・それは本当に他愛ない会話ではあったけれど、山南にとっては楽しく感じられるものだった。

その内に、必ず来ると言っていた錬兵館の桂小五郎が顔を出し、彼を道場に送り届けた後再び玄関に戻る。

山南が席を外していた間もはそこにいて、帰ってきた山南を見て僅かに微笑んだ。

向けられるその笑顔が、嬉しいと思う。

一月近くも近くにいて変わらなかった関係が、ほんの一瞬の間に一変する―――そんな不思議な感覚を、山南は今味わっていた。

再び玄関で受付の仕事を再開する。

やはり来客はなかったけれど、退屈を感じる事はなかった―――しかしそんな穏やかな時間は、女の鋭い悲鳴によって破られる。

「きゃーっ!!」

突然試衛館中に響いた悲鳴に、と山南は顔を見合わせると同時に立ち上がった。

山南よりも試衛館の構造に詳しいが、先陣を切って走り出す―――その足は祝宴会場となっている道場に向かっているようだ。

道場に飛び込んだは、そこにいた人たちがある一点を凝視している事に気付いた。

それを辿るように視線を巡らせると、そこには見知った人物が1人。

「・・・山口さん」

ポツリとその人物の名前を呟いて、は裸足のまま地面に降りると怯えたような表情を浮かべる山口に走り寄った。

「何故戻ってきた!?」

同じように山口に歩み寄った勇が問い掛けるけれど、山口は言い難そうに口を噤むだけで。

「ともかく彼を奥の部屋へ・・・」

近くにいた源三郎に頼んで、勇は山口を家の奥へと促した―――も山口に付いて奥の部屋へと向かう。

四畳半ほどの狭い部屋に、と山口と源三郎の三人。

すぐに源三郎が救急箱を持ち出して来て、未だに手当てされていない山口の左腕の治療を始める。

に桶に水を汲んでくるように頼み、が部屋を飛び出して行った後、源三郎は山口の腕を診る。

「・・・これは?」

その時漸く、源三郎は山口の傷口を縛っている淡い色の大きな生地に気が付いた―――それはとても見覚えのあるモノ。

その生地を山口の腕から解いてまじまじと眺めると、今まで大人しくされるがままになっていた山口が凄い剣幕でその生地を取り返した。

「それは確か・・・さんの・・・」

見覚えがあるのも当然だった。

それはこの間、勇がにと買ってやったものだったからだ。

おそらくは山口の腕の傷を見て、応急処置にとそれを使ったのだろう―――彼女の一番である勇から贈られた品を使ったという事実に、源三郎は驚きを隠せない。

何故かは解らないが、は山口をとても慕っているようだと源三郎は改めて思う。

「これは・・・俺が返す」

躊躇いがちに呟き、山口はそれを源三郎に奪われないようにと慌てて懐に押し込んだ。

それを黙って見届けて、源三郎は小さく息を吐くと治療を再開した。

どうして勇が山口を助けようとするのか?―――口には出さなかったけれど、源三郎とて気にならなかったわけではない。

しかしつい先ほどの勇と山口の遣り取りを見て。

そして今目の前にいる山口を見て、源三郎は何となく勇の心境を察した。

山口は少しばかり似ているのだ―――この家に住む、大切な少女に。

言葉があまり上手くない所だとか、あまり感情が表れない顔だとか、けれども言葉以上に気持ちを表す意思の宿った目だとか。

現状を考えればそれは当然のことだが、不安の色を隠し切れない山口の目は何かを我慢して自分の感情を殺している時のと良く似ている―――そんな目で見られれば、人の良い勇が見捨てられるわけもないだろう。

ガラリと小さな音を立てて襖が開き、水の入った桶を手に持ったが部屋に入ってくる。

それを目の端に映しながら、治療の手を止めずに源三郎は山口に一言言った。

「ちゃんと返してあげてくださいね」

それはにとって、宝物も同然なのだから。

言葉には出さずに、心の中だけで呟く。

源三郎の言葉にしっかりと頷いた山口に、訳が解らないは1人で首を傾げていた。

 

 

つねの『彼は夫の友人です』と言う言葉と桂の手助けにより、なんとか役人たちを退ける事に成功し、勇は夜を待って山口を連れて試衛館を出た。

一月程前に知り合った芹沢を頼ると言う勇の言葉に、は自分も付いて行きたいと珍しく積極的な態度を見せたが、勇と歳三の2人によってそれは却下された。

暗闇の中試衛館を出て行く勇と山口の後ろ姿を、は心配の色を隠せない様子で無言のまま見送る。

そんなと共に門前に出ていた歳三と山南は、消化されないまま残ってしまった疑問を抱えて、お互いに顔を見合わせた。

「なぁ、

辺りの静けさを壊さないほど小さな声色で、歳三はに声を掛ける―――その声に反応して、は名残惜しそうにもう姿の見えない2人の去って行った方向から視線を歳三に移した。

「お前・・・、何でそんなにあの野郎のことを気に掛けるんだ?」

なんだろう?と不思議そうな顔で自分を見上げてくるに、歳三は問う。

だけではなく、勇もそうだ―――それほど面識のない男を・・・しかも人を斬った罪人を、何故ああも必死に庇おうとするのだろうか。

勇の気持ちは、歳三にも解らないでもない。

山口のあの不安げな目は、今目の前にいる少女のものと良く似ていると、歳三も思っていた―――それを差し引いても、人の良い勇の事だから山口を見捨てる事など出来ないだろう事は容易に想像できる。

しかしの場合はどうなのだろうか?

一応も山口と面識はあるようだが、勇の話を聞く限りはそれほど親しい関係ではないだろうと思える。

それに加えて、あまり試衛館の人間以外とは積極的に関わろうとしないが、町で役人に追われている鋭い雰囲気を持った男を連れ帰り、あまつ彼を庇おうとする。

その理由が、歳三には解らなかった。

歳三の真剣な面持ちに、は困惑したように視線を泳がせて。

そして再び、勇と山口が去っていった方角へと視線を向ける。

「・・・私は」

躊躇いがちに、ポツリと零れた言葉。

の脳裏に甦る、彼女にとって何よりも大切な日の思い出。

辛くて、苦しくて、どうして良いのか解らなかったに温かい手を差し伸べてくれた、優しい笑顔の男の事。

「私はただ・・・」

手が差し伸べられた時の驚きと。

泣きたくなるほどの、安堵感。

「寂しそうな目を、してたから」

思わず重なった、かつての自分の姿。

山口が誰かの助けを欲しているようにには見えた―――そしてそれを山口に与える事ができるのは、自分を助けてくれた勇以外思い浮かばなかった。

「・・・そうか」

眉間に皺を寄せ、今にも泣き出しそうなほど弱々しい表情を浮かべたを見て、歳三はそれ以上何も言う事が出来なかった。

ただ遠慮がちに自分の着物の裾を握るの手を取って―――強い力で握り返してやる。

思わず顔を上げたは、苦笑を浮かべる歳三にニコリと笑顔を向けて。

今の自分はとても幸せだと、は改めて実感する。

大切な人が出来た。

何よりも大切な人―――そしてそんな人たちに、同じように大切に思われている事が良く解るから。

だから、嬉しくて笑った。

ありったけの感謝の気持ちを乗せて・・・―――いつか自分が受けた恩を、必ず彼らに返そうと心に強く誓いながら。

「そろそろ中に入りましょう。夜は冷えますから・・・」

穏やかな山南の声にはもう一度微笑んで、差し出された山南の手を取る。

両手に感じる、確かな温もり。

頭上で繰り広げられる、毒づく歳三とそれをサラリと交わす山南の遣り取りを眺めながら、は握る手に力を込めた。

 

 

耳に心地良い水音を聞きながら、山口は水面に映る月を眺めていた。

勇と芹沢のお陰で、山口はなんとか無事に江戸の町を抜け出せそうだ。

ひとまずの危機は去り、漸く落ち着いた山口は今日の出来事を思い出す。

自分の祝言の最中だというのに、役人を相手に自分を庇ってくれた勇。

何だかんだと文句を言いながらも、それでも匿ってくれた試衛館の人々。

そして―――山口は懐に押し込められた、ぐしゃぐしゃになってしまった柔らかな布を手に取る。

これを自分の腕に巻いてくれた少女の顔が浮かぶ。

変化しない表情―――けれどふとした瞬間に見せる柔らかい眼差しや、微かな笑顔。

自分を心配する目。

煙たがられる事はあっても、慕われるという経験は山口にはほとんどなかった―――だからこそ純粋に向けられる好意が、くすぐったい。

山口は自分の血で汚れてしまったそれを川の水に浸した。

ごしごしと乱暴な手つきで汚れを落として・・・暗闇の中ではよくは見えないけれど、大方の汚れは落ちただろう。

ギュッと絞って、それを広げてみる。

ハタハタと風に揺れる布を眺めながら、山口は試衛館がある方角へと視線を向けた。

返すと言いながらも返せなかった、にとって大切なモノ。

いつか返せる日が来るだろうか?

それは途方もなく無理な事のように思えた―――罪人である自分が、再び江戸に戻ってこられるのはいつになるか。

それでもいつかは、直接会って返したいと山口は思う。

そして・・・言えなかった礼を言いたい―――優しさを向けてくれた、あの少女に。

「・・・ありがとう」

とりあえず今は、届かなくとも言葉にして。

手にある布の存在を確かめながら、山口は微かに頬を緩めた。

 

 

◆どうでもいい戯言◆

斎藤(山口)さんと親しくなろう!を副題に、わき道逸れまくった内容でお送りしました。

何気に源さんが妙に出張ってたり(笑)

山南さんとの遣り取りが微妙ですが・・・彼はこれからも出現率は高そうなので、最初はこんなもので・・・。

斎藤さんの『おめでとうございます』も入れたかったんですが、そんなことしてると収拾つかないくらい長くなりそうだったので残念ですがカットです。

しばらくは斎藤さん出てこないな〜・・・メインなのに(笑)

作成日 2004.7.1

更新日 2007.9.13

 

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