ペラリと、微かな紙の捲る音がの耳に響く。

それほど静かではないというのに・・・―――けれどこの日の試衛館は、いつもの騒がしさが少しばかり消えていた。

 

やかな一日

 

稽古を終え汗を拭いた後、は山南の元を訪れた。

そして何をするでもなく、ただ書物を読みふける山南を眺める。

勇と歳三は、周助と共に府中の六所明神で奉納試合を行うべく、今朝試衛館を出発した。

最初はも一緒に行くはずだったのだが、ある事情によりそれも叶わなくなってしまった。―――要するに、今の彼女は暇を持て余しているのだ。

「・・・あの、さん」

自分の傍らに座り込んだに、山南は遠慮がちに声を掛けた。

どうしたのかと目で問い掛けるに、山南は困ったように苦笑する。

「そんなにジッと見られては、どうにも落ち着かないのですが・・・」

いつもの独特の笑みを浮かべて、書物に向けていた視線をに合わせる。

山南としては、が側にいる事に不満はない。―――初めて会った時と比べ格段に親しくなったと山南は、最近ではよく共にいる事が増えた。

自分を無邪気に慕ってくれるは山南にとっても可愛く、こうして共に時間を過ごせる事は嬉しく感じる。

しかしやはり顔を凝視されれば気にならないわけもない。

「・・・ごめんなさい」

見るからに落ち込んだ様子で謝罪するに再び苦笑を漏らして、山南は項垂れたの頭を優しく撫でた。

「暇なのですか?」

山南の優しい声色に、は顔を上げて1つ頷く。

「では、何か話でもしましょうか?」

「・・・何の?」

「そうですね・・・。では、現在どのように世の中が動いているのかを・・・」

言いかけた山南の耳に、ドタドタと慌ただしい足音が届いた。―――それが誰のものなのかを察し、開きかけた口を閉じる。

「あー!、こんなとこにいたんだ!!」

山南の予想通り、惚次郎が静かな雰囲気を打ち破って部屋に入ってきた。

「何か用か?」

「別に用事があったわけじゃないけど・・・」

首を傾げるに、拗ねたように頬を膨らませる惚次郎を山南は笑みを浮かべる。

「沖田君も暇なのですか?」

「暇じゃないけど・・・。でもなぁ・・・」

山南の問いかけに、惚次郎は手に持っていた木刀を肩に担いでつまらないそうにため息を吐き出した。

「なぁんで、若先生は私を連れてってくれなかったのかなぁ」

惚次郎の口から漏れた言葉の意味を察して、山南は本を捲りながら笑みを湛えて宥めるような口調で呟く。

「貴方がいなければ、誰が稽古をつけるんですか?」

「土方さんでいいじゃないですか!」

「それだけ君を信用しているということですよ」

「そうかなぁ・・・。でもなぁ・・・どーも蔑ろにされてる気がするんだよなぁ」

「塾頭が何を言ってるんですか」

納得できないと言わんばかりに宙を睨みつける惚次郎に、は恨みがましい視線を向けた。

本当ならば、も今ごろ勇たちと共に出かけている筈なのだ。

しかし惚次郎の『何で私はダメなのに、は連れて行くの?』と言う言葉に、今回は留守番させられる事になったのだ。

その事を思い出し、惚次郎は恐る恐るに視線を向ける。―――バッチリと合ったの目の奥に、自分を批難するような色を見て惚次郎は乾いた笑みを浮かべた。

「ま、まぁ・・・今更言っても仕方ないんだけど・・・」

誤魔化すように肩に担いでいた木刀を軽く振る。

それを目に映して、もそれもそうだと思い直し、再び山南の読んでいる書物を眺める。

そんな2人を目にして、山南は穏やかな笑みを浮かべると世間話のような口調で話し出した。

「沖田君とさんは、尊皇攘夷という言葉をご存知ですか?」

「ご存知ないですね」

あっさりと即答して、惚次郎は楽しそうな面持ちで木刀を振るう。―――も小さく首を傾げてフルフルと首を横に振った。

「井伊大老が何故殺されたのか、知っていますか?」

なおも重ねられる質問に、惚次郎は少しだけ考える様子を見せて・・・。

「・・・悪い奴だから?」

言ったすぐ後、自分の言葉に説得力がないことに気付いて、惚次郎は誤魔化すように笑う。

「よく解りませんよ」

「これからの武士は、剣術だけではなく世の中の動きをもっと勉強した方がいいですね」

「勉強ねぇ・・・。勉強する暇があったら、剣術の稽古したいなぁ・・・」

木刀を手にしみじみ呟く惚次郎に、山南は笑みを湛えたまま正面を見据えた。

「井伊大老は、異国人を嫌う天子様の御心を蔑ろにして、アメリカ国と手を結んでしまったのです」

「ああ。いいですよ、別に」

最初から世の中の動きになど興味のない惚次郎はあっさりと山南の説明を遮るが、しかし当の山南はそんなもの気にした様子なく更に口を開く。

「そして天子様を深く思う諸国の志士がこれに憤って立ち上がった。それが尊皇攘夷です。

近いうち、また幕府の要人が切られる事件が起こる。それだけではない、日本にいる異国人も狙われる」

最早、惚次郎やに説明をしていると言う面持ちではない。

どこか遠くを見て自らの思考に没頭している山南に、先ほどまでは興味など見せなかった惚次郎はパッと笑顔を浮かべて山南に駆け寄った。

「ねぇ!メリケン人って牛の匂いがするってほんとなの!?」

今までの真面目な話などぶち壊して、惚次郎が顔を輝かせる。

江戸に実しやかに流れている噂。―――惚次郎にとっては世の中の動きよりもそちらの方が興味深い。

「やっぱり牛の肉食べるから?」

自分なりに推理するが、そんな惚次郎に山南は苦笑を浮かべて。

「さぁ・・・、私は嗅いだ事がないので」

「・・・なぁんだ」

呆れたように返された言葉に、惚次郎は見るからに残念そうに呟く。

そんな惚次郎を目に映して、山南は漸く惚次郎に世の中の動きの説明をするのを諦めた。

再び本に視線を落として・・・―――その時が妙に静かな(と言ってもはいつも静かだが)事に気付いて、山南は再び顔を上げる。

「・・・どうかしましたか?」

眉間に皺を寄せて難しい顔をしているに気付き、山南は不思議そうに声を掛けた。

「・・・・・・」

しかしは何の反応も見せない。―――ただジッと床を睨みつけるように見詰め、身動き1つしなかった。

「どうしたの、?」

惚次郎もそんなに気付いたのか、心配そうな面持ちでに近づく。

するとは、小さな声でポツリと呟いた。

「・・・尊皇攘夷」

「・・・は?」

の口元に耳を近づけた惚次郎は、が呟いたその言葉を正確に聞き取った。―――それは山南も同様で、その呟きが先ほどの自分の説明の事なのだと気付いた山南は、嬉しそうに顔を綻ばす。

「興味がおありですか?」

尋ねる山南に、しかしは反応しない。

どうやら自分の思考に没頭しているようだと、山南は思う。

は世の中の動きに興味はなかったけれど、勇が世の中の動きに興味を示している事は知っていた。

勇との会話の中にごく稀にそんな言葉が出てくるのだが、しかしにはそれがどういうことなのかさっぱり解らない。

もし自分が世の中の動きに詳しくなれば、勇も喜んで話をするのではないか?―――そう考えたは山南の説明に聞き入っていたのだが、どうにも聞きなれない単語が多くてよく意味が理解できない。

考えれば考えるほど頭の中がぐちゃぐちゃになっていく気がして、は更に眉間に皺を寄せた。

「興味がおありなのでしたら、判り易く基本の方からお話しますよ?」

山南の優しい言葉に、は勢い良く顔を上げる。―――しかしその強張った表情を目の当りにして、山南は困ったように微笑んだ。

「ですが・・・まぁ、ゆっくりと勉強していきましょう。今日のところは興味を持ってくれただけで十分ですから・・・」

まるで追い詰められたかのような表情を浮かべるに苦笑して、山南は優しい手つきでの頭を撫でる。

それに少しだけ眉間の皺を緩めたは、詰めていた息を少しづつ吐き出した。

「とりあえず、顔を洗ってすっきりしてきてはどうですか?」

山南の提案に、はコクリと素直に頷く。―――ゆっくりと立ち上がって、未だ心配そうな表情の惚次郎に微かに微笑むと、そのまま部屋を出て行った。

そんなの後ろ姿を見送って、惚次郎は呆れたように息をつく。

って、若先生に似て生真面目なんだから・・・」

「そうですね。心根がまっすぐな方だ」

「もうちょっと、気楽に生きても良いと思うんだけどなぁ・・・」

しみじみと呟いて、惚次郎は同じようにの後ろ姿を見送る山南に視線を向ける。

「ねぇ、山南さん」

「なんですか?」

「・・・ずっと聞いてみたいなぁと思ってたんですけど・・・」

珍しく言葉を濁す惚次郎に、山南は不思議そうに首を傾げた。

「何をです?」

「山南さんって、のこと好きなの?」

言い難そうにしていたのも束の間、好奇心に負けて惚次郎はずばり本題に入る。

突拍子もない質問に、山南は唖然と惚次郎を見返した。

「・・・今、何と?」

「だからぁ、山南さんってのこと好きなんですか?」

邪気のない笑顔を向けられて、流石の山南も笑顔を浮かべる余裕もない。

惚次郎に言われた言葉をゆっくりと頭の中で反芻して・・・漸くその意味するところを察した山南は、慌てて口を開いた。

「な、何を言うのですか!!」

「何って・・・」

「馬鹿なことを言わないで下さい」

「馬鹿なことねぇ・・・」

山南の言葉に、惚次郎は意味ありげな笑みを浮かべる。―――いつも冷静な山南が慌てている姿を見るのは面白い。

「じゃあ、違うって言うんですか?」

「違います」

にはあんなに優しいのに?」

「・・・私にとってさんは、可愛い妹のようなものです」

問い詰めてみても、山南は当然とばかりにそう言うだけ。

時間が経つに連れて冷静さを取り戻してきた山南は、いつも通り無難な笑みを浮かべる。

そんな山南を見て内心面白くないと思いつつ、惚次郎は『そうですか』と一応は納得して見せた。

漸く惚次郎の誤解を解く事が出来たと、山南は安堵の息をついて書物に目を落とした。

「・・・でもなぁ」

しばらくの沈黙の後、惚次郎が独り言のように呟く。

「まだ、何か?」

少しばかり警戒して、山南は書物から目を上げずに問い掛ける。―――すると惚次郎は山南の声など聞こえていないかのような様子で、1人で納得したとばかりに頷いている。

「・・・沖田君?」

放っておいても良かったのだが、また何か変な誤解をされていると厄介だと思い直し、山南は渋々惚次郎の名前を呼ぶ。

「私、思うんですけど・・・」

「何がですか?」

「山南さんて・・・本当に誤解なら、少しも慌てたりしないと思うんですよね」

やはり惚次郎は、まだ先ほどの話題を終わらせるつもりはないらしい。

「突然、思ってもみないことを言われれば、誰だって言葉を失うと思いますが?」

「それはそうなんですけどね・・・」

押したと思えばあっさりと引いてみせる。―――惚次郎の思惑が解らず、山南は僅かに眉を顰めた。

「でも、さっきの山南さん。顔真っ赤でしたよ?」

悪戯っぽく告げられて、山南はとうとう我慢できずに顔を上げた。

それと同時に惚次郎は立ち上がり、山南の手が届かないところまで慌てて逃げる。―――恨めしそうな視線を投げかけてくる山南に、惚次郎はにっこりと微笑みかけた。

「でもね、山南さん。を手に入れたいなら尋常じゃないくらい覚悟と努力が必要だと思うよ」

「・・・・・・」

「だってって恋愛事とかには相当鈍いし・・・。それ以前に、若先生と土方さんっていう巨大な壁があるしね。若先生は普段は優しいけど、が絡むと凄く怖いし」

瞬時に脳裏に浮かんだ勇の姿に、山南は妙に納得する。―――あの過保護っぷりは、惚次郎にそんな事を言われても仕方がないと思えるほどだ。

「ま、頑張ってよ。応援はしませんけど」

そう言い残して、惚次郎は山南の返事が返ってくる前に部屋を飛び出して行った。

先ほどまでの騒がしさが嘘のように静まり返った部屋に、山南は1人残される。

「・・・まったく、困ったものだ」

ため息混じりに呟いて、山南は三度本に視線を落とした。

試衛館には珍しい、静かな日。

窓から入ってくる風はまだ少し冷たいけれど、頭の中がすっきりするようで心地良い。

そんな読書日和に、山南は黙々と本に目を向けて。

けれど先ほどの惚次郎の言葉がグルグルと頭の中を回り、本の内容は一向に頭の中に入っては来なかった。

 

 

山南に言われ顔を洗いに井戸に向かったは、そこに先客がいる事に気付いた。

勇の妻である、近藤つね。

祝言を挙げてからほぼ半年。―――漸く試衛館にも馴染んできている。

「・・・・・・つねさん」

「あ、さん。こんにちは」

洗濯をしていたつねは、の声に顔を上げるとにっこりと笑顔を浮かべた。

それにも微かに笑みを浮かべて、こんにちはと頭を下げる。

「・・・・・・?」

不意にが小さく首を傾げた。―――まだとの関わりが短いつねではあるが、最近は少しばかりの言いたい事を理解できるようになった。

の視線を辿っていくと、その先には洗濯桶がある。

「洗濯をしているんです」

見れば解るだろうとは思ったが、つねは律儀にに声を掛ける。―――するとは1つ頷いて、神妙な顔で家の中へと視線を向けた。

つねが洗濯を始めたのはずいぶんと前の事だ。

今もまだ洗濯をしている事に驚き、そしてそれをふでが怒っているのではないかとは思う。―――それに気付き、つねは小さく苦笑した。

「もう、怒られてしまいました」

「・・・そうか」

まるでが怒られてしまったかのように肩を落としたのを見て、つねは慌ててに駆け寄る。

「大丈夫ですよ。別に気にしていませんから・・・」

「・・・・・・」

本当に?と目で問い掛けるに、つねはにっこりと微笑んで頷いた。

それに安心したように表情を緩めて、は洗濯桶の前に座り込む。

「手伝う」

「いえ、大丈夫です。さんは剣術の稽古があるのでしょう?」

「もう、終わったから」

「でも・・・」

つねが言い終わらないうちに、は洗濯物に手を伸ばしてゴシゴシとそれを洗い始めた。

一心不乱に洗濯物と格闘するを前に、つねはやんわりと微笑む。

はああ見えて頑固だから・・・』

以前何かの会話の中で、勇がそう言っていたのを思い出す。―――確かにそうだと、日々の暮らしの中でつねは実感していた。

「ありがとうございます」

同じように洗濯桶の前に座って、洗濯物に手を伸ばしつつ礼を言うと、顔を上げたが嬉しそうに微笑んだ。

「顔に泡がついてますよ?」

言いつつ泡を取ってやって、洗濯を再開したに習ってつねも手を動かす。

2人でやれば、時間がかかっていた洗濯もあっという間に片付いていく。

爽快なほど綺麗に干された洗濯物を目に映して、2人は満足気に笑い合うと次の仕事である買出しに向かうべく門へ足を向けた。

 

 

数日後、奉納試合に出向いていた勇たちが試衛館に帰ってきた。

出迎えに出たは、そこに立っている予想外の人物に目を丸くする。

「・・・永倉さん?」

「お久しぶりです」

勇と歳三に連れられるように試衛館に足を踏み入れたのは、3年ぶりの再会となる永倉新八。―――以前多摩で盗賊を退治する際知り合った、老け顔の剣士だ。

どうして永倉が一緒にいるのかと首を傾げるに、勇はニコリと笑みを向ける。

「いろいろあってね。これから永倉さんはうちの食客なんだ」

「・・・・・・」

「仲良くするんだぞ」

勇の言葉に、はコクリと頷く。

「よろしくお願いします」

「・・・よろしく、お願いします」

律儀に頭を下げる永倉に、も深々と頭を下げた。

ともかくも。

試衛館に、再び騒がしい日常が戻ってくる。

 

 

◆どうでもいい戯言◆

なんですか、これは?(オイ)

難しい・・・。何が難しいって、何を書いて良いのか解らなくて難しい(ダメダメ)

苦し紛れに山南さんと絡ませて見たり・・・自爆してますが(笑)

本当は勇たちと一緒に行っても良かったんですけど、そうなると話がとてつもなく長くなりそうで・・・それに山南さんとか惚次郎とかと絡みないし。

一応惚次郎の『頑張って』は、宣戦布告のつもりです。―――言わないと解らないっぽい感じがしたので。

作成日 2004.7.1

更新日 2007.10.21

 

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