風に押し流され、雲間から黄金の月が顔を覗かせる。

ゆっくりと静かに辺りに降り注ぐ月明かりに浮かび上がるのは、1人の少女と1人の男。

この邂逅は、果たして幸か不幸か。

それはまだ、誰にも解らないけれど。

 

 

ドン、というテーブルを叩く大きな音に、酒場にいた男たちは何事かと顔を上げた。

視界を巡らせれば、そこには挑むような眼差しでカウンターに手をつく少女と、困ったように眉を下げるマスターの姿。

ああ、いつものことか。と男たちはそれぞれ仲間たちとの会話に戻っていく。

それほどまでに、この光景は既にこの酒場にとっては見慣れたものであった。

しかしそれが許されない酒場のマスターは、まったく引く気のない少女を見やり、心底参ったというようにため息を吐き出した。

ちゃん、そんな事言われてもね」

「何でもいいの!何か情報ない!?お金になりそうなやつ!!」

なんとか諦めさせようとやんわりと少女に声をかけるが、と呼ばれた少女に諦める気配は微塵もない。

やぶからぼうにそんな事を言われても・・・とマスターは心の内で呟くも、仕方がないとばかりにもう1度ため息を吐き出した。

「お金になりそうなやつって言ったって、そんな簡単に上手い話なんて無いよ」

「それは解ってるけど・・・」

「なんでそんなにお金が必要なの?前に紹介した仕事だって、それなりにお金になったはずだけど・・・?」

そう言われてしまっては、流石のも口を噤まずにはいられない。

確かに前回マスターに無理を言って紹介してもらった仕事は、思っていたよりも報酬がよかったのは確かだ。

本当にありがたいと思っている。

しかしそれはそれ、これはこれだ。

に仕事が必要なのは今も変わらない。―――それもお金になる仕事が。

「お願い、マスター。どうしても稼がなきゃならないの。何かお金になりそうな情報ない?」

マスターに感謝している気持ちは当然あり、は少し声色を和らげてそう問いかける。

「・・・ちゃん」

「何でもいいの!多少危険な事だって大丈夫。だから・・・」

ちゃん」

更に言い募ろうとしたの言葉を遮って、普段は物腰柔らかいマスターが咎めるような声色で彼女の名前を呼んだ。

それにグッと言葉に詰まったを見て、マスターはやれやれと肩を竦めて。

ちゃん。確かに貴重な情報を得る事は危険も伴う。だけど君はまだ若く、経験も浅い。危険な事だって大丈夫なんて軽はずみな発言はやめなさい」

「・・・マスター」

キッパリとそう告げられ、は漸く諦めたのかため息を吐き出しつつがっくりとカウンターに突っ伏した。

どうやら今回は珍しくマスターに軍配が上がったようだ。

何故かには甘くなってしまうマスターにしては珍しい事でもあると、酒場にいた男たちは心の隅でそう思う。

「さ、これでも飲んで落ち着いて。この間みたいな報酬は期待できないけど、何か仕事は見繕ってあげるから」

そう言って差し出された湯気を立てるマグカップを恨めしげに見つめつつ、は言われるままにそれに手を伸ばす。

まだ未成年の部類に入るに、酒場とはいえ酒は出せない。

では何故まだ酒も飲めないが酒場に頻繁に顔を出しているのかといえば、それは彼女の職業にも関係する。

。職業、情報屋。

まだまだ駆け出しの情報屋ではあるが、何が何でも依頼を遂行しようとするその意欲と、これまで出してきた結果でそれなりに名前は知られている。

とはいえ、やはりまだ駆け出し。

それほど大きな仕事をしたわけでもなく、その評価は高いとはいえないけれど。

彼女がこの酒場に顔を出すようになったのは、もう半年以上も前の事。

突然この酒場に姿を現し、今と同じようにマスターに向かって何か仕事はないかと詰め寄った姿はもう遠い過去の出来事のようだ。

それほどまでに、この酒場での彼女の出現率は高い。

特別仕事がない時には酒場でウェイトレスのバイトをしているという事もあってか、この酒場においての彼女の認知度は非常に高かった。

しかし何故そこまでお金が必要なのか。

そして彼女がどこの誰なのかを知っている者は非常に少ない。

おそらくマスターは知っているのだろうと常連たちは思っているけれど、生憎とマスター自身が口を開かない為、常連の誰もが問いかける事すらやめてしまっていた。

ちゃん、それ飲んだら今日はもう帰りなさい。明日までには何か仕事を見つけてきておいてあげるから」

「でも・・・!」

無言でカップを口元へ運ぶに向かい、マスターがそう声をかける。

それに反論しようと口を開きかけたは、しかししばらく逡巡した末にコクリと静かに頷いた。

自分がどれほど無茶を言っているのかは解っている。

マスターには、本当に感謝してもしきれないほど感謝しているのだ。

だからこそ、これ以上困らせるようなマネはしたくない。―――今でも十分に困らせているという事実は別にして。

「・・・じゃあ、お願いマスター。明日、また来るから」

「ああ、おやすみ」

飲み終えたカップをマスターへと手渡して、は幾分肩を落としつつ酒場を出る。

空を見上げれば、厚い雲に覆われて月の姿は見えない。

月明かりの遮られた街の中は薄暗く、まるで今の自分の心境を表しているようだと思った。

「・・・はぁ。やっぱそんな上手い話なんて早々ないか」

自分に言い聞かせるように呟いて見たものの、それで納得できるわけもない。

ともかくお金が必要なのだ。―――できるだけたくさんの、お金が。

お金がなくても人は幸せを感じる事は出来る。

仕事に没頭するに向かい、いつか誰かが言った言葉。

確かにそうだとも思った。―――これまではお金がなくても、自分を不幸だと思った事は一度もない。

けれどお金がなくては生きていけない事も確かだった。

そう思うようになったのは、も大人になったからだろうか。

守られているだけの子供ではなく、今度は自分が守るべき人間になりたいとそう思った。

まぁ、現実はそう甘くはないけれど。

「はぁ。・・・どっかにお金転がってないかな?」

もうかなり末期なのかもしれない。

そう思いつつ、無駄だと知りながらも地面を睨みつけたは、しかし背後から掛かった声に訝しげに顔を上げた。

振り返れば、そこには1人の男が立っている。

見たこともない顔だ。

「・・・何か?」

確かにここ、帝都・ザーフィアスは広い。

知らない顔があるのは当然だ。―――しかし知らない顔が自分に声をかけてくる訝しさを、が知らないわけではなかったけれど。

「頼みたい仕事があるんだけど・・・」

「・・・頼みたい仕事?」

「報酬は弾むよ。ただし、成功報酬だ」

上手い話には罠がある。

信用できない仕事の話には絶対に乗るな、とマスターにはきつく言われている。

けれど・・・。

「・・・どんな仕事?」

マスターの忠告に気付かない振りをして、は目の前で微笑む男に向かい挑むような眼差しでそう応えた。

 

 

上手い話には罠がある。

は今まさに己の眼前に聳え立つ巨大な建物を見上げて、それを実感していた。

「・・・確かに、多少危険な事だって大丈夫とは言ったけどさ」

それはあくまで多少であって、その度合いを測るのは人それぞれだろうが。

それにも限度があるという事を、あの男は少しも考えなかったのだろうか。

「これはどう考えても『多少』じゃないよねぇ・・・」

足元を見られた感じがしないわけでもない。

確かにあの男が提示した報酬額は破格だった。

駆け出しの情報屋であるには、到底回ってこないだろう仕事。

これを成功させれば、少しは余裕を持てる。―――勿論、依頼内容は報酬額に見合った難易度ではあるが。

「騎士団内部の情報をつかんで来い、なんて・・・あの男、一体何企んでるんだか」

一見人の良さそうな顔をした男の姿を思い出し、呆れ混じりにそう呟く。

身なりからして、おそらく貴族。

帝都には反政府グループもいるという話だし、もしかするとそこらへんの関係者なのかもしれない。

どちらにしたって、相手が誰であろうと仕事を引き受けたからには遂行するのがのモットーだ。

「・・・なんで引き受けちゃったかなぁ、私」

今更ながらに後悔しても遅い。

引き受けてしまった事実は変わらない。

それほどまでに切羽詰っていたという事実に、やはり足元を見られた感が強いけれど。

しかし引き受けてしまったからには、仕事は仕事。

やると決めたからには、絶対に成功させて報酬を手に入れる。

そう気合を入れなおし、はどうやって城内に忍び込むかの算段を始めた。

城壁は高く、よじ登ることは不可能に思えたし、暢気にそんな事をしていては見回りの騎士にあっさりと見つかってしまうのは目に見えている。

どこかに通り抜けられそうな穴があればいいんだけど・・・とそこまで考えたところで、はふと知り合いの騎士が零していた言葉を思い出した。

なんでも、どこからか猫が忍び込んでくるらしい。

その猫が城内のごみ置き場を荒らすので困っている、と確かそう言っていた。

早くその穴を塞いでしまわなければと言っていたけれど、もうその穴は塞がれているのだろうか?

確かめてみる価値はあると、記憶を頼りにうろうろと探し回っていると、おそらくは例の猫が使用しているだろう小さな穴を見つける事が出来た。

「・・・やった!ついてる、私!」

パチンと小さく指を鳴らして、は生い茂る葉を掻き分けながらその穴へと身を乗り出す。

その穴は非常に小さなものであったけれど、女性であるでもなんとかギリギリ通り抜けられそうだ。

「やっぱり、人脈は広い方がお得よね」

情報屋として、にも多少の人脈はある。

まだ駆け出しなのでそれほど広くもないが、一般人から同じ情報屋、騎士や貴族まで。

勿論貴族などは同じ貴族ではない限り冷たいものだし、騎士だとて早々情報漏えいするわけもなかったけれど、ちょっとした世間話が意外と役に立つものだとは実感した。

「さて、と。それじゃ、お邪魔しま〜す」

一応は断りを入れて、狭い穴をなんとか通り抜ける。

そうしてすぐさま茂みに身を隠して辺りを窺うも、幸いな事に周囲に人の気配はなかった。

「そりゃま、ゴミ捨て場だもんね。見張り立てる必要もないし、早々見回りの騎士も来ないか」

それはそれでありがたいが、問題はこれからどうするかだ。

依頼主の求めている情報は、当たり前だがゴミ捨て場にあるとは思えない。

ここにあるのは、城内の食堂で出た生ごみぐらいなものだろう。

もしかすると何か書類もあるかもしれないが、暢気にごみを漁っていては見つかってしまうのが関の山だし、そもそもそんなにも重要な書類を解る形で捨てるとも思えない。

という事は、必要な情報を手に入れる為にはそれなりの場所へ行かなければならないという事だ。

「って言ってもねぇ。城内の見取り図なんて持ってないし、どこへ行けばいいものやら」

心底困ったとばかりに呟くも、引く気は元よりさらさらない。

「・・・多少の危険は覚悟の上、ってね」

己自身を鼓舞するようにそう呟き、は注意深く周囲の様子を窺うと、意を決して足を踏み出した。

 

 

しかし意欲だけではどうにもならないという事を、はこの後嫌というほど実感させられた。

ゴミ捨て場付近とは違い、城内に近づけば近づくほど騎士の姿が目に映る。

夜の闇が上手くの姿を隠してくれているのでまだ見つかってはいないが、このままだと見つかってしまうのも時間の問題のような気がした。

「・・・どうしよう」

小さくポツリと呟いたと同時に、おそらくは騎士のものだろう足音が聞こえ、咄嗟に口を噤み息を殺す。

茂みの中から様子を窺いながら、その騎士がに気付かず通り過ぎていくのを確認して、ホッと息を吐き出した。

「・・・これは何か作戦が必要よね」

今更ながらにそう思い、ひとまず人気のない場所へと気配を殺しつつ移動する。

この仕事を軽く見ていたわけではない。

作戦が必要な事など今更過ぎて笑えもしないが、忍び込む前に考えても何も思い浮かばなかったのが本当のところだった。

だからこそは、忍び込んでから状況を見て考えようと思い実行に移したのだが、それではやはりどうしようもなかったのだと実感した。

「さてと、この辺りは大丈夫そうかな?」

先ほどのゴミ捨て場とは違うが、ここも他と比べて騎士の姿が見えない。

一体今自分がどこにいるのかも解らないが、それでも心を落ち着かせるには十分だと判断し、念の為と茂みに身を隠しつつ疲れたようにその場に座り込んだ。

「・・・はぁ」

出てくるのは、ため息ばかり。

もうこの時点で、この任務が尋常ではなく遂行不可能なのではないかという気がしてきた。―――いや、本当はもうずっとそう思っていたのだけれど。

「・・・やっぱりマスターの言う事、素直に聞いておけば良かったかな」

今更といえば今更だけれど、この事をマスターが知ればどう思うだろう。

無茶な事をして、と怒られるだろうか。

それとも呆れられるだろうか。

最悪、見放されてしまうかもしれない。

そうなれば、まだまだ駆け出しのが仕事を得る事は今以上に難しくなる。

どうしてあのマスターがに良くしてくれるのか、それは解らなかったけれど、ただの客である娘の事を本気で心配してくれるマスターの存在は、にとってはとてもありがたかったし、また嬉しかった。

仕事よりも、そんな存在を失ってしまうかもしれない事の方がにとっては辛かった。

それでもこの仕事を受けてしまったのは、やはり切羽詰っていたからだ。―――そんな事、何の言い訳にもならないけれど。

「・・・はぁ」

行く事も戻る事も出来ず、地面のしゃがみこんだままはもう1度ため息を吐き出す。

そうして重い気持ちのままゆっくりと空を見上げて目を細めた。

暗く、重い雲。

いつもは見えるはずの月のない空は、圧し掛かってきそうなほど重く近い。

今ならば空に手が届くのではないかと馬鹿な事を考え、はゆっくりと立ち上がるとそっと空に向かい手を伸ばした。

まさしく現実逃避だった。

けれど、思うのだ。

もしこの空に手が届けば、自分ももう少し頑張れるかもしれない。

この厚い雲を払いのけて、優しい月明かりが見えれば、もう少し頑張れるかもしれないと。

そんなの手は当然ながら空には届かなかったけれど、しかしその願いは届いたのか、強い風に煽られて雲がゆっくりと流れていく。

ふわりと風に流れる長い黒髪をそのままに、はこの空のどこかにあるだろう月の姿を必死に探す。

それは自分の希望を探すのと似ているのかもしれなかった。

この明らかに不利な状況で、絶対に起こりそうにもない出来事が起こった時、自分もまた動き出せるのではないかと。

そうして流れる雲間から、ゆっくりと黄金の月が顔を覗かせた。

その柔らかい光はそっと辺りを照らし、薄暗かった周囲は少しづつ光に染まっていく。

それは昼間の太陽の光に比べれば随分弱いものだったけれど、それでも暗闇を拭い去るには十分な力を持っていた。

「・・・綺麗」

まっすぐに月を見上げ、は知らず知らずそう呟く。

月明かりに照らされた建物の窓も、自分の周囲にある木も葉も、キラキラと輝いているように見えた。

普段当たり前にあるそれが、どれほどありがたいものなのか、はそれを実感した。

「・・・よし」

これでまた動き出せる。

任務はおそらく遂行できないだろう。

こういう職業において失敗は痛いものだが、相手も早々騒ぎ立てる事の出来ない立場である事も事実。

今回は痛みわけとして、今後また一から頑張っていけばいい。

そう思い直し、はさっさと帰ろうと踵を返した。―――その瞬間の出来事だった。

「・・・そこで何をしている」

不意に男の声が響き渡り、はビクリと肩を震わせる。

嫌な予感どころではない。

最早最悪の状況といっても過言ではないだろう現状に頬を引き攣らせつつ、はゆっくりと振り返った。

そこには、1人の男が立っていた。

前髪で顔の半分以上が隠れているが、見えている片方の眼光は鋭い。

何よりも、その男の格好が問題だった。

一般の騎士が着ている鎧姿ではない。

もしかすると部隊長クラス。―――最悪、どこかの隊長クラスかもしれない。

「・・・え、〜と」

自分の不運さ加減を呪いたくなった。

何もやり直そうと決意した直後に、見つかってしまう事もないのではないかと。

「何をしている、と聞いている」

言い淀むに、男は冷静さそのものの声色でもう1度そう問いかける。

ダメだ、と瞬時にそう思った。

この男から逃げ切れるとはとても思えない。

「あ、の〜・・・」

「・・・?」

「え〜っと・・・」

視線を彷徨わせ、言葉にならない声を発するを、男はジッと見つめている。

その視線に耐えかねたは、自分を見つめる男へとヘラリと引き攣った笑みを向けた。

 

 

初めまして、なんて

(その場に落ちた沈黙が、何よりも痛かった)


ヴェスペリア、連載開始。(性懲りもなく)

とはいえ、この回にヴェスペリアキャラがほとんど出ていませんが。

最後にちょこっとだけ。

この人が、ヴェスペリアのメインであり、主人公のお相手です。

 

作成日 2009.11.15

更新日 2009.12.13

 

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