掻き集めた資料を抱えて、はジェイドの執務室へ続く道を歩いていた。

『・・・心は痛くなかった?あんな風に言われて』

先ほどフリングスに言われた言葉が、優しく・・・けれど哀しく響く。

「・・・痛くない」

何故か自分の足がとても重く感じられて、はその場に立ち止まるとポツリと呟く。

廊下の窓から外を眺めれば、そこにはの好きな水の煌きがある。―――夕陽に照らされたそれは、いつにも増して美しく見えた。

それでも気が晴れないのは、どうしてなのだろうか。

『カーティス大佐も、今頃は迷惑に思っているのかもしれませんわね。昔気紛れに拾っただけの子供が、何時までも自分の傍にいる事を』

悪意ある言葉は、確実にの心を傷つけている。―――彼女自身にその自覚はなくとも、放たれた言葉は深く少女の胸の奥へと沈んでいく。

それでもは知っていた。

もしもジェイドが本当に迷惑と感じているならば、隠す事無くそれを告げるだろう。

ジェイドはあまり多くを語らないが、それでも真実を曲げる男ではない。―――本当の優しさを、間違える者でも・・・。

だからは、ジェイドの言葉だけを信じていれば良いのだ。

彼にとって必要である間は傍にいると誓ったのだから・・・―――他の者の言葉に惑わされる必要など、どこにもない。

そう結論を下したは、滝に注がれていた視線を逸らし再び前を見据え歩き出した。

 

記憶はどこまでも無色

 

「・・・ずいぶんと遅かったですね。どこで道草を食っていたのです?」

執務室に戻ったを迎えたのは、微かに苛立ちの混じったお咎めの声だった。

どことなく不機嫌そうな雰囲気を漂わせ、もう既に飽きてしまった書類処理に追われているジェイドを見詰め、は僅かに目を伏せる。

「・・・ごめん。途中で資料を落としちゃったから」

そう言ってまだ少し乱れが残っている資料を自分の机に置き、改めてそれを整える。

中には古い物もあり、しっかりと綴じられていない物も。

そういった物は運悪くバラバラになってしまったらしい。―――全て拾ったのだから欠如している部分はないだろうが、それでも一から纏めるのは根気が要りそうだ。

思わぬ出来事から生まれた余計な仕事にため息を吐き出しつつも、はぐちゃぐちゃになってしまった資料に手を伸ばす。

「・・・

そんな時、唐突にジェイドに名を呼ばれ、は落としていた視線を上げた。

しかしジェイドの視線は未だ資料に注がれたまま。

「貴女に大切な話があります。―――こちらへ来なさい」

それでもそう言われればに反論する理由もない。―――素直に言われた通り立ち上がり、執務机を挟むようにしてジェイドの前に立った。

それを察したのか、漸くジェイドが顔を上げへと視線を向けるが、彼女を見た途端に彼の形の良い眉が少しだけ上がる。

「・・・頬が少し赤くなっているようですが・・・」

何かありましたか?と言外に含めて尋ねると、しかしは首を横に振って。

「ただ転んだだけ」

「・・・顔からですか?」

「資料を持ってたから、手をつけなかった」

疑惑の眼差しを向けるジェイドにも、は無表情でそう答える。

あの少女たちの事を、ジェイドに報告する気はにはさらさらなかったし、またその必要があるとも思えなかった。

「・・・ま、良いでしょう」

納得したのか諦めたのか、それでもジェイドはため息と共にそう零し、再び手元の書類へと視線を落とす。

何か話があったのではなかったのだろうかとが小さく首を傾げると、ジェイドはその体勢のままゆっくりと口を開いた。

「大切な話というのは貴女の事です」

「・・・私?」

「ええ。実は貴女の第三師団の脱退と、他師団への移動を考えているのですが・・・」

いつもと変わりない口調であっさりと告げられたその言葉に、は瞬時に意味が理解できずにぼんやりとジェイドを見詰める。

そうしてゆっくりと噛み締めるようにジェイドの言葉を認識すると、真っ直ぐに彼に視線を送る。―――ジェイドは書類に視線を落としたまま、顔を上げようとはしない。

「・・・どうして?」

「・・・・・・」

「私、何か悪い事した?何か・・・失敗した?」

「・・・

抑揚のない声で問い掛けるを咎めるように、ジェイドは彼女の名前を呼んだ。

それに大人しく口を噤んで、ジェイドの言葉を待つ。

聞かなければいけない。―――彼が、自分に何を望んでいるのかを。

、間違えないでください。現在の貴女はマルクトの軍人なのです。私的な理由での意見は許されません。適材適所という言葉があるでしょう?貴女は貴女の力が求められている場所でその力を奮いなさい」

向けられる言葉は、とても冷たい響きを持っていた。

かつて自分に向けられた優しい声ではない。―――とても冷ややかで、とても鋭い。

は力ない瞳で椅子に座るジェイドを見下ろした。

ジェイドは依然顔を上げようとはしない。

まるで自分の前には誰もいないような・・・全く感心がないような素振りで。

『カーティス大佐も、今頃は迷惑に思っているのかもしれませんわね。昔気紛れに拾っただけの子供が、何時までも自分の傍にいる事を』

ジェイドの言葉だけを信じると決めたの胸に、何故少女の言葉が鋭く突き刺さるのか・・・その原因もには解っていた。

ここ最近の、ジェイドの自分に対する態度。

まるで自分を避けているような・・・拒絶しているような雰囲気を纏い、決して自分とは目を合わせようとはしない。―――そう、まるで今のように。

信じないと頑なに自分を納得させつつも、心のどこかでは思っていたのだ。

あの少女の言葉が正しいのではないか、と。

「・・・ジェイド。私はもう、ジェイドには必要ない?」

「第三師団は上手く纏まっています。貴女が心配する事は何もありませんよ」

シンと静まり返った室内に、にとっての最後通告と言っても過言ではないジェイドの言葉が響き渡った。

自惚れていたわけではないけれど。

ジェイドの役に立つ事が出来るかもしれないと、はそう思っていた。

何もかもを器用に出来るとは言えないが、手当たり次第に得た知識も譜術もある。―――キムラスカとの情勢が不安定な現在、戦う為の力を身につけている自分は、きっとジェイドの役に立てるだろうと。

けれど・・・は漸く気付いた。

やはり自惚れていたのだと。―――何も持たない自分が、ジェイドに求められる事などある筈もないというのに。

「・・・解った」

しばらくの沈黙の後、はそう返事を返した。

「では、そのように手続きを進めておきます。―――これで話は終わりです。悪いのですがこの書類を参謀総長へ届けてもらえますか?」

まるで何事もなかったかのように、ジェイドはに書類を差し出す。

けれどやはりジェイドは顔を上げぬまま・・・手だけで差し出されたその書類を受け取って、は踵を返した。

そのまま振り返る事無く、執務室を出て。

扉を閉める寸前、聞こえて来たジェイドのため息を耳に、は微かに眉間に皺を寄せた。

 

 

現在、マルクト帝国皇帝であるピオニー9世は困り果てていた。

突然自室にがやって来たのだ。

普段からピオニーの私室に、彼の許可を得て出入りする。―――それだけならば別段驚く事ではないのだが、問題は部屋に来たが部屋の隅に座り込み沈黙を守っているという事だった。

あまりおしゃべりではない方の部類に入るだけに、無言であってもそれほど不自然はないはずだというのに・・・それでも現在彼女が纏う雰囲気は、ピオニーが初めて感じるものである事は確かだ。

「・・・で?一体何があったんだ、?」

「・・・・・・」

沈黙に耐え兼ねて優しく諭すように声を掛けるも、は膝を抱えて俯いたまま顔を上げようともしない。

終いには彼女にとてもよく懐いているピオニーのブウサギ達が、に遊んでもらおうと押しかけ、ベットと壁の細い隙間に座り込んでいるに群がっている。

まるで襲われているような光景に見えなくもないが、ブウサギ達もの様子を察してか、鼻を鳴らして大人しく彼女に寄り添っていた。

そんな微笑ましいような異様なような光景を眺めて、ピオニーは困ったようにベットの端に腰を下ろすと、に背を向けたまま確信犯で口を開く。

「ジェイドと喧嘩でもしたのか?」

その言葉にの肩がピクリと動いたのを、ピオニーは確かに横目で見た。

何がどうなっているのかは解らないが、がジェイドの話に反応を示さない訳がないという事をピオニーは知っている。―――そして滅多な事では動じないの感情を揺り動かす事が出来るのは、ジェイドだけだという事も。

「・・・してない」

一拍後に、ポツリと呟きが返って来る。

その言葉を信じるかどうかはともかく、今回のこのの落ち込みようにジェイドが関わっている事は明白だった。

俺の可愛いを・・・!!などと場違いな事を考えていると、それに答えるかのようにピオニーの私室のドアがノックされる。

あまりのタイミングに思わず扉を睨みつけるも、返って来るのは静かなノック音だけ。

仕方なく入室を許可すれば、入って来たのは今現在問題に挙げられている片割れ。

沈み込んだ表情のとは対照的に、飄々とした態度を崩さないジェイドは、そのまま何事もない様子でピオニーの私室に足を踏み入れた。

「・・・なんだ?俺に何か用か?」

「ずいぶんご機嫌斜めのようですね。何かありましたか?」

不機嫌さを隠す事無く出迎えたピオニーに、ジェイドは茶化すような声色でそう尋ねる。

お前のせいだと口をついて出そうになるが、それをすんでのところで飲み込んで、何となく・・・そう、何となく部屋の隅で蹲るが見つからないようにと、ピオニーは立ち位置を変えてジェイドと向かい合った。

それはジェイドが部屋に入った途端、の身体が強張った事に気付いたからかもしれない。

常ではないそのの様子が、無意識にピオニーにそういう行動を取らせていた。

「別に何でもねぇよ。・・・それよりお前がわざわざここに来るなんて、一体何の用だ?」

軽く肩を竦めて話を摩り替えるようにそう口を開くと、ジェイドはわざとらしく困ったという動作をして見せる。

「書類を提出する為に出て行ったが、まだ戻って来ないんですよ。なので、もしかするとここかと思いまして」

「わざわざ迎えに来たってのか?」

「まぁ・・・まだ仕事はありますからね」

言葉を濁しつつ眼鏡を押し上げるジェイドを見据えて、ピオニーはまたもや軽く肩を竦める。

「残念ながら、はいねぇよ」

「・・・そのようですね。―――おや?そういえば今日はブウサギ達が・・・」

ピオニーの言葉に素直に納得したジェイドは、ゆっくりと部屋の中を見回して。

常ならばこの部屋の主よりもこの部屋を独占している、彼の最愛のペットたちの姿がない事に気付き、意外だとでも言うように軽く目を見開く。

そうして部屋の片隅に群がる、自分や自分に近しい者の名前が付けられたブウサギ達を発見したジェイドは、訝しげに眉を寄せた。

「・・・陛下。あのブウサギ達は、何故あそこに集まっているんです?」

「ああ?飯の時間だからだ」

「・・・・・・何故あんなところで」

「どこで飯をやろうが、俺の勝手だろうが」

キッパリとそう言い切り口角を上げたピオニーを呆れた様子で眺めて、ジェイドはふうとため息を吐く。

いつもよく解らない理由で、よく解らない行動に出る人だとは思っていたけれど。

けれど確かにピオニーがこの部屋のどこでブウサギ達に餌を上げたとしても、ジェイドに関係がない事も確か。

深く係わり合いになるつもりなど毛頭ないジェイドは、そうですかとあっさりと納得して、ブウサギ達の山からピオニーへと視線を戻した。

「では、もしがこちらへ来たら、すぐに執務室に戻るよう伝言をお願いします」

「お前・・・この俺を伝言板代わりに使うつもりか?」

「余計な事を言わない分、伝言板の方がまだマシですよ」

恨めしげに睨み付けるピオニーの視線を軽く流して、ジェイドはお願いしますよと念押しをしてからピオニーの私室を出て行った。

伝言板代わりにされたピオニーは、憮然とした表情でその背中を見送って。

そうして完全にジェイドの気配が感じられなくなった頃、ブウサギ達の群れで埋もれるへと視線を向けた。

「・・・だとよ、

「・・・・・・」

声を掛けるも、やはり返答は返って来ない。

もしかするとブウサギに押し潰されて大変な事になっているのではないかと危機感を抱き、ピオニーが慌てての上に圧し掛かるブウサギを抱き上げると、そこには先ほどと同じように膝を抱えて俯くの姿があった。

「・・・。何があったか知らねぇが、お前らしくないぞ。あのジェイドがわざわざ迎えに来たってのに・・・」

なのにどうして、そんな沈んだ表情をしているのか。

ブウサギ達の鼻を鳴らす音を耳にしながら、ピオニーはさてどうしたものかと髪を掻き毟る。

こんな事は初めてで、どうしたら良いのか解らない。

普段から良く言えばマイペース、悪く言えば物事に無頓着なは、このような心配を掛ける事は一度としてなかった。

どんなに落ち込む出来事があったとしてもすぐに浮上していたし、それでも駄目な時はジェイドが何かしら助言すれば吹っ切っていた。

だからピオニーには、こんな状態のに何という言葉を掛けて良いのかすら解らない。

そんな自分に苛立ったようにため息を零したその時、俯いたまま動かなかったがゆっくりと顔を上げた。

漸く見る事の出来たの顔には、今まで見た事のない感情が宿っていて。

そう、それはまるで絶望にも似た・・・。

「・・・ごめん、ピオニー」

あまりにも彼女らしくないを愕然とした思いで見詰めていたピオニーに、の小さな声が投げ掛けられた。

それに我に返ったその時には、ブウサギ達で埋め尽くされた狭い空間から立ち上がり、自分を見上げているがいる。

「ごめん、迷惑掛けて」

「・・・いや、別に迷惑じゃねぇけど」

「・・・私、帰る」

咄嗟に言葉を失ったピオニーは苦し紛れにそう答える。―――するとは微かに目を伏せて、力ない声でそう言った。

あのがこんな状態になるとは・・・どうやら余程の事があったらしい。

そうは思うが、ピオニーは心のどこかで思っていた。

が帰るというならば、その方が良いだろう。

ジェイドならばの心を浮上させる事が出来る。

言葉を変えれば、沈みきったを掬い出せるのは彼以外にはいないのだ。

「何があったか知らねぇが、文句があるならジェイドにドンと言っちまえ。気持ちは口に出さなきゃ伝わらねぇぞ」

漸く笑みを浮かべる事の出来たピオニーは、おどけたようにそう言って軽くの頭を撫でる。

けれど何の反応も示す事無く、は俯いたままベットを乗り越えて扉へと向かった。

「・・・ピオニー」

「ん?どうした?」

「・・・ありがとう、ピオニー」

部屋を出る寸前、控えめに礼の言葉を口にしたに微笑みかけ、ピオニーは気にするなとその小さな背中に声を掛ける。

「・・・さよなら」

そうしていつもの別れの言葉を口にして部屋を出て行ったを見送り、ピオニーは思いっきり息を吐いて。

「相変わらず世話の焼けるやつらだ」

そう1人ごちて、ピオニーは愛しいブウサギ達へ声を掛ける。

に群がっていたブウサギたちはそれぞれ部屋の中に散り・・・ピオニーの言葉に同意するように鼻を鳴らした。

 

 

ピオニーの私室を去り宮殿の外に出たは、そのまま止まる事無く歩みを進める。

陽もすっかりと落ち、街には静かな夜の空気が漂っていた。

所々に立つ外灯には灯りが灯っているが、宮殿前の広い広い広場の全てを照らしきれるほどの光ではない。―――薄っすらと浮かぶ花やベンチの姿を目に留めつつも、はそのまま広場の真ん中へと足を進めて。

そしてふと立ち止まると、感情の宿らない瞳でぼんやりと宙を見上げた。

「・・・私、帰る」

覇気のない声色で、先ほどピオニーに向けた言葉をポツリと呟く。

そうして訝しげに眉を寄せると、小さく首を傾げた。

「・・・帰る?」

問い掛ける響きのそれに、勿論答えなど返って来ない。

既に誰の姿もない広場に1人立つ少女を見咎めるものは、誰もいない。

水道橋から落ちる激しい水の音を耳に、まるでこの世界には自分しかいないような錯覚を覚えて、はゆっくりと目を伏せた。

そうして、自嘲気味に呟く。

「・・・帰るって、どこに?」

その問いにも、やはり答えは返って来ない。

とて、帰る場所はある筈だった。

例えば、がマルクト軍に入軍するのをきっかけに、自立の意味も込めて広いカーティス家を出、ジェイドと2人で暮らすようになったアパートだとか。

なんならカーティス本家でもいい。―――あそこは記憶を失ったが育った、彼女にとっては原点ともいえる場所なのだから。

けれどそのどちらにも帰れない事を、は知っていた。

ジェイドが必要とするまで、傍にいると誓った

それは言葉を返せば、ジェイドにとって必要のなくなった自分に価値はないという事。

ジェイドにとって必要なくなった今、そのどちらにも帰るわけにはいかない。―――誰が何と言おうと、にその気はなかった。

では、一体どこへ?

「・・・私は、どこへ帰る?」

それを見つけなければいけない。

が記憶を失ってから得た物は、全てジェイドの物。

の物ではない。―――この場所に、だけの物など何もないのだ。

けれど答えが全くないわけでもない、とは思う。

それは自分の意識の奥に・・・失ってしまった記憶の中にある筈だと。

この世に存在する以上、全ての者に始まりはある。

自分はどこから来て、そしてどこへ帰るべきなのか・・・―――それを自分は知っている筈だ。

「・・・・・・」

けれど考えても考えても、その答えは一向に出る事はなかった。

記憶はどこまでも無色で。

必死にそれを掴もうと手を伸ばすのに、自分が掴むのは実体のない空気のようなものばかり。―――ただその手に舞い込むのは、空虚さばかり。

どうしてなのだろう、とはぼんやりと宙を見上げる。

どうして自分には、何もないのか。

みんなが等しく持っている筈のそれを、どうして自分は持っていないのだろう。

どれほど脳裏を探っても、今ある記憶を辿っても、記憶はジェイドと初めて出逢ったあの時で途切れてしまっている。

はこの時漸く、自分に帰る場所などないのだと悟った。

ただ闇と静寂が支配する広場で1人、立ち尽くす。

身動きが取れないでいた。

どこへ行けば良いのか、解らない。

はゆっくりと視線を巡らし、白い灯りが漏れている大きな建物を見詰める。

あそこはきっと、温かなもので満ちているだろう。―――それでもは、ジェイドの元へは戻れなかった。

必要がなくなったのだ、自分の存在は。

だというのに自分が彼の元へ戻ったならば、きっとジェイドは困るだろう。

昼間会った貴族の娘が言うように、きっと迷惑に思うに違いない。

今まで育て、そして傍にいてくれた彼に、これ以上の負担は掛けたくない。

そう思った瞬間、の胸を鋭い痛みが襲う。―――反射的に顔を顰めて、そうしてきつく目を閉じるとユルユルと首を振り呟いた。

「・・・・・・違う」

小さく呟いた筈のその声は思った以上にその場に響き、それがまるで自分を責めているかのように思えて、は強く拳を握り締めた。

「違う」

今度ははっきりとそう呟き、地面を睨みつける。

違うのだ、本当は。

ジェイドに迷惑を掛けたくはないと思う。

彼がどれほどの激務に追われているかを知っているが、これ以上彼に負担を掛けたくないと思ったのも事実だ。

けれどそれが全てではない。―――がジェイドに自己主張をしないのは、それが理由ではなくて。

ただ、怖いだけなのだ。

貴族の少女が言うように、自分がジェイドの気紛れで拾われただけの存在だという事は解っている。

彼に面倒を見てもらえるようになったのも、まるで奇跡のようだった。

記憶を失った幼いにも、それは十分に理解できた。―――だからこそ彼に捨てられないように・・・見放されないように、必死で手の掛からない子供を演じた。

大人しくしていれば、ジェイドは自分を邪険に扱ったりはしない。

それはにとって、それほど難しい事ではなかった。

だからこそこのまま、穏やかな時間が過ぎて行くとは思っていた。―――突然屋敷に乗り込んできた男たちに、攫われるまでは。

あの時起こった出来事を、はよく覚えていない。

ただ漠然とした恐怖と不安。

それらが交じり合い、そして暴走した。―――その結果は、その場にいた人間の大半を消してしまうという恐ろしい事実で幕を下ろす。

それでもジェイドは、にその手を伸ばした。

1度は拒んだ自分を優しく包み込み、大丈夫だと言ってくれた。

譜術実験が問題になった時も。

人が持つには相応しくない強大な力を前に、化け物とさえ言われたを、それでもジェイドが拒絶する事はなかった。

どうしてなのかは、にも解らない。

ただ1つ言える事は、自分が持つもので彼の役に立つ事が出来るかもしれないという事だった。

だからは、ジェイドの為に在ると決めた。

迷惑を掛けなければ、手間を掛けさせなければ、ジェイドは拒否したりはしない。

「・・・だけど、本当は」

本当は、ずっと怖かった。

いつ見放されてしまうかと思うと・・・―――いつ傍からいなくなってしまうかと思うと。

彼女の根底に絶える事無く存在していたのは、漠然とした恐怖と不安。

にとって、ジェイドは世界のすべてだった。

ジェイド以上に大切なものはなく、ジェイドがいるだけでの世界は光に満ち溢れるようで。

あの冷たい眼差しも、必ず嫌味が含まれている言葉も。

けれど自分を見る時には少しだけ柔らかくなる瞳も、時折掛けられる優しい声も。

大好きだった・・・―――そのすべてが。

は力無くその場に座り込み、自分の膝に額を押し付ける。

それでももう、あの温かな時間は終わってしまったのだ。

最近よそよそしくなった、ジェイドの自分に対する態度。

そして告げられた移動の話。―――話の間、一度も向けられなかった視線。

何がジェイドの気に障ってしまったのか、には解らない。

それでもただ1つ言える事は、全ては終わってしまったのだという事。

繋がっていた筈の細い細い糸は、ジェイドの手によって断ち切られてしまった。

しばらく蹲っていたは、それでも1つ深呼吸をした後ゆっくりと立ち上がり、空に浮かぶ譜石を見上げる。―――月の光に照らされたそれは、鈍い光を放っていた。

「・・・行かなくちゃ」

いつまでもここに居るわけにはいかない。

たとえ帰る場所がないのだとしても、ここにいる事は出来ないのだ。

一度宮殿を振り返り、そうして橋の向こう側にある軍基地本部を見詰めて。

は静かに目を伏せると、踵を返し静かに歩き出す。

広場に響くのは、小さな靴音1つ。

それさえも流れる滝の水音に掻き消され、誰に耳に届く事はない。

9年前、ジェイドに拾われた記憶を持たない少女は。

現れた時と同じように、何の痕跡もなくその姿を消した。

 

 

◆どうでもいい戯言◆

微妙に前回と繋がりつつ、えらい展開に発展しておりますが。

今までは敢えて(敢えて?)語られなかった主人公の心といいますか・・・心境?

主人公とジェイドの初めての分岐点であり、この連載の根本とでも言うべき回。(おおげさ)

このエピソードを書く為に、今までの話を書いてきたと言っても過言ではありません。(前振り長すぎ)

というか、段々ピオニーが主人公の保護者化しているような・・・。

作成日 2006.3.14

更新日 2008.5.28

 

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