ふわり、ふわり、と。

まるで舞うように、風に流されるように。

静かに降り注ぐ白い欠片は、いつしか全てのものを覆い隠していく。

世界を塗り変えるように、浄化するように、真白へと還っていく大地に身を寄せ、は眠るようにただそこに在った。

冷たい氷の欠片は、微かな温かみを持つ少女の身体から熱を奪っていく。

ふわり、と氷の欠片が、閉じられたままの少女の睫に落ちた。

もう既に温かみの欠片さえないように思えたその身体に落ちた氷の欠片は、けれど微かな熱に解かされ、透明な一筋の雫へと姿を変える。

それは、泣かない少女の涙のようにも見えた。

 

そのと引き換えに

 

どこか遠くで、微かな音がした。

防寒もせずに数時間もの間雪の中に埋もれていたは、遠くの方にある意識の片隅でそう思った。

一体何の音だろう?と、寒さの為に既に働かない頭で考えるけれど、全く考えは纏まらない。

確認しようにも、生憎と凍えきってしまった身体は、彼女の意思とは無関係に動いてはくれなかった。

身体中が重く、瞼を開けることさえ出来ない。

再び遠のいていく意識の中で、その必要もないと結論を下したその時だった。

既に感覚さえも失われている筈だというのに、は確かにふわりと微かな風が頬を撫でたような気がした。

それと同時に、己の頬を包む温かいもの。

解けて流れた雫を拭うように目尻を伝った感触に、は今ある全ての力を振り絞り重い瞼を抉じ開けた。

ボンヤリとする視界の中、まず目に映ったのは茶色。

曲線を描く輪郭を縁取ったその茶は、擽るようにの頬へと流れ落ちる。

目の前で自分を見下ろすその人物を、は知っていた。

「・・・じぇいど」

凍えて呂律の回らない口調で、決してここにはいる筈のないその人物の名を呼ぶ。

「・・・まったく。貴女は一体、何をしているんですか」

幻なのではないかと思われたその人物から放たれた、呆れと・・・そして微かな怒りと安堵を滲ませた声に、の眉間に僅かに皺が寄る。

馴染みある、けれど決して再び向けられる事はないと思っていたジェイドの声。

夢なのではないかとふと思うが、けれど自分の頬にある温もりがそれを否定していた。

「・・・じぇいど。どうして、ここにいる?」

「それは私の台詞です」

たどたどしい話し方は、まるで出逢った頃に戻ったような錯覚を抱かせる。

けれど、出逢った頃とは明らかに違う所が幾つもあった。

それは例えば、彼女がしっかりと成長しているところだとか。

例えば、思いがけず生まれてしまった、この気持ち・・・だとか。

「ともかく街へ戻ります。―――歩けますか?」

の顔を覗き込む為折り曲げていた身体を元に戻し、地面に膝を付いたままそう問えば、は無言のまま再びゆっくりと瞳を閉じる。

それは街へ戻る事を拒否しているようにも見えた。

しかしジェイドとて、ここまで来てを置いて行く気など毛頭ない。

最初から歩ける筈がない事は解っていたのだ。―――再び静かに眠るように瞳を閉じたを無言で見下ろし、いささか乱暴に少女の身体を抱き上げた。

服を通しても伝わってくる冷たい感触と、いつもながら軽すぎる体に眉を顰めて。

突然の浮遊感に、再びの瞼が薄っすらと開く。

真っ直ぐに見上げるその瞳には、出逢った頃と同じく何の感情もない。

意思を感じさせる確かな光も、僅かに覗く感情も何もかもが。

「・・・じぇいど。どうしてわたしにかまう」

「話は街に戻ってからです」

「どうしてここにいる。どうしてわたしを・・・」

「黙りなさい」

平坦な口調で問い掛けるを、強い声と眼差しで制する。

しかし彼の言い付けに背いた事など一度もないが、それに従う事はなかった。

それはもしかすると、の最後の抵抗だったのかもしれない。―――自由にならない身体で、唯一抵抗出来る術はそれだけだった。

「・・・わたしには、もうかちなんてひとつもないのに」

抑揚のない声色でポツリと呟いたに、ジェイドもまた抑揚のない声で少女の名を呼ぶ。

それに漸く全ての抵抗を諦めたのか、はジェイドに抱き抱えられたまま、大人しく口を噤みゆっくりと目を閉じた。

ジェイドはを抱き抱えたまま、街へ戻るべく足を踏み出す。

降り積もった雪を一歩一歩踏みしめながら歩く音を耳に、はゆらりゆらりと己の身体が揺れるのを感じて。

ふわり、と粉のような雪が舞う。

頬に落ちたそれは、先ほどまでとは違い、とても冷たく感じられた。

 

 

軍服を着た少女を抱き抱え戻って来た兄の姿に、ネフリーは軽く目を見開き、驚きと困惑の入り混じった眼差しを2人へと向けた。

「ネフリー、彼女をお願いします。雪の中で数時間過ごしたらしく、身体が冷えきっています。暖めてあげてください」

滅多に見る事のない兄の真剣な表情に気圧されるように、ネフリーは反射的に頷いていた。

それでもジェイドに抱き抱えられた少女の顔色が酷く悪い事に気付き、すぐさま我に返るとメイドに風呂の準備をするよう申し付け、を別室へと移動させた。

「・・・お兄さん。あの子は」

「以前話した、私が拾った娘です。今はマルクト軍で私の補佐をしていますよ」

ネフリーの疑問を先読みし、サラリとそう説明する。―――その声にはそれ以上の追及は許さない強い響きが込められており、それを察したネフリーは大人しく口を噤む。

彼女が本当に聞きたかったのは、彼女の素性ではないのだけれど。

の事ならば、勿論ネフリーも知っている。

グランコクマにいる友人たちからもに関する話は聞き及んでいるし、わざわざ説明されずともジェイドの抱えていた少女がである事はすぐに察せられた。

彼女が本当に聞きたかったのは、何故がこんな状態になっているのか、だ。

実際、それはジェイドにとっても知りたい事だった。

何故突然、退軍届けを出し姿を消したのか。

そして何故、この地へ来たのか。

あんな服装で雪の中で長時間寝ていればどうなるか、それが解らない筈はないというのに。

そして、先ほど彼女が言った言葉。

『・・・わたしには、もうかちなんてひとつもないのに』

何がそこまでを追い詰めたのか・・・―――思い当たる節が全くないとは言わないが、それでもジェイドには彼女の考えが理解できなかった。

すっかり考え込んでしまったジェイドを見詰めて、ネフリーは気付かれないよう小さくため息を吐き出す。

いつもならばそれさえも聞き咎めるだろうジェイドも、今はそれに気付く余裕すらないように見えた。

まるで目の前にいるネフリーの存在さえも忘れてしまったかのように考え込むジェイドを見やり、こんなにも余裕を無くした兄を見るのは初めてだとネフリーは思う。

常ならば全て見透かしたかのような言動と素振りで・・・実際には本当に粗方の事は見透かしていて、人を馬鹿にしたような笑みを浮かべ、飄々とした態度で人をからかう人が。

今はネフリーの訝しげな視線にさえも気付かず、1人考え込んでいる。

『お前も一度、グランコクマに来いよ。面白いもんが見れるぞ』

今は遠い、かつての友人からの手紙に書かれてあった言葉を思い出す。

話半分に聞いていたのだけれど・・・―――実際にこうして常にない兄の姿を見れば、素直に納得出来る部分も多々あった。

あの少女の何が、この冷酷とも言える兄を変えたのか。

興味がないといえば嘘になるけれど、今それを探ったとてろくな返事が返って来るとも思えない。

ネフリーはジェイドとの会話を早々に諦めて、連れて来られた少女が運び込まれた部屋へと足を向けた。

話をするとかなど以前に、素直に少女の安否が気になった。

軽く二度ノックをし、室内に足を踏み入れると、バタバタと動き回るメイドたちの姿が目に映る。

とりあえず風呂で身体を温めていると聞いたネフリーは、その足で浴室へと向かうと、湯気の立ち込める浴室に顔を出した。

浴槽の中にはアンダーだけを身に付けたが、寝かされるように浸けられている。

「少しは身体が暖まったかしら?」

の目が開いている事を確認して声を掛ければ、少女は気だるげな様子で視線だけでネフリーを見やった。

「・・・あなた、だれ?」

急激に暖められた身体は、微かな痺れのような感覚に支配されている。

やはりまだはっきりとしない口調で問い掛けたに、ネフリーはにっこりと優しげに微笑んだ。

「私はネフリーよ。ジェイドの妹の・・・」

「・・・ねふりー。じぇいどの、いもうと。わたし、しってる。じぇいどとぴおにーがわたしにおしえてくれた」

「そう」

少しだけ生気を取り戻したの表情に安堵して、ネフリーは浴槽の縁に腰掛けると優しい眼差しで湯に浸るを見下ろした。

「よろしくね、。貴女に会えて嬉しいわ」

「・・・うれしい?」

「ええ、嬉しいわ。ずっと会ってみたいと思っていたの」

「・・・・・・」

訝しげな表情を浮かべたは、向けられる視線から逃れるように俯く。

髪の毛のカーテンでの表情は窺えないけれど、空気から戸惑っている様子が窺えた。

自分は何か可笑しな事を言っただろうかと首を傾げるけれど、生憎と思い当たる節はない。

「・・・?」

「・・・・・・」

どうしたのかと声を掛けるけれど、それきりは顔を上げることも口を開く事もなかった。

手紙に書かれてあったの姿とは異なる現状と、そして普段とは違う兄の様子に、間違いなく何かがあったのだとネフリーは思う。

残念ながら、その『何か』までは知る術はないのだけれど。

「とりあえず、ゆっくりと暖まって身体を休めて。私は部屋の外にいるから、支度が済んだら声を掛けてちょうだい」

自分がここにいてはの気は休まらないだろうと踏んで、ネフリーは宥めるようにそう言うと立ち上がった。

後ろ髪が引かれる思いで浴室を後にするその間際、すっかり黙り込んでしまったが小さな声で言葉を紡ぐ。―――それは聞こえるか聞こえないかの僅かな声だったが、幸いな事に浴室内で反響したそれはしっかりとネフリーの耳へと届く。

「・・・ごめんなさい」

掻き消えてしまいそうな小さな声に首だけで振り返るが、しかしは俯いたまま。

一体何に対しての謝罪なのかは解らなかったけれど。

「・・・後で一緒に食事をしましょう。楽しみにしているわ」

穏やかな笑顔を浮かべてそう言うと、ネフリーはそのまま浴室を後にした。

 

 

が全ての支度を整え姿を現したのは、それから1時間後の事だった。

雪で濡れてしまった軍服の代わりにとネフリーが用意した服を着て現れたに、ジェイドは意外そうに眉を上げる。―――彼女がマルクト軍に入って以来、軍服以外の服装をしている彼女を見たのは久しぶりのような気がした。

出会った頃のような真白のワンピースを着たに、まるで過去に戻ってしまったかのような錯覚をジェイドは覚える。

勿論初めて会った時にが着ていたものとは、服の雰囲気も仕立てもずいぶんと違うのだけれど・・・―――決してジェイドを見ようとはせず、辛そうな表情で床を睨みつけているを眺め、ジェイドはため息を吐いた。

「そんな所に立っていないで、こちらに来て座りなさい」

そうして戸口で立ち尽くすに、自分と向かい合うソファーへの着席を促す。

聞き流されるかと思いきや、は素直にジェイドの言葉に従った。

やはり顔を上げようとはしないが、言われるままにソファーに腰を下ろし、両手を膝の上に置いて服をぎゅっと強く握り締める。

「では、説明していただきましょうか。あなたは一体、何をしているんです?」

悠然と足を組み冷たい声色で問い掛けるジェイドを、2人から少し離れたところで様子を窺っていたネフリーは、咎めるように視線を投げる。

勿論それにジェイドが気付いていない筈もないのだが、取り合うつもりは微塵もないのか、態度を改めるでもネフリーへ退出を促すでもなく、ジッとを見据えていた。

「・・・何、を?」

ゆっくりと暖まったお陰か、口調は既に覚束無いものから常のものへと戻っている。

はっきりと聞き取れるその疑問を含む問いに、ジェイドは薄く目を細めた。

「誰に何を言うでもなく姿を消し、挙句の果てには退軍届けを一般人に届けさせる始末。見つけたかと思えば、貴女は雪の中で眠っている。―――貴女は一体、何がしたいのですか。貴女は、誰に、何を伝えたいのか」

「お兄さん!そんな矢継ぎ早に聞いても、彼女が戸惑うだけだわ」

「貴女は黙っていなさい。口を出すつもりなら、どうぞお引取りを」

冷たい声色で淡々と言葉を投げかけるジェイドに、堪りかねたようにネフリーが口を挟む。

けれどそんな彼女の仲裁も、ジェイドの有無を言わさぬ言葉と視線により掻き消された。

ゾクリ、とネフリーの背筋に悪寒が走る。

ここに来るまでに全く気付けなかった。―――どうやらジェイドは、かつてないほどの怒りを抱いているらしい。

今まで、どんな事があっても。

たとえどれほど不機嫌であろうとも、彼が自分に対してあれほど冷たい眼差しを向けたことなど一度もなかったというのに。

己の意図通り口を噤んだネフリーを満足げに眺めて、ジェイドは再び視線をへと戻した。

この場に現れた時と変わる事無く硬い表情を浮かべるを見詰め、ジェイドは小さくため息を吐く。

言われずとも、こんな尋ね方をしてがすらすらと答えられるとは思っていない。

普段の・・・いつも通りのならば、それでも簡潔に答えて見せるだろう。―――けれど事これに関しては、とてもそうは思えなかった。

簡単に答えられるのならば、何も言わずに姿を消したりはしないだろうから。

「では、仕方ありません。1つずつ、答えてもらいましょう」

ため息混じりにそう呟き、視界の端のネフリーがあからさまにホッと安堵した様子を目に映しながら、ジェイドは静かに口を開いた。

「まず。貴女はどうして、ここ・・・―――ケテルブルクへ来たのですか?」

初めは答えやすいところから・・・と考えそう問うと、しばらくの沈黙の後、は微動だにしないその体勢のままゆっくりと口を開く。

「・・・船が、あったから」

「ケテルブルク行きの船があったから、貴女はここに来たと?」

言葉少ない答えに言葉を付け足すと、は無言のままコクリと頷く。

「では、何故船に乗ろうと?」

「・・・行かなきゃいけなかったから」

「どこへ?」

「・・・・・・」

「どこへ行かなければならなかったのですか?」

黙り込んでしまったに、ジェイドは変わらぬ声色で問い掛ける。

己の感情を押さえ込むなど、ジェイドには簡単な事だった。―――たとえその答えを早急に知りたいと思っていても、身の内にある怒りを持て余していても。

まるで世間話をするかのように平然と、ジェイドはを見据えた。

「・・・解らない」

鼓膜を突くような静寂の中、の小さな呟きが落ちる。

「解らない?どこへ行かなければならないか・・・それが解らないのに、貴女はそのどこかへと行く為に船に乗ったのですか?・・・それは何故?」

「・・・グランコクマは、駄目だから」

考えながら答えを出しているのだろう。―――の口から零れる言葉はどれも頼りないものばかりだったが、そこに含まれる不安はネフリーにも十分に伝わってくる。

彼女が何に不安を抱いているのか。

勿論それをネフリーが知る術はない。

しかしおそらく、その鍵を握っているのはジェイドなのだろうという事は解る。

ジェイド自身がそれを把握しているのかもまた、ネフリーには解らなかったけれど。

もまた、ジェイドから次々に投げかけられる問いに戸惑っていた。

一番初めの時のように、問いただされるよりは考える時間があるだけ余程マシだが、自分が抱く思いを相手にどう伝えて良いのかがには解らない。

今までが自分の感情や思いを伝えたいと思った相手はジェイドやピオニーらだけだったし、彼らはいつも言葉少ないのそんな気持ちを実に上手く悟ってくれていた。

けれど今は、それも叶わない。

思いを伝えなければならない相手がいて、そうして相手がそれを望んでいるのならば、は自分の言葉でそれを伝えなければならないのだ。

今までどれだけ助けられ、甘えてきたのかがこの時になって漸く解る。

ジェイドが、どれほど自分を理解してくれていたのかが。

「解りませんねぇ・・・。何故、グランコクマは駄目なのですか?どこへ行くのかも解らないのに、何故グランコクマは駄目だと貴女は思ったのですか?」

足を組みなおし、ゆっくりと眼鏡を押し上げながら、ジェイドはため息混じりに呟く。

その口調はとても気楽なものだったけれど、瞳に浮かぶ光は鋭さを失ってはいない。

ゆっくりと俯いていた顔を上げたは、その射るような鋭い眼差しに魅入られたように真っ直ぐジェイドを見詰め返した。

「グランコクマには、みんながいるから。だから、グランコクマは駄目」

脳裏に甦る優しい人たちの姿に、は微かに眉間に皺を寄せて。

「グランコクマにいると、私は頼ってしまうから。・・・甘えてしまうから」

「それはいけない事ですか?」

即座に答えられ、の瞳が微かに揺れた。

まさかジェイドの口から、そんな言葉が出るとは思ってもいなかったのだ。

甘えるのが良い事なのか悪い事なのか・・・―――本当のところ、それはには解らない。

ただ1つ、言える事は。

「すべてはもう、終わってしまったから」

自分を見詰める真紅の瞳から瞳を逸らし、は真っ白のスカートへ視線を落とす。

そう、すべてはもう終わってしまったのだ。

甘える事も、頼る事も・・・もう自分にはその資格すら在りはしない。

静かな声でそう漏らし俯いたを見詰め、ジェイドの眉間にも僅かに皺が寄る。

甘えてしまうからと、そう言った

しかしジェイドにしてみれば、に甘えられた覚えなど一度もなかった。

確かに甘え、依存して生きていく事は、普通の暮らしならまだしも軍に身を置く者としてはあまり歓迎できない。

それが己の副官であるならば、尚更。

けれどと過ごすあの生活の中で、それでもが甘えていたというならば、それはそれで良い気がした。

自分にとって解らないほどの、ほんの僅かな甘えなのだとしても・・・―――それでの心が穏やかになるのならば、それを拒否するつもりなどジェイドにはない。

しかしは、それをしてはいけないと言う。

そんな資格は、自分にはないと・・・―――何故ならば、全ては終わってしまったから。

一体何が終わってしまったのか、それはジェイドにも解らなかったけれど。

「私には、もう1つも価値なんてないから」

静まり返った室内に、の感情の篭らない声が響く。

あの雪の中、ジェイドがを見つけたその時にも言っていた言葉。

「私の居場所は、私の価値と一緒に消えてしまったから」

「貴女の価値?居場所?」

淡々とした口調で話し続けるにそう問い掛けるも、はその問いに答えは返さなかった。

ただ口を噤み、じっと膝の上に揃えられた己の手を見詰めている。

の口から紡がれる言葉を、ジェイドは理解出来なかった。

今までがそんな言葉を口にした事など、一度もない。―――きっとそう考えるきっかけが、彼女にはあったのだろう。

自分の価値について。

自分の居場所について。

そしてそれらを失ってしまったと彼女が感じたからこそ、は出て行ったのだ。

何故そう思ったのか・・・―――それが解らない以上、本人に聞く以外に理解する術はない。

「では、質問を変えます。貴女はどうしてそれらを失ってしまったのですか?」

俯いたままの・・・表情の窺えないの頭へとそう問い掛ける。

彼女の考えを理解し、そして解消してやらなければならない。

そうしなければ、は帰っては来ないだろう。―――たとえ無理矢理連れて帰ったとしても、同じ事を繰り返すに違いない。

そうして今度こそ、今回の事を踏まえ、1つの痕跡すら残さないに違いない。

そうすれば、この広い世界で、たった1人を見つける事など不可能に近い。

「何故ですか、。どうして貴女は、それらを失ってしまったのですか?」

口を噤んだまま答えないに、もう一度そう問い掛ける。

するとは握り締めた拳に更に力を込めて、掠れるような声で言った。

「・・必要と、されなくなったから」

その声色に、切ないまでの悲しみを感じ、無言で場を見守っていたネフリーも同じように拳を握り締める。

まだこんなにも小さな身体の少女が口にするには、あまりにも残酷な言葉。

己の手を穴が開きそうなほど見詰めていたの顔が、微かに歪む。

必要とされなくなったから。

だから自分は、価値も、居場所も失ってしまった。

けれど本当にそうなのだろうかと、は今更ながらに思う。

ジェイドがどんな人間か、傍にいたはよく知っている。

どれほど仕事を山積みにされても、どれほど厄介な任務を受けても、飄々と涼しげな面持ちで簡単にこなしてしまうジェイド。

彼に出来ない事はないのではないかとは思ったし、また今まで彼に成しえなかった事など見た事がない。

ジェイドにとっては、誰の手も必要ではなかったのだ。

人の手を借りずとも、ジェイドは1人で全てをこなしてしまえる。

最初から、自分が必要とされる事などなかったのだとは思った。

私は、私がそこにいる為の言い訳が、欲しかっただけなのだと。

ジェイドの為に出来る事があるとそう思い込み、そこに自分の存在価値を・・・そして居場所を見出していた。

なんて傲慢な・・・自分勝手な考えなのか。

そうして思い出す。―――は今まで一度も、ジェイドに必要だと言われた事などなかったという事を。

「これ以上、迷惑は掛けたくないから」

ポツリ、との口から言葉が零れる。

「・・・迷惑?」

訝しげなジェイドの声に顔を上げることもなく、はまるで固まってしまったかのように、その体勢のまま視界を支配する白の眩しさに目を細めた。

それはまるで、あの一面に広がる雪のような。

これ以上、自分の思い込みでジェイドに負担を掛けさせるわけにはいかない。

自分がいなくなる事で、ジェイドの負担は消えるに違いない。

そう思った。―――だから、はグランコクマを出た。

けれど。

「でも、本当は」

己の思考を支配する、暗い・・・醜い感情に、は強く目を閉じる。

「本当は、違う。迷惑を掛けたくないから、じゃなくて」

それは、自分を誤魔化す綺麗な言い訳にしか過ぎなくて。

本当の・・・本当の、彼女の気持ちは。

「私は嫌われたくなかった。疎ましく思われたくなかった。拒否、されたくなかった」

それが、の想いのすべて。

何時からか、さり気なく自分を避けるようになったジェイド。

目を合わせてもらえなくなったのは、一体いつからだろう。

は怖かった。

ジェイドの口から、要らないと言われる事が。

貴族の娘たちの言葉を聞く度に、まるでジェイドから言われているような気分になった。

傷付いていないふりをしていても、確実にの心は傷付いていた。

だから逃げたのだ。

最後通告を突きつけられる前に。

それは、にとっては何よりも・・・どんな事よりも耐えがたい事だったから。

それでも。

「でも私は、本当はずっと一緒にいたかった。それは、私のすべてだったから。それ以外、私は他に何もいらなかった」

搾り出すように言葉を零すを目の前に、ジェイドはゆっくりとした動作で眼鏡を押し上げた。

初めて聞く、の本音。

いつも無表情で。

まるで自分を取り巻く全てに感心がないと言わんばかりの態度で、飄々と、淡々と毎日を過ごしていた

そんな彼女が心の奥底でこんな事を考えていたなど、誰に想像できよう。

ジェイドがまだと出会って間もない頃、彼は言った。―――言葉にしなければ、想いは相手には伝わらない、と。

それでも口にしなかった言葉、想い。

の隠し続けて来た、彼女にとってはあまりにも大きすぎる不安。

「・・・そうですか」

再び黙り込んでしまったに向かい、ジェイドは小さな声でそう相槌を打つ。

慰めるべき言葉も、宥める言葉も、ジェイドは持っているはずだった。―――それが彼にとって本意であるか不本意であるかは別として、軍人として世を生きてきたジェイドには既に身についてしまったものでもある。

けれどジェイドはそのどれも、口にする事はなかった。

口にするべきではないと、そう思ったのだ。―――自分の全てを己の前へと差し出した、に対しては。

そしてそれらを、もまた望んでいない事を知っていたから。

静まり返った室内。

窓の外からは、寒い中はしゃぎまわる子供の歓声が聞こえた気がした。

そんな時が止まったかのような空間を割るように、再びが口を開く。

それはどこか、諦めの色が滲んでいるようにも聞こえた。

「でもそれは、私の我が侭だから。そんな自分が、私はとても嫌だったから」

きつく閉じていた目をゆっくりと開いて、力を入れすぎたからか・・・既に血の気を失った自分の手を見下ろして。

「だから、雪と一緒に埋もれてしまえば良いと思った」

つい数時間前まで己の傍に在った、冷たくも柔らかい感触を思い出す。

昔、まだが軍に入る前、ジェイドとピオニーが子供の頃を過ごした街について聞いた事があった。

そこは一年のほとんどが白い雪に囲まれた、真白の世界だったと。

雪・・・というものを、は知らない。―――だから常と同じように様々な本を読み漁り、2人の言っていた『雪』というものが何かを調べた。

雪が一体なんなのか、どうして降るのか・・・それは大しての感心を引く事はなかったけれど。

それでも、その本に書かれてあった『雪景色』というものを、は見てみたいとそう思っていた。

「本で見た通り、雪はとても綺麗で清浄だったから。雪に埋もれてしまえば、嫌な私も一緒に消えてしまえると思った」

浅ましい考えを持つ自分も、自分勝手な自分も・・・―――そんな綺麗な存在に包み込まれれば、綺麗になれるかもしれないとそう思った。

実際にはただ身体が冷えていくばかりで、苦しみも悲しみも雪は消してくれなかったけれど。

一番最初に問われたジェイドの問いに、拙いながらも全て答えたは、今度こそ口を噤んだ。

これで全てが明らかになったのだ。

何故、突然姿を消したのか。

何故、ケテルブルクに来たのか。

そして、どうして雪の中で埋もれていたのか。

ジェイドの知りたかった事全てが、今明らかになった。

そうして目の前に並べられた真実という名のカードを前に、ジェイドは重いため息を吐き出す。

馬鹿馬鹿しい・・・と、ケテルブルク行きの船の上で思った事をもう一度。

これほど馬鹿馬鹿しい事が、他にあるだろうか?

自分たちはただ、噛み合っていなかったに過ぎないのだ。―――お互いが自分の思考に意識を奪われ、相手を見る余裕など無くしていただけ。

そうしてジェイドは答えを出す事を避けを遠ざけて、は溜め込んでいた不安を爆発させて暴走した。

まったく・・・、私たちは何をやっているんだか。

心の中でそう1人ごちて、未だ俯いたままのを見やり、ゆっくりと口を開いた。

「私は以前、貴女に言いましたね」

ジェイドが言葉を発すると同時に、室内に張り詰めた空気が走る。

最後通告を突きつけられるだろうその時を前に、は身体を強張らせたまま、目を閉じる事も出来ずにただ己の血の気を失った拳を見詰めていた。

「貴女は黙って、私の傍にいればいいんですよ」

けれど耳に響いた予想外の言葉に、は弾かれたように顔を上げる。

聞き覚えのある言葉。

忘れる筈もない。―――かつてジェイドの口から聞いた、不安の泥の中を漂っていたが聞いた、光に溢れた言葉を。

「・・・ジェイド?」

大きく見開かれたの瞳が大きく揺れる。

それを真っ直ぐに見詰め返しながら、ジェイドはやれやれと言わんばかりに肩を竦め、そうして苦笑いを零した。

もう、認めないわけにはいかなかった。

もうしっかりと自覚し、自分の中に確かに在るのだ。―――認めないわけにはいかない。

こんな厄介な感情など、自分には一生必要のないものだと思っていたのだけれど。

こんなにも誰かを・・・たった1人を、愛しく・・・大切に思う気持ちなど。

それがほんの気紛れで拾い育てた、12歳も年下の少女であるだなんて。

9年前のあの時には、想像もしなかった。

「非常に残念で不可解ですがね。貴女が貴女である限り、私が貴女を厭う事も見放す事も在り得そうにないんですよ」

「・・・私が、私である限り」

「まったく、私にとっては誤算も良いところですよ。まさかこんな事態に・・・」

わざとらしくため息を零しつつ立ち上がると、正面に座るの隣へと移動し、少しだけ間を空けてそこに腰を下ろす。

「・・・陥るとは、思ってもいなかったのですけどね」

そう言って意地悪げに微笑むと、納まったままだった自分の手をポケットから出して。

「これが最後です」

先ほどとは違う真剣味の帯びた声色でそう告げ、ゆっくりとへと手を差し出した。

「私が貴女に手を差し伸べるのは、これが最後です」

「・・・・・・」

「貴女はこの手を取りますか?この手を取るならば・・・」

もう逃げられませんがね、という言葉は決して口には出さずに。

大きく目を見開いたまま、差し出されたジェイドの手を見詰めていたの瞳から、ぽつりと大粒の雫が零れ落ちる。

それはジェイドが初めて見るもの。

感情の起伏の少ないが見せる、初めての大きな感情の揺らぎ。

歪む視界の中、は呆然と・・・まるで操られているかのように、ゆっくりと己の手を持ち上げて。

確かめるように・・・震える手で、しっかりとジェイドの手を握り締める。

彼女が焦がれ、望んだものは今、彼女の手の中にあった。

途端に関を切ったように溢れ出て来る雫をそのままに、はジェイドへと抱きつく。

まるで子供のようにジェイドにしがみつき、決して声は出す事無く・・・ただ身体を震わせて初めて泣くをその両手でやんわりと包み込み、ジェイドは人知れず満足げに微笑んだ。

生まれて初めて浮かべるような、ジェイドの何の含みもないその微笑みを、幸運にもこの世で一番最初に見たのは、彼の妹だけだった。

 

 

◆どうでもいい戯言◆

ネフリーは一体いつ頃、知事に・・・。(以下略)。

何となくコメントを避けたい気分ではありつつも、いつもここにそれほどコメントらしいコメントなど書いた覚えがないなと、今更ながらに思ったり。

自分で書きつつも、素で恥ずかしいです。(色んな意味で)

ともかくも、何とか騙し騙しで続いてきたこの連載も、残すところあと1話で完結。

とは言いつつも、この2人でラブラブはちょっと書き辛いかと・・・。(とか言いつつ、この2人に限った事ではないのですが/苦笑)

作成日 2006.4.4

更新日 2007.7.30

 

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