欲しかったものがある。

 

受け入れてくれる場所。

傍にいてくれる人。

存在する理由。

目には、見えないモノ。

 

そのどれもが、私にはないものばかりだったけれど。

 

その両手にむもの

 

柔らかな、風にサラサラと揺れる栗色と。

注がれる、鮮やかな・・・透き通るような紅。

それはとてもボンヤリとしたもので、はっきりとした記憶が残っているわけではなかったけれど。

それが、私の一番最初にある、一番古い、鮮やか過ぎる記憶。

「自己紹介がまだでしたね。―――私はジェイド=カーティスと言います」

そう言ってにっこりと笑った人は、それが自然だとでも言うように、私に手を差し出した。

笑っているのに、笑っていない顔。

長い栗色の髪の毛と、赤い赤い綺麗な瞳。

真白の記憶の中にある、ただ1つの記憶。

訳も解らずに取ったジェイドの手は、思っていたよりも温かかった。

 

 

ふわり・・・と舞うように落ちて来たそれに気付いて、私はゆっくりと顔を上げた。

逃げるようにして飛び乗った定期船。

どこに行くのかも解らなかったけれど、着いたそこは真白で埋め尽くされていた。

たくさんの人たちが船から降りて、白い何かに足を取られながらも楽しそうに笑い合いながら街の中へと消えて行く。

「・・・ゆき」

灰色の空を見上げて、そこから落ちてくる白い欠片に手を伸ばす。―――指先に触れたそれは、瞬く間に透明な水へと姿を変えた。

「これが、雪」

誰に問い掛けるでもなくそう呟く。

昔、あまり言葉を知らなかった私。

言葉を教えてくれたジェイドに早く成果を見せたくて、何度も何度も繰り返し同じ言葉を口にした。―――きっと、その時の名残だと思う。

ゆっくりとしゃがんで、地面を覆い隠す雪へと手を伸ばす。

「・・・冷たい」

触れたそれは、とても冷たかった。

雪は冷たいもの。

本を読んで雪がどんなものなのかくらいは知っていたけれど、まさか本当にこれほど冷たいとは思わなかった。―――氷と同じものなのだから当然といえば当然なのだけれど、知っているつもりでも知らない事はまだまだあるのだとそう思う。

「・・・あの〜」

ひんやりと冷たいそれをぼんやりとしながら触っていると、港に駐留していたマルクト軍人に声を掛けられた。

もしかしたら不審人物と間違われたのかもしれない。

だとしたら、きっと捕まって牢屋に入れられてしまうのだろう。―――それも良いかもしれないとそう思っていたのに、そのマルクト軍人は私を捕まえようとはしなかった。

「こんな所で何をしていらっしゃるんですか?」

丁寧な言葉で話し掛けられて、私はボンヤリとその人を見上げる。

どうしてなのかと考えて、ふと私が軍服を着ているからだろうと判断した。―――私の軍服は一般の兵士が着ているものとは違うものだから、きっと丁寧に話し掛けてくれるんだろう。

こんな所で何をしているのか、という軍人の言葉が頭の中に響く。

そんな事は私が聞きたかった。―――ついでに、これからどうすれば良いのかも。

何も持たない私が、これからどこへ行き、何をすれば良いのかを。

「・・・ここはどこ?」

「え・・・と、ここはケテルブルク港ですが?」

とりあえず今自分がどこにいるのかを確認しようとそう問い掛ければ、何を言っているんだろうという訝しげな視線を向けられ、私はその視線が何故だかとても居心地が悪くてもう一度雪へと視線を落とした。

ケテルブルク・・・聞いた事がある。

ジェイドとサフィールが生まれ育った街。

そしてピオニーが育った街。

帰る場所。

故郷。

「・・・ケテルブルク」

「はい、そうです。港を出て北に進むと、ケテルブルクの街があります。―――あの、もしかして・・・何かお仕事で?」

上手く働かない思考で取りとめもない事を考えていた私の顔を覗き込んで、駐留の軍人は戸惑いを浮かべてそう問い掛けた。

それに小さく首を横に振る。

お仕事ではない。―――私はもう、マルクト軍の軍人ではないから。

本当はこの軍服も着替えた方が良いのだろうとは思うけれど、でも私は着替えを持っていないから、これを脱ぐわけにはいかない。

ポケットを探っても、着替えを買うほどのお金は出て来なかった。

こんな事になるなら、ジェイドやピオニーの言う通り、ちゃんと普段からお財布を持ち歩いてればよかったと今更そんな事を思う。

「ああ、なるほど。休暇でケテルブルクにいらしたんですね。あそこは有名な観光地ですから」

得心したとばかりに頷くその人を、ボンヤリと見詰める。

この人が何を納得したのかは解らないけれど、詳しい説明を求められるのは私も困ってしまうので、ちょうどいいと思ってそのままにしておいた。

「ケテルブルクに行くのなら、辻馬車の定期便が出ていますよ。あそこは観光地ですから」

なんならこちらで用意しましょうか?というその人の申し出を断って、私は辻馬車が出ているという場所を教えてもらいそこへ向かう。―――これ以上マルクト軍にお世話になるわけにはいかない。

幸いな事に、何とか手持ちのお金で辻馬車には乗る事が出来た。

すっかりお金はなくなってしまったけれど、自分で歩いていくよりは確実に街に着く事が出来るのならその方が良い。―――自分の方向音痴を、私はちゃんと知ってるから。

行く場所なんて私にはなかったけれど、偶然にもこの街に来たのだから、私はケテルブルクがどんなところなのか見てみたいとそう思った。

ジェイドがいた場所。

ジェイドの子供の頃なんて想像がつかないけど、ちょっとでもジェイドの気配が残ってる場所なら、きっと温かい場所の筈だから。

 

 

辻馬車に揺られて漸く辿り着いたケテルブルクは、私が想像していた場所とは全然違うところだった。

ぴかぴかの建物がいっぱいあって、人もいっぱいいて、なんだかすごく騒がしい。

どちらかというと、ジェイドが好きそうな場所じゃない気がした。―――でも、ピオニーにはすごく似合う気もした。

街の中は明るくて、とても寒いところだったけれど、みんなはとても楽しそうに笑ってた。

大人も、子供も、お年寄りも、男の人も、女の人も。

みんな笑顔だった。―――とても幸せそうだった。

瞬間、なんだか急に気持ち悪くなって、私は手で口元を押さえる。

目の前が白く染まっていく。

雪ではない白に、思考が染められる。

みんな楽しそうなのに。

どうして・・・どうして、私は。

「・・・・・・」

人の笑い声が耳鳴りのように頭の中に響く。

人はたくさんいるのに、こんなに騒がしいのに・・・―――それなのに何故だかすごく寂しくて、居心地が悪くて、私は折角来た街の中を見る事もしないでただひたすら階段を上る。

だれか、人のいないところへ。

音のしないところへ、何も無いところへ行きたかった。

階段を上ると広場があって、その向こうに街の外に出る事の出来る道があったから、私は真っ直ぐその道を選んだ。

途中でマルクトの軍服を着た人に声を掛けられたような気がしたけれど、返事を返す事も出来なかった。―――ただ一刻も早く、静かな場所へ行きたかった。

まるで逃げるように街を出て、どこに向かうわけでもなくひたすら歩き続けて。

漸く人の声も何も聞こえなくなったところで、私は足を止めた。

荒くなった息を整えながら辺りを見回すと、そこには雪と雪に埋もれた木や山しかない。

人の姿も、動物の姿も、モンスターの姿も無い。

信じられないほど静かで、ここがあの街の中と同じ世界だとは思えないほど。

それにどうしてだか安心して、大きく息をついた途端、私はその場に座り込んだ。

身体がとても重い。

頭がボンヤリとする。―――何もする気になれなくて、私はその場に寝転がった。

手足を投げ出すように仰向けに寝転がれば、迫ってくるような灰色の空が視界を埋める。

刺すような冷たさが背中からじんわりと伝わってくるけれど、起き上がる気にはなれなかった。

ふわり、と空から白い欠片が舞い落ちる。

それは少しづつ数を増して、しばらく経つと空からたくさん降って来た。

ひらりひらりと舞い、私の頬に身体に降り注ぐ。

このままここにいれば、いつか私は埋もれてしまうかもしれない。―――そうなれば、いつかは雪と一体になる事が出来るだろうか。

「・・・・・・じぇいど」

少しだけ開いた口から、掠れた声が漏れる。

この後に及んで、どうして私はジェイドを呼ぶのだろう。

どうして・・・。

今まで考えた事も無かったのに・・・今になって疑問は次々と私の胸の中に溢れてくる。

どうして私は、何も覚えていないのだろう。

どうして私には、帰る場所がないのか。

みんな持っているのに、どうして私はそれを持っていないのだろう。

私は一体、どこから来たのか。

そして私は、一体どこへ行けば良いのだろうか。

一生懸命私なりに頑張って手に入れた全てのものは、結局私の元には残らなかった。

全ては、幻のように消えてしまった。

それはきっと、私が愚かだったからなのだろう。―――文句を言いつつも優しかったジェイドに甘えて、私はジェイドが何を思っているのかすら気付けなかった。

あんな風に避けられるまで、私がジェイドの邪魔になっている事に気付けなかった。

他師団への移動を仄めかされるまで、察する事すら出来なかった。

その挙句に、私は逃げてしまったのだ。―――ジェイドに直接拒否されるのが怖くて。

言いたい事がある時は、ちゃんと相手にそれを伝えなきゃ駄目だって、ジェイドは言ってたのに。

もう何も見たくなくて、聞きたくなくて、私は自然に任せるがまま瞳を閉じた。

声にならない声が、言葉が、淀んで頭の中に反響する。

私が、この世に、存在する、意味は?

いつの間にか、雪の冷たさも感じない。

舞い降りる雪が、私の思考をも埋めていく気がした。

 

 

「これが最後です」

そう言って差し出された手を、私は信じられない思いで見詰める。

真白な手袋に覆われた手。

顔を上げれば、そこには綺麗な微笑みを浮かべるジェイド。

最後だと言って伸べられた手は、私の方へと向いている。

どうしてなのだろう。

どうしてジェイドは、何度も何度も私に手を差し伸べてくれるんだろう。

初めて出逢った時も。

初めて街に出て迷子になった私を見つけてくれた時も。

誘拐犯に攫われて、たくさんの命を奪ってしまった時も。

譜術実験で平原を吹き飛ばし、同行していた兵士に化け物だと言われた私を。

いつもいつも、私が怖い時、悲しい時、不安な時に、ジェイドは私に手を伸べてくれる。

そうして、私がその手を取るのを待っていてくれる。

本当に、どうしてなんだろう。

こんなにも弱虫で、浅ましくて、汚い感情を持つ私を・・・―――そんな事をしても、ジェイドには何の得もないはずなのに。

「・・・

促すように名前を呼ばれて顔を上げたその瞬間、頬に冷たい感触を覚える。

気がつけば、次々と止まる事無く、私の瞳から雫が零れていた。

これが涙。―――初めてのその感触に、私は訳も解らず声が漏れる。

伸べられた手。

一番最初、この手を取らなかったら、私は今どうしていただろう。

そんな事は考えるだけ無駄だった。―――だって私は、もうこの手を取ったのだから。

無言で差し出された手に震える手を伸ばして、その大きな手に自分の手を重ねる。

厚い手袋越しじゃ体温なんて感じられる筈も無いのに・・・それでもその手がとても温かく感じて、私の瞳からは更に雫が零れ落ちた。

引かれるままにジェイドの胸に顔を押し付けて、衝動のまま、私は初めて泣いた。

私の身体を包み込んでくれるジェイドの腕。

懐かしささえ感じるジェイドの香り。―――心から、安心する場所。

私の髪の毛を撫でるジェイドの手が心地良くて、ゆっくりと静かに瞼を閉じる。

ジェイドがどうして私に手を差し伸べてくれるのかは、今でも解らない。

どうして迎えに来てくれたのかも。

でも、私でも1つ解った事はある。

それは、私はここにいても良いのだという事。

迷惑ばかり掛けて、何の役にも立てなくて、何も持っていないけれど。

それでもジェイドは私にそれを許してくれた。―――ここにいてもいいのだと、言葉は無くてもそう言ってくれたのが解る。

ここが、私の帰る場所だって。

私は、それだけで幸せだった。

絶対的な安心感の中で、私は今までにないほど満たされた気持ちで眠りに落ちた。

 

 

そうして私はまた、ケテルブルクの街を歩く。

今度は、ジェイドと一緒に。

ジェイドと一緒だと、何故か初めてここを歩いたあの時感じた居心地の悪さは感じなかった。―――それは二度目だからなのか、ジェイドが一緒なのかは解らないけれど。

生まれて初めて見る雪の景色はとても綺麗で、隣にジェイドがいるのだと思うとそれだけで私は嬉しかった。

「ジェイド、ジェイド」

「はいはい、なんですか?」

「ジェイドは子供の頃、何をして遊んだ?」

「おや?興味がありますか?」

「うん、私もしたい。ジェイドと一緒に」

「いい大人を捕まえて、今更雪遊びですか?遠慮します」

「・・・ジェイド、意地悪」

「ありがとうございます」

にっこりと微笑んだジェイドから視線を逸らして、私は誰の足跡もついてない雪を見下ろした。

ピオニーも、サフィールも、ネフリーも、ジェイドの昔を知ってるのに。

だけど私は知らないから・・・だからジェイドの故郷で、ジェイドと一緒に遊びたかったのに。

だけどジェイドは遊んでくれない。―――きっと遊んでくれないと、思ってたけど。

それでも私は悲しくなかった。

だってジェイドが、私と一緒にいてくれるって言ってくれたから。

ジェイドと一緒にいたいって言った私に、ジェイドは好きにしなさいって言ってくれたから。

「ジェイド、大好き」

そうして私は、ジェイドと会ってから初めて、自分の感情をジェイドに伝える。

ずっと昔に、ピオニーが言っていた。―――気持ちはちゃんと言葉にしなきゃ伝わらないって。

でも怖かったのも本当。

受け入れてもらえる自信も根拠も何もなかったから。

拒否されたら、きっと私はすごく苦しい。

「・・・ええ、私もですよ・・・

だけどジェイドは優しい笑顔を見せて、優しい声で同意してくれた。

ジェイドが私を、好きだって言ってくれた。

ただそれだけで、満たされていく気がする。―――ジェイドが笑ってくれるだけで、私は嬉しくなる。

この感情がなんなのか、まだ私にはよく解らないけれど。

ずっと一緒にいられるなら、きっといつか解るはず。

だったら難しい事は考えないで、私はただジェイドの傍にいよう。

少しづつ顔を見せ始めた太陽の輝きに、真白な雪がキラキラと光りを放つ。

それはグランコクマの滝と同じくらい、とても綺麗なものだった。

「雪、キラキラしてすごく綺麗。宝物みたい」

背の高いジェイドを見上げてそういえば、ジェイドは優しい笑顔と手で、私の頭を撫でてくれた。

そうしてまた、白く輝く欠片が舞い落ちる。

私の上にも。

そして、ジェイドの上にも。

 

 

欲しかったものがある。

受け入れてくれる場所。

傍にいてくれる人。

存在する理由。

目には、見えないモノ。

そのどれもが、私にはないものばかりだったけれど。

 

気がつけば、その全ては私の傍にあった。

いつも傍にいてくれる人。

優しくて楽しい空気のある空間。

素っ気無く、でも真っ直ぐに向けられた言葉。

赤い赤い綺麗な瞳の・・・。

 

何も持っていなかった私は。

そのすべてを、手に入れた。

私の小さな世界の、そのすべてを・・・。

 

 

◆どうでもいい戯言◆

天に奏でる祈りの唄、番外編。

連載の中では書かれていなかった主人公の気持ちをメインに書こうと、何となくノリで書き始めたのですが・・・。

まず、主人公視点で書いた事が一番の失敗かと。(オイ)

ちょっとだけ幼い感じを目指しはしたのですが、あまりにも幼すぎると訳が解らないかと思って色々と調整したのですが・・・(言葉遣い拙い割にはしっかりと考えてるじゃねぇか・・・みたいな感じになってしまったり)

途中で何度も書き直しつつも仕上た結果、書かなきゃ良かったかもと思ったり。

でも折角書いたのでもったいないなぁ・・・と。(笑)

作成日 2006.5.27

更新日 2008.9.10

 

 

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