誰もいなくなった室内で、ジェイドは深くため息を吐き出した。

先ほどまでの騒がしさが嘘のように静まり返った空間に気が静まるような気がして。

けれどいつもはそこにある姿が無い事に物足りなさを感じる気もして、その相反する想いに苛立たしげに眉を寄せる。

をあのまま放っておいて良いのか?』

そんな事は改めて言われるまでも無かった。―――勿論、良いわけが無い。

それでも、どうにも出来ないものもあるのだ。

感情だけで動くわけにはいかない。

それが出来るほど、ジェイドは素直な性格をしていないのだから。

「・・・はぁ」

もう一度大きくため息を吐いて、机の上に放り出したペンを手に取る。

今のままで良い筈が無い事は解っている。―――それは自分にとっても、そしてにとっても。

それでも今だけは何も考えず、ただ心を落ち着けたいとも思う。

せめて、冷静に物事を対処できるほどには。

無意識で眼鏡を押し上げ、ジェイドはその手を積まれている書類へと伸ばした。

毎日毎日ウンザリするほど積まれた書類の山が、今日ほどありがたいと思った事は無かった。

 

大切に想うほど

〜後編〜

 

山のように積まれていた書類の最後の一枚を処理し終えたジェイドは、大きく息をつき疲れの滲む身体を椅子へ預けるように身体を伸ばした。

酷使した瞳が休息を訴えるのに任せて目を閉じ、微かに届く物音に耳を澄ます。

時刻は辺りが夕陽に赤く染められる頃。

交代の時間が迫っているのか、基地内は少々慌ただしい。

その時ふとジェイドはある事を思い出し、閉じていた目を開けて室内に視線を走らせた。

「・・・?」

いつもなら傍らの机で同じように書類整理や資料の纏めをしているだろうの姿が、今日に限ってはそこには無い。

一体何時からいないのだろうと記憶を辿り、それがピオニーらが部屋を訪れる前からなのだという事に気付く。

書類整理に没頭するあまり気が付かなかったが、あれから数時間も経つというのに、は未だここには戻ってきていないようだ。

もしかして、何かあったのだろうか?

漠然とそんな事を思うが、宮殿と同じくらい警備の厳重な軍基地本部において、その『なにか』など起こり得るはずも無い。―――ましてやに限って、彼女自身でどうにもならない事態に陥るなど滅多に有りはしないから。

「・・・・・・」

しばらく考え込んでいたジェイドは、すぐさま立ち上がると、無言のまま執務室を出た。

もう10年近くも過ごした軍基地本部内で迷子にはならないだろうが、が何も言わずに数時間も姿を消すなどあまりなかった事だ。―――それにの事だから、可能性が全く無いとも言い切れない。

少し過保護すぎる気もしないではないが、気になるのだから仕方が無い。

当面の仕事は片付いたのだし・・・と誰に向けてでもなく言い訳をしながら、ジェイドは辺りを見回しながらゆっくりと歩く。

自分は何時からこんな風に他人に振り回されるようになったのかと思わず苦笑を漏らしつつ、けれどその相手がだというだけで不快な感情は微塵も湧いては来ないのだから、もう既に末期なのかもしれない・・・とジェイドは思わず苦笑いを零した。

 

 

目の前の光景にどう対処して良いのか解らず、リーズは困ったように眉間に皺を寄せる。

軍基地内の休憩スペース。

それほどの広さは無いが、青々とした緑に囲まれ、簡易ながらもベンチの設置されたそこの一角・・・―――腰ほどの高さがある茂みに囲まれた、あまり人目にはつかない大きな木の根元に、少女はいた。

閉じられた瞳と規則正しく上下する胸が、が熟睡しているのだと物語っている。

リーズは多少困惑を浮かべながらも、少し風で散ってしまっている地面に置かれた資料を拾い集めながら視線を送るが、は一向に目覚める様子は無い。

これほど近くに寄っても起きないのは、それほどリーズに気を許しているからなのか、それとも気付けないほど疲れているからなのか。

前者ならば喜ばしい事だが、後者なら申し訳ないと反省しなければならないだろう。

の疲労の原因の一端は、おそらく自分にあるのだろうから。

小さくため息を零して、出来る限り音を立てないよう注意しながら、の隣に腰を下ろす。

のこんな無防備な姿を見たのは初めてだと思いつつ、滅多に見る事の出来ない普段よりも幼い表情を目に焼き付けるように見詰めた。

いつも無表情で感情を読み取る事は出来ないが、それでもこんな幼い表情はかつての少女の姿を思い起こさせる。

リーズが初めてという人間の存在を認識したのは、彼女が13歳の頃だった。

それまでもジェイドが軍本部へ連れて来るという子供の話は耳にしていたが、リーズ自身がジェイドと関わる事が滅多になかった事もあり、一度もその姿を見た事はなかった。

しかしが軍属となり、任務や仕事をこなすようになると、直接の関わりは無くとも姿を目にする機会は何度となくありはしたが。

あれは、まだが軍へと入った直後の事だっただろうか。

日頃から自身の鍛錬を欠かさないリーズは、その日も務めが終わった後、鍛錬場へと向かった。

そこでリーズは目にしたのだ。―――アスランと手合わせをするの姿を。

軍でも発言力のあるの副官であるアスランの事は、リーズも勿論知っていた。

それだけではなく、彼が剣術・譜術共に優秀な力を持っているという事も。

そんな彼と対等に手合わせをするまだ幼い少女に、リーズは驚きを隠せなかった。

後に彼女がジェイド=カーティスの腹心の部下であり、の養女であり、密かに語り継がれる数年前の譜術実験で大地を崩壊させた人物であると知り、なるほどと納得出来る部分もあったのだけれど。

それでもその時のリーズにとってそんな事は知る術も無く。

激しいわけでもなく、力強いわけでもなく、まるで流れるような動きでアスランの攻撃を受け流すを、ただ呆然と見詰めていた。

それはまるで花弁が風に舞うように。

水の上を葉が流れるように。

軽やかに、けれど的確に相手を狙うのチェーンの動きに、こんな戦い方もあるのだとリーズは初めて理解した。―――それは彼が初めて見る、戦い方だった。

それが、始まり。

という人間を、リーズ=バレルが認識した瞬間。

その後、気が付けば視線がの姿を追う自分に気付きながらも、初めての感情にその理由さえ理解できず。

それでも少しづつ知っていくに、それが恋心なのだと気付いたのは、皮肉にも縁談の話が舞い込んだ時だった。

何故、こんなにもに惹かれるのか・・・―――何故、でなければ駄目なのか、それはリーズ自身にも解らない。

それはもしかすると自分の頑固な性格が災いしているのかもしれないし、決められた相手と結婚をする事を良しとしない自分の意地のようなものかもしれない。

少なくとも、面と向かってと言葉を交わすまではそう思っていた。

けれど・・・。

手に持った資料が風に煽られ、かさかさと微かな音を立てる。

悪戯な風に乱されたの前髪に手を伸ばし、丁寧な仕草でそれを元に戻してやった。

「貴女を・・・お慕いしています」

小さく小さく、囁くように呟いて・・・―――リーズは覗き込むように己の顔をへと近づける。

はまだ、目覚めない。

瞬間、少し強めに吹いた風が背中を押したような気がして、リーズは無意識のまま、僅かに開いた呼吸を漏らす唇へと顔を近づけ・・・。

「おやおや〜?寝込みを襲うのは、あまり感心できませんねぇ」

突如響いたその声に、リーズは弾かれたように顔を上げた。

息苦しいほど跳ねる心臓を持て余しながら視界を巡らせると、近くの木に寄りかかり意地悪い笑みを浮かべるジェイドの姿がある。

瞬間、リーズは真っ赤に染まった顔から血の気が引いていく音が聞こえた気がした。

「・・・カーティス、大佐」

「おや、邪魔をしてしまいましたか?これは失礼」

掠れた声で何とかその人物の名を呼ぶが、しかしジェイドはそんな彼の様子に気付いていない様子でにっこりと微笑みを向ける。

否、気付いていないのではない。―――その証拠に、微笑んでいるジェイドの瞳は、少しも笑ってはいなかったのだから。

その威圧的な眼差しに、生来の負けん気が刺激されたのか・・・リーズは相手が上司であるという事も忘れ、同じように鋭い視線を投げかけた。

「カーティス大佐、お話があります」

「残念ですが、貴方の相手をしているほど暇ではないのですよ、私は」

しかしそんなリーズの勢いに任せた言動も、ジェイドはサラリと流して。

寄りかかっていた木から身を起こすと、ジェイドは殊更ゆっくりとした動きで座ったままのリーズの元へ・・・そして未だ眠り込んだままのへと近づいた。

「貴方がにどういう想いを抱いているのか、貴方がをどうしたいのか、それはここ最近の貴方の行動で理解していますよ。しかし、これだけは覚えておいてください」

そこで一旦言葉を切りリーズの前に立つと、まるで冷たさしか感じられない視線を、身体を強張らせた青年へと落とした。

は、私のものです」

有無を言わせぬ口調で告げられたそれに、リーズはこれ以上ないほど目を見開く。

「彼女は、ものではありません」

「それは勿論。・・・しかしは決して貴方を選びませんよ。彼女の心を占める存在は、私だけですから」

その言葉に偽りは無かった。

たとえその感情がジェイドの望むものではなかったとしても・・・―――それでもの中で一番優先される存在は、ジェイド以外にない事は明白だった。

「そういえば、縁談の話があるそうですね。おめでとうございます、バレル中尉」

にっこりと人の良い笑みと共に送られた言葉には、これ以上ないほどの棘が込められている。

「・・・・・・」

「期限は二週間、だそうですね。あともう日数も少ししかありませんが・・・是非、独身最後の思い出作りをどうぞ。―――常識の範囲内で、ですが」

何故相手がその話を知っているのか。

そんな事はわざわざ問いただすまでも無い。―――自分が今敵に回しているだろう人物たちの顔ぶれを考えれば、それはごく自然な事のようにも思えた。

「・・・私は」

リーズは悔しさに唇を噛み締める。

例えば、自分がもう少し立場ある人間であれば、周りからの圧力を撥ね退ける事が出来たのだろうか。

例えば、を拾ったのがジェイドではなく自分だったら。

もう少し、早く、と出会っていれば・・・―――そうすれば少女の心を独占できただろうか。

「・・・私は、諦めません」

「・・・ほお」

搾り出すように吐き出した言葉に、ジェイドの興味深そうな声が応えた。

その声色に更に眉間に皺を寄せて、リーズは上官の顔を睨み上げる。

「私は結婚などしません。そして・・・必ず彼女の心を手に入れて見せる。そう簡単に思い出に出来るような・・・そんな簡単な想いではないのですから!」

あの死霊使いと呼ばれ恐れられるジェイドを真っ向から睨み上げる青年に、ジェイドは唇の端を引き上げるようにして笑んだ。

それは想いの強さ故か・・・、それとも若さ故か。

どちらにしても、ジェイドにはない素直さではある。

「申し訳ありませんが、彼女を貴方に渡す気はこれっぽっちもないのでね。貴方がどうしても諦めないというのならば・・・いつでも相手をして差し上げますよ。―――あまり気は進みませんが」

何があっても余裕の態度を崩さないジェイドに気圧されたのか、今己がやらなければならない事を察して、最後に律儀にも失礼しますと挨拶をしてから、リーズは弾けるように立ち上がりジェイドの横を通ってその場から立ち去った。

彼がこれから向かうだろう場所を推測し、堂々たるその背中を見送りため息を漏らす。

そうして・・・視線を戻した先では、これだけの騒ぎの中でもぐっすりと眠り込むの姿に、ジェイドは更に深いため息を零した。

普段は驚くほど気配に敏感なが、2人の言い争いとも言える会話に起きる気配も見せないとは。

狸寝入りでもしているのかと訝しむが、そんな器用な真似がに出来るとも思っていない。

これだけの騒ぎでも起きられないほど、疲れ果てているという事か。

だとするならば、その原因を作った張本人であるジェイドに、を責める事など出来はしなかった。

先ほどのリーズと同じようにの隣へと腰を下ろし、すやすやと気持ち良さそうに眠り続けるの幼い顔を見詰めながら微かな嘲笑を漏らす。

は私のもの・・・ですか」

もう既に夕暮れ時だからなのか、休憩所を利用する人の姿は無い。―――人気のない静かな空間では自分の声が思いの他響いた気がする。

よく言ったものだ・・・と、今になって己の発言を苦々しく思った。

は誰のものでもない。

リーズのものでも、マルクト帝国のものでも・・・ましてや、自分のものでも。

それを解っていながら、それでもあの挑戦的な眼差しを前にそう言わずにはいられなかった。―――誰にも渡すつもりが無いのは本当だが。

「・・・

大して声を張るでもなく、ただポツリとそう呼び掛ける。

「・・・なに。じぇいど」

ただそれだけだというのに・・・―――なのにどうして、たったそれだけの事で、深い眠りについていたはずのが目覚めるのか。

ただそれだけだというのに、何故こんなにも胸が震えるのだろうか。

「・・・どうしたの、じぇいど」

寝起きでぼんやりとした眼差しをジェイドに向け、は舌の回らない口調で問い掛ける。

ただ真っ直ぐに向けられる無垢な眼差しに、今まで渦巻いていた様々な感情が馬鹿らしく思えて、ジェイドは苦い笑みを零した。

「何でもありませんよ」

「・・・そうか」

素っ気無く答えて未だ横たわるの身体を引き起こすと、本人はされるがまま起き上がり、まだぼんやりとする目を何度か瞬かせた。

「それよりも、。1つ、お聞きしたい事があるのですが・・・」

「なに?」

「貴女は私との約束を、しっかりと覚えていますか?」

視点の定まらないの方を見る事も無く、ジェイドは無造作に放置された資料を集めがならそう問い掛ける。―――すると今まで緩慢な動きで眠気を追い払っていたの動きがピタリと止まった事に気付き、どうやら覚えてはいるようだと心の中で呟く。

以前から時間が空けばどこででも昼寝をし、そのまま寝過ごして夜まで戻って来ないという失態を何度か繰り返していたは、彼女曰く『笑っていない笑顔』を浮かべるジェイドにある約束をさせられていた。

昼寝をするのなら仮眠室で。

それがジェイドに約束させられた内容である。

外で昼寝をするのが好きだったはささやかな反抗を見せたが、ピオニーや、はてはアスランにまで約束を迫られ、渋々承諾したのだけれど。

「覚えていますか、

すっかり黙り込んでしまったに漸く視線を向けたジェイドは、にっこりと微笑んで答えを促した。

「覚え・・・てる」

「それは安心しました。―――では、言い訳をどうぞ」

集め終えた資料を傍らに置いて、腕を組んだジェイドは悠然と微笑む。

その仕草のどれほど威圧的な事か・・・―――流石のもバツが悪そうに眉を寄せて、それでも言い訳を求められればそれをしないわけにもいかない。

「・・・昼寝を・・・するつもりはなかった。けど・・・」

「けど・・・?」

「・・・・・・眠かったから」

とて、たとえどんな約束といえど、1度した約束は守らなければならないと解っている。

だから最初は眠る気など無かった。

しかし少しの休憩のつもりで座り込んでしまうと、予想以上に溜まっていた疲れにうとうととしてしまい・・・―――温かい日差しと心地良い風に、ついつい眠り込んでしまったのだ。

「・・・なるほど」

「ごめんなさい、ジェイド」

納得したように頷くジェイドを恐る恐る見上げて、は申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にする。

次に来る怒りの言葉を覚悟して俯くが、しかし予想していたそれは訪れなかった。

その代わりに・・・フワリと頭に乗せられた優しい手の感触に気付き、は軽く目を見開いて再びジェイドを見上げる。

「今回の事に関しては、私にも非はありますからね」

「・・・怒ってない?」

「怒っていませんよ。・・・ま、今回は・・・ですが」

言葉に偽りの無い微笑みに、は安心したように強張った身体から力を抜いた。

約束を破ってしまった事は申し訳ないと思っているが、怒られなかった事に関してはこれ以上ないほどありがたい。―――はあまり怒られた事は無いが、以前毎日のように彼の怒りを買っていた自称親友の学者は、それはそれは恐ろしい目に合っていたようだったから。

あからさまに安心した様子を見せるを、ほんの少しだけ複雑な面持ちで見下ろしていたジェイドは、一度だけ小さく息を吐き出して。

。もう1つ、お聞きしても構いませんか?」

「・・・なに?」

改めて切り出した言葉に、再び怯んだ様子を見せるを見詰めて、浮かべていた笑みを消したジェイドは意を決したように口を開いた。

「貴女は何故、私に何も言わないのですか」

苦々しさの篭った声色でそう問われ、はきょとんとした様子でジェイドを見上げる。

「貴女は何故、私を責めないのですか」

吐き出すように呟いて、ジェイドは真っ直ぐなの瞳から目を逸らした。

今、がジェイドから任されている仕事が急ぎのものではない事くらい・・・寧ろ彼女がそれをする必要が無い事ぐらい、本人も気付いているだろう。

ほとんど使用されない地下へと追いやられた資料室の資料は、整理が必要だと思われるほど無造作に放置されている。―――しかしその資料に目を通す者は、マルクト軍にはほとんどいないだろう。

それほど内容的にも重要ではないものなのだ。

ただ単に任された仕事をこなすだけでは気付かないかもしれないが、その内容をしっかりと理解しようとしているだろうには、いかにそれが必要のないものかが解る。

それでもは資料室の整理を止めない。

資料の整理の必要性のなさも、早急さを求められる理不尽さも、そのどちらに対する反論も無いまま、は黙々と仕事を続けて来た。

「・・・もう、良いの?」

しかしはジェイドの問いには答える事無く、小さく首を傾げて問い返す。

「何がですか?」

「もう、資料室の整理はしなくても良いの?」

「・・・ええ、もう構いませんよ」

何の感情も宿らない面持ちでの問い掛けに、ジェイドは苦い表情を浮かべたままため息混じりに答えを返した。

それに対し、は放置されたままの資料に手を伸ばして。

「私は、どうしてあそこの資料室を整理するのかは解らなかったけど。だけどジェイドがそれを望むなら、ジェイドにとってそれは必要な事だと思ったから」

「・・・そうですか」

「だから、私はジェイドを責めるなんてしない。私自身が望んだ事だから、その必要なんてない」

所々皺が寄ったり折れてしまっている資料を丁寧に手で伸ばしながら、は抑揚の無い声色でそう語る。

ジェイドのすべてを受け入れようとする

時折それを酷くもどかしく思うのは、何故なのだろうか。

他愛もない事ならば反論するのに、どうしてはジェイドの心からの願いを敏感に察する事が出来るのだろう。

どうしてそれが解ってしまうのだろうか。―――感情を隠す事などいとも容易くやってのける彼の心の内を。

「例えばそれで、貴女の心身共に負担となっても・・・ですか?」

ジェイドの問い掛けに、はニコリと笑った。

「ジェイドが苦しそうな顔をするよりは、ずっと良い」

滅多に見る事が出来ない、の笑顔。

それをこんな場面で出すのは卑怯ではないだろうかとも思うが、その笑顔のお陰で凍りついた身体の中が温かい何かで溶けていくような気がして、ジェイドも小さく微笑んだ。

その微笑みを見詰めて、しかしは笑顔から申し訳なさそうなそれへと表情を変えて、おずおずとジェイドの頬へと手を伸ばす。

「でも、結局ジェイドは苦しそうな顔をしてた。もしかしたら、私は何か間違ったのかもしれない。ごめんなさい、ジェイド」

頬に添えられた手に己の手を重ねて、その温もりを感じながらジェイドは呟いた。

「・・・貴女が謝る必要など、どこにもありませんよ」

そう、が謝る必要などない。―――全ては余計な策を練ってしまった自分の責任なのだから。

リーズと接触させたくなくて、ただ闇雲に仕事を与えていた事など、は知らないだろう。

その仕事の重要性の無さには気付いても、は彼の想いもジェイドの想いにも気付いてはいないのだから。

ただの嫉妬心が生み出した結末なのだという事に、彼女が気付く事はないだろう。

「貴女には早く大人になっていただく必要がありますね。―――他でもない、私の為に」

苦笑交じりに呟けば、言われた言葉の意味が理解できなかったが、不思議そうに首を傾げてジェイドを見上げる。

「成人の儀式までには、まだ何年もあるよ」

「年齢の問題ではなく、心の問題です」

的の外れた言葉に更に苦笑を漏らして・・・けれどキッパリと言い切ったジェイドは、やはり理解できずに眉間に皺を寄せるの頭を軽く叩いた。

「なるべく早くお願いしますよ」

「・・・よく解らないけど、解った」

心もとない返事にため息を零しながら、それでもジェイドは楽しげに唇の端を引き上げた。

 

 

「物凄い回り道だったよなぁ・・・」

ソファーにどっしりと座り込んで天井を見上げた体勢のまま、はため息と共に呆れの滲む声色でそう呟いた。

執務机には相変わらず回されて来た書類を整理するジェイドの姿と、すぐ傍の机で同じく書類整理するの姿。

同時に顔を上げた2人をチラリと見やって、はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。

「でもま、収まるところに収まったっていうか・・・一件落着って感じみたいだな」

「お陰様で」

「俺的にはもうちょっとこじれても面白そうだとは思うが、これ以上に負担が掛かると心配だし、この辺が無難なところだろうな」

すぐさま書類に視線を戻し、相手をするのも面倒だという仕草で言葉少なく返事を返したジェイドに、しかしは気にした様子も無くそう独りごちる。

に向けるその気遣いのほんの少しでも構わないから、真面目に仕事をこなす自分にも向けてもらえないものかとジェイドは心の中だけでこっそりとそう思うが、気遣われたら気遣われたで不気味な事この上ない事は解っていたし、その裏に潜む何かが気になって気遣いを素直に受け入れる事など出来そうも無いだろう事は明白だった為、やはり心の中だけですぐさまその考えを却下した。

「・・・で?結局問題は解決したのか?」

この厄介な上司をあしらう為には無視を決め込むのが一番だと己に言い聞かせ、ジェイドは無心に書類整理の手を進めるが、が淹れたお茶を口元へ運びながら、この部屋の主以上に寛ぐの問い掛けに、ジェイドの眉間に皺が寄る。

不機嫌さを隠す事無く顔を上げたジェイドの目に映ったのは、からかうでもなくただ純粋な疑問を浮かべるの顔。

その顔を見返して、ジェイドは深くため息を吐き出す。

そんな事は、彼の方が知りたかった。

あの一件から一週間。

あれからリーズはジェイドの前にもの前にも姿を現してはいない。―――それまで飽きる事無く姿を見せていたというのに、あれから何の音沙汰も無い。

彼が父親と交わした約束の期限はもう過ぎているのだし、普通ならば諦めたのだと処理する筈なのだけれど・・・あの時の去り際のリーズの様子から、あっさりと諦めたとも思えなかった。

「さあ、どうでしょうね」

「どうでしょうね・・・って、お前。ずいぶん余裕の態度じゃねぇか。この間までは1人でもんもんとしてたってのに・・・」

ため息混じりに吐き出されたジェイドの幾分か投げやりな言葉に眉を寄せ、怪訝そうにが口を開く。

しかしその言葉は、響いたノックの音によって遮られた。

全員が閉じられたままの扉へと視線を向け、押し黙る。

一拍の空白の後、再びノック音。

何故だか誰も返事をしない為、室内にはその控えめな音だけが響いている。

ピオニーだろうか?と一瞬ジェイドは考えたが、すぐにその考えを却下した。―――あの我が道を行く皇帝陛下は、今までジェイドの執務室に足を運んだ事は多くあれど、ノックなどという礼儀作法にのっとった行為をした事など今まで一度たりともない。

「・・・誰だ?」

の訝しげな囁くような声が、水を打ったように静まり返る室内に広がる。

彼の疑問も最もなものだった。

多くの部下と仕事を抱えるジェイドの執務室に訪れる者は少なくは無い。

毎日書類を提出しに来る者や、上司からの呼び出しを告げに来る者・・・―――はてはこの部屋で寛いでいる上官を連行しに来る優秀だけれども苦労性な青年が、入れ替わり立ち代りにこの部屋を訪れる。

しかしノックの後には必ず自分の氏名と用件を告げる筈だ。

少なくとも、ノックをした後相手の応答をただ待つような人物の訪問など、残念ながら受けた事は無い。

「・・・はい」

タイミングを逃してしまった節もあり、じっと扉を見詰めていたジェイドとの変わりに返事を返したが、先ほどの違和感など感じさせない様子で立ち上がる。

そうして何事も無かったかのように扉を開け、そこに立つ人物を見上げて小さく首を傾げた。

「・・・誰?」

廊下に立ったまま中に入ってこようとしない為、相手の姿は確認できないが、の様子から彼女の知らない人物なのだろうという判断は付く。

一体誰なのかとジェイドが腰を上げかけたその時、この部屋を訪ねて来たその人物の声が耳に届き、ジェイドとは同時に眉間に皺を寄せた。

「こうやって対面するのは初めてだったな・・・。私はトール=バレル。マルクト帝国軍で准将の地位にある」

「・・・バレル」

「君には、リーズの父親だと言った方が解りやすいか」

低く落ち着き払った声は、ジェイドにもにも聞き覚えがある。

真面目で何よりも規則を重んじる、異色な人材が揃うマルクト軍内でも軍人らしい軍人であるトール=バレル将軍がそこに立っていた。

「バレル准将・・・」

「久しぶりだな、カーティス大佐」

座っていた椅子から立ち上がり、扉に歩み寄りながら予想外の訪問者を出迎えるジェイドを見据えて、バレル将軍は表情を変える事無くそう声を掛ける。

ジェイドも、そしてバレル将軍も、同じ本部内にいながらも、滅多に顔を合わせる事はない。

それはそれぞれがそれぞれの仕事で忙しく、またその仕事の内容が面白いほどかち合わないからなのだが・・・―――実際に長く軍属となっているジェイドも、ほとんどバレル将軍と共に仕事をした事などない。

そんな上司が何故突然に自分の執務室を訪れたのか。

その疑問に導き出される答えは数あれど、予想されるその全てがジェイドにとって良いものだとは言えなかった。

表面上はにこやかに対応しながらも、心の中では将軍の訪問を苦く思っているジェイドに気付いているのかいないのか、バレル将軍はジェイドに向けていた視線を未だにソファーで寛ぐへと向けて。

中将。いい加減に仕事をさぼるのはおやめになってはいかがですか。先ほど貴方の部下が必死に駆け回っている姿を見かけましたが?」

「あー、いいのいいの。ああやってアスランは日々鍛えられていくわけだから」

眉間に皺を寄せてそう諌めるバレル将軍に向かいヒラヒラと手を振って、は気にしない気にしないと軽く笑い声を零す。

当の本人であるアスランが聞けば何らかの反論が返って来そうな台詞ではあるが、残念ながら苦労性の部下は今この部屋にはいない。

戸籍上はの義父であり、またここ何年かは不本意ではあるが非常に密度の濃い人間関係を築いているの事をジェイドは嫌いではなかったが、今は激しくバレル将軍の意見に同感だとひっそりとため息を零した。

「・・・己に課せられた任を全うするのは、それに見合う地位に付く者の義務でしょう?」

「別に構わないだろ。アスランで事足りてるならそれで。しっかりとした部下の教育も上司の勤めの内ってな」

神経質そうに眉を寄せるバレル将軍に対し、は面倒臭そうに視線を寄越す。

そんな2人の遣り取りを認めて、は小さく首を傾げた後、窺うようにジェイドへと視線を投げかけた。

同じくそんな2人の遣り取りを見ていたジェイドは、迷惑だと言わんばかりに眼鏡を押し上げる。

とバレル将軍の不仲は、軍内でも有名であった。

に言わせれば『クソ』がつくほど真面目なバレル将軍と、バレル将軍に言わせれば『無責任』と形容が付くほど不真面目なは、まるで水と油のように反発し合っている。―――どちらかといえば、バレル将軍がに突っ掛かる事の方が多いのだけれど。

それはやはりお互いの苦手意識が生み出すものなのかもしれないし、が言うようにバレル将軍が家のような軍内でも優遇される立場の者が気に食わないのだという理由からかもしれない。

しかし理由がそのどちらにせよ、ジェイドには興味も感心も全くなかった。

「バレル将軍。お取り込み中のところ申し訳ありませんが・・・何か御用でしょうか」

これ以上2人の言い争いの巻き添えを食うのはごめんだとばかりにそう声を掛けると、バレル将軍は漸くジェイドとの存在を思い出したのか、少しバツが悪そうな表情を浮かべながら改めて2人に向き直った。

「ああ、そうだったな。・・・カーティス大佐、先日は息子が大変失礼した。君ももう知っているだろうが、私が提案した条件の為に迷惑を掛けてしまったようだ。本当にすまない」

そう言っておもむろに頭を上げたバレル将軍に、面を食らったのはジェイドの方だった。

自分よりも立場的には上司であるバレル将軍に・・・―――しかも滅法プライドが高いと評判の彼に頭を下げられて、驚かない筈が無い。

「・・・いえ、お気になさらず。頭を上げてください、准将」

暫し呆気に取られた後、ジェイドは静かな口調でそれを止めさせる。

別に頭を下げて欲しいわけでも、謝罪の言葉が欲しいわけでもないのだ。

確かにあの一件で良い気分はしなかったが、それももう終わった事である。―――今更話を蒸し返して糾弾するつもりは無い。

ジェイドの促しに頭を上げたバレル将軍を見やって、ジェイドは苦笑を漏らす。

「それだけの為にわざわざここへ?」

それならば律儀な事だ・・・と心の中で呟くが、しかしバレル将軍は控えめに否定の言葉を口にし、その視線をジェイドの傍に無言で立つへと向けた。

「いや、あともう1つ・・・」

「・・・・・・」

「君にも迷惑を掛けた謝罪と・・・お願いをしようと思ってな」

「・・・お願い?」

もまた養女といえど家の者であるというのに、バレル将軍の声色は酷く優しいものだった。

厳密に言えば彼女の出世にの名は直接関係は無いのだけれど、そんな事は彼女をよく知る人間以外には知りようが無い。―――に対するのと同じく、将軍がに良い気持ちを抱いていなくとも不思議ではないと思っていたジェイドは、そんな彼の態度を意外に思う。

しかしそれとは全く別のところで、ジェイドは嫌な予感を覚えていた。

こんな状況で将軍が言い出す『お願い』の内容について、だ。

「今回の事で、私も色々と考えさせられたのだよ」

戸口に立ったまま、バレル将軍はしみじみとそう呟く。

本来ならば席を勧めるところなのだろうが、生憎とソファーはが占拠している。

水と油のように反発しあう彼らを向かい合わせるような真似は御免被りたい。

しかしバレル将軍は、ジェイドらのそんな対応にも気を悪くした風もなく、ほんの少し表情を緩めて傍に立つを見下ろした。

「こう言ってはなんだが、息子・・・リーズはあまり人に関心を寄せる方ではなくてね。それが女性相手ともなると将来が心配になるほどだ」

「・・・そうか」

「だから私はなるべく早くあいつの結婚を進めようと思った。家庭を持ち家族を持てば、いずれは大切な存在となるだろうと思って。しかしそんなリーズが初めて自分から人に感心を寄せた。それが、君だ」

大きな手をポンと頭に乗せられて、は上目遣いに将軍を見やる。

「私は父親として、あいつの望みを叶えてやりたいとそう思うのだよ」

「そうか」

相変わらず解っているのかそうではないのか判断が付き辛い相槌を打つに視線を向けて、ジェイドとは予想され得る嫌な予感に更に眉間に皺を寄せた。

よもやまだ幼さが抜けきらない様子を見せるに滅多な事は言わないだろうとは思うが、彼の『お願い』がジェイドにとってもにとっても歓迎できるものであるとは2人には到底思えなかった。

「だから、大尉。これからもリーズと仲良くしてやって欲しい」

息子を想う父親の笑みは、大層柔らかいものだった。―――親という存在を知らないから見ても、リーズがどれほど大切にされているのかが解る。

だからはコクリと頷いた。

彼の言う言葉の真意など知る由も無く。

の中でバレル将軍の言葉は、友達になってあげて欲しいと変換されていた。

そんな控えめな承諾の仕草に、バレル将軍はにっこりと微笑む。

「ありがとう」

再び優しく頭を撫でるバレル将軍の手の感触に、少し・・・ほんの少しだけ、の表情も和らぐ。

それを認めたジェイドとは、揃って深いため息を吐き出した。

この場にピオニーがいたならば、腹を抱えて大爆笑する事間違いないだろう。

すったもんだの末、漸く落着を見せたと思っていた事態は、また違った方向へ・・・もっと面倒な方向へと展開を見せているようで。

これからの展開を想像したジェイドは、遠くを見るような眼差しで空行き怪しい窓の外を見つめた。

 

彼の気苦労は、まだまだ絶える事はなさそうである。

 

 

◆どうでもいい戯言◆

どこまで書いても終わりが見えなかった今回のお話、無理矢理終わってみれば最初に考えたものから大分逸れているような気がしないでも・・・。

最初はちょこ〜っとジェイドにヤキモチを妬かせる程度にと思っていたのですが、なんだこれ・・・予想外にオリキャラ出張っております。(笑)

最後の最後には父親まで出す始末。(折角細かい設定考えたんだからと、貧乏性が滲み出ていますが)

当初の予定はどこへやら、結局趣旨の解らないお話になってしまいました。

とりあえず、ジェイドにくさいセリフを言わせられた事に満足してます。(笑)

作成日 2006.6.24

更新日 2008.12.3

 

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