書類処理の手を止めて、ジェイドはふと顔を上げた。

かつて無いほど静まり返っている執務室内。―――特定の人物がいないというだけで、まるでそこが別の次元のようにさえ思えるのだから不思議だと、ジェイドは感情の宿らない眼差しでぼんやりと室内を見回す。

気分転換にと長時間座っていた椅子から立ち上がり、思わぬほどに固まってしまった身体を伸ばしながら窓を開ければ、頬を撫でていく嫌に湿気を帯びた風に軽く眉を顰めた。

つい先ほどまであれほど天気が良かったというのに・・・―――気が付けば蒼く澄み渡っていた空は大地を押し潰そうとするような黒い雲に覆われている。

「・・・一雨、来そうですねぇ」

窓際に軽く腰掛けそう呟けば、まるでジェイドのその言葉に応えるかのように一滴二滴と水の雫が落ち、乾いた地面を濃い色に染めていく。

瞬く間に地鳴りのような音を立てて降り出した雨音に混じり、静寂に満ちた執務室に空気を切り裂くような声が飛び込んで来る。

悲鳴のような雷鳴が、響き渡った。

 

いつか訪れる終焉

〜前編〜

 

「いいですか?くれぐれも・・・くれぐれも、勝手な行動は控えてくださいね」

「はいはい、解ってるって」

何度目かの同じ台詞を向けるジェイドに対し、念を押されている筈のピオニーは煩そうに手を振って見せる。

けれどその表情には心底楽しげな笑みが浮かんでおり、この制止が何の意味も持たない事をジェイドは早々に察した。

皇帝直々の視察・・・という形の短い旅行が決まったのは、もう3ヶ月以上も前の事だった。

幼い頃からその身に迫る危険を回避する為、ケテルブルクへと半ば軟禁されていた子供時代は勿論の事、今では一国の主となったピオニーは、当たり前だがそう簡単に出掛けられる立場ではない。

時々、を伴ってお忍びで街へと出るのが関の山で・・・―――本来ならばそれさえも身の安全を考えれば許されない事なのだけれど、王族とはいえ特殊な彼の環境故に今まではその程度ならば黙認されていた。

しかしそれはあくまで街の中限定、しかも不測の事態が起こっても彼を守りきれるだろう人物の護衛があってこそである。

だからこそ昔からピオニー自身によって提案されていた他の街や村の視察が、今まで形になる事は無かったのだけれど。

今までも、キムラスカ王国の首都であるバチカルで闘技場があると聞けば『見に行きたい』『参加したい』と子供のような駄々をこねていたにも関わらず、当然の事ながら聞き届けられる事など無かったが、ここに来て漸くマクガヴァン元帥を始め、軍の幹部連が折れたらしい。

最近いつにも増して視察を提案する熱意が高まって来ている彼の事、このまま無視し続ければ強硬手段に出られるかもしれないと危惧したのかもしれない。

幸いにも今はキムラスカとの諍いも多少は落ち着いている。

今すぐ戦争が起こる可能性も極めて低い事もあって、今回の視察が実現したのだろう。

ジェイドは既に自分の言葉など聞き流しているピオニーを呆れた様子で見詰めて、諦めのため息を零すと黙々と準備を進める己の部下へと視線を移した。

、陛下を頼みましたよ。あの様子では同行は大変でしょうが」

チラリと横目でピオニーを見やり、ジェイドはもう一度ため息を吐き出す。

「なんなら、首に縄をつけても構いません。それであの人の行動を制限できるならば」

付け加えられた言葉に、同じく準備を進めていたアスランが困ったように微笑んだ。

「私に陛下の行動を制限する事など出来はしないでしょうが、とりあえず暴走しないようにはするつもりです」

幸か不幸か、彼もまた己の上司を通じて皇帝ともそれなりに親しくしている。―――確かに他の面々よりは自分は適任なのかもしれないとアスランは密かにそう思う。

今回のピオニーの視察に際して、最も重要である彼の身を守る為の臨時の親衛隊が、同じく皇帝の視察が決まった直後に組まれていた。

隊長としてアスランが。

そして彼を補佐する役目としてが、それぞれ上司に推薦されその任に就いた。

他の隊員を目立たないようにと少数で・・・しかし精鋭で揃えられた部隊は、臨時とはいえ豪華な顔ぶれといえる。

一国の主を守る親衛隊の隊長が、まだ少佐という立場であるアスランである事に反論が無かったわけではなく、他の名のある将軍に・・・と言う案も出たのだけれど・・・―――地位はともかく実力的に見て、ジェイドとを除いた人材の中で突出した実力を持つ者は彼らしかいないと、ゼーゼマンの言に強引に纏められたのだ。

純粋に実力だけを求められれば、2人に代わる人物などいる筈も無い。

立場上、ジェイドとはグランコクマを離れるわけにはいかない事を重々に承知している他の幹部たちは、それに従う他無かった。

勿論あの自由奔放な皇帝陛下の手綱を多少とはいえ握る事の出来る人物としても、2人の他に適任者などいなかったが。

「大丈夫、ちゃんと陛下を守るから。―――何があっても」

抑揚の無い声色で淡々と告げられる言葉に説得力は感じられないが、それでもその言葉を信じる事が出来るほど、ジェイドは彼女の実力を知っている。

「ま、あの人も今までずっと宮殿の中に閉じ込められていたようなものだからな。たまには大目に見てやるって事でいいじゃねぇか」

こうやって言い分を聞いてやれば、こっちだって今度から諌めやすくなるし・・・と言葉を付け加えて、いつの間にか傍に立っていたがニヤリと笑みを浮かべる。

しかし言葉とは裏腹にその口調はどこか優しさを含んでいるようで、なんだかんだ言っても結局はみんなピオニーに弱いのだろうとアスランは苦笑を漏らした。

「おー、それじゃそろそろ行くぞ!」

当然の事ながら主導権を握っているピオニーの呼び掛けに、とアスランは揃ってそちらへと視線を向け、そうして再びジェイドとに向き直り敬礼をして。

「それでは行って参ります」

「行って来る」

それぞれがらしい態度で挨拶を済ませ、焦れて再び声を上げるピオニーの元へと慌てて駆け出した。

「土産、期待してるぞ〜!」

「やれやれ、慌ただしいですねぇ」

何故か皇帝に率いられて進む小規模な親衛隊を見送って、2人はそれぞれ穏やかな笑みを浮かべた。

 

 

立場的に命を狙われる可能性の高い皇帝陛下の視察の旅は、陸艦ではなく馬車での移動が採用された。

勿論安全性から考えれば陸艦が好ましい事には違いなかったが、如何せん陸艦での移動は目立ちすぎるのだ。―――少なくともどれほどの資産を有するものであっても、陸艦を所有出来る者などごく僅かである。

大抵の場合、陸艦に搭乗しているのは軍人がほとんどであり、また世間一般での認識もそれとそう違わない。

今回の皇帝陛下の国内の視察は、一応極秘でとの事であるのだから、明らかに軍人ではないだろうピオニーの姿が陸艦で目撃されれば、その正体がばれてしまう可能性も高い。

その点馬車での移動であれば、貴族ならごく当たり前にしている事であるのだし、様々な面で融通が利く分利用価値は高かった。―――唯一の警備上の問題も、アスランとが常にピオニーと共にある事を考慮すれば何の問題もない。

そもそも有事の際には圧倒的なカリスマを発揮するピオニーも、普段は服装を一般レベルに毛が生えた程度に変えれば、街の中に紛れ込んでいても何処かの貴族の子息くらいに見えなくも無い。

共をする軍人がゼーゼマンやノルドハイムなど見るからに軍人気質な人物ではなく、こちらも私服を着ていれば軍人には到底見えないだろうとアスランである事も、今回の場合はありがたかった。

仲良く旅をする貴族の兄弟・・・に見えなくも無い、というのが最終結論である。

は別として、ピオニーとアスランは割り合い世間にも顔を知られているという点は心配ではあるが、まさか一国の主が道端で売っている野菜を眺めているとは誰も思うまい。―――事実、お忍びでグランコクマの街へと出たピオニーは、今のところ一度としてその正体を見破られた事は無い。

という様々な問題点から最良の結論を導き出し、提案から3ヶ月の時間を経て、漸く視察という名の小旅行は決行されたのだが・・・。

本来ならば、楽しい旅になるはずだった。

滅多に街の外へ出る事が出来ないピオニーに、多くの土産話を聞くはずだった。

情報規制も成されていたし、たちの実力を考えれば何の問題も無かったはずだというのに。

だというのに・・・―――どうしてこんな事になってしまったのか。

ピオニーたちがグランコクマを出発してから一週間。

今、マルクト軍内は混沌とした空気に包まれていた。

それまで定期的に送られていた報告が一切途絶えた事が、全ての原因である。

最後に送られてきた、『明日にはエンゲーブに到着する』という定期報告を最後に、ピオニーたちの行方は不明となった。

ちょうどその頃、エンゲーブ周辺で巨大な譜術の暴走が起こったという報告が飛び込んで来たのも理由の一つだ。

その報告に、誰もが青ざめた。

現在この国を統べるピオニーには、子供どころか妻さえもいない。

つまりは世継ぎが存在しないのだ。―――今ピオニーが命を落とせば、事実上マルクト帝国は終わったも同然である。

すぐさま事の真相を究明するべく隊が組まれ、同時にセントビナーへ皇帝陛下捜索の命を下した。

今の彼らには、その報告を待つ以外の選択肢は存在していなかった。

そうして更に一週間、何の音沙汰もなく・・・―――すぐさま次の手を打つべきだろうかという思いが幹部たちの脳裏を過ぎった頃、ピリピリとした軍基地本部内に取り乱した様子の兵士が、新たな展開と共に飛び込んで来たのだ。

セントビナー駐留中のマルクト軍に保護されて、皇帝陛下が帰還した・・・と。

誰もが安堵し、喜んだ。

けれどそれはジェイドにとって、そして彼と近しい者たちにとって、決して手放しで喜べるものではなかった事を知る者は、その時点ではまだ誰もいなかった。

 

 

「・・・すまない」

騒然とする軍本部と宮殿とはまるで別世界のように静寂に満ちた謁見の間で、自国の皇帝陛下に頭を下げられたジェイドは、常に浮かんでいる笑みを浮かべる事も無く、無言でその背後を流れる謁見の間一番の見所である滝を見詰めていた。

マルクト帝国皇帝であるピオニーの帰還。

確かにそれは喜ぶべき事であったが、そんな彼の傍らには臨時で組まれた親衛隊の姿はどこにも無かった。

「一体、何があったのですか?」

しんと静まり返った空間に、普段と大して変わらぬ調子のジェイドの声が響く。

それにあからさまにホッと安堵の息を吐いた兵士たちとは対照的に、言葉を向けられたピオニーは僅かに表情を歪めた。―――他の誰に解らなくとも、長年彼と共にいたピオニーには、今のジェイドが普段のジェイドとは違う事が痛いほど解る。

流れ落ちる滝からピオニーへと視線を戻したジェイドの無言の促しに、ピオニーは肺に重く淀んだ空気をすべて吐き出すようにため息をついた後、その重い口を開いた。

「はっきり言って、俺にも未だに何が起こったのかは解らない。ただ結果だけを言えば、俺たちはエンゲーブに向かう途中で何者かの襲撃を受けた」

その時の事を思い浮かべながら、ピオニーは少しだけ眉間に皺を刻む。

いくら目立たないように少数精鋭で・・・とはいえ、一国の主の護衛が数人だけというわけは勿論無い。

マルクト軍からの支給ではない装備で傭兵風に風貌を整えた数十人の親衛隊の面々は、その中でも更に細かく人数を分け、何かあればすぐに駆けつけられる程度離れた位置からピオニーを警護していた。

ピオニーの傍についているのはとアスランの他ごく少数のみ。―――人数的には心もとないが、実力で言えばこれに勝る護衛も無いだろう。

そんな一見無防備なピオニーご一行に、武装した集団が奇襲を掛けたのだ。

しかしそれに気付いた他の護衛たちがすぐさま援護に入ろうとするも、どこからか現れた別の集団の襲撃を受け、そうしている内に場は混乱に陥った。

「襲ってきた奴らが何者なのかは解らん。一見すると盗賊みたいだったが、しっかりとした統率が取れていたのも気になる。なら何処かの手の者かとも思ったが、それにしちゃ装備がお粗末すぎる気もした」

そんな混乱に満ちた状況の中でも、ピオニーは取り乱す事無くしっかりと状況の整理をつけていた。―――それに対し、謁見に同席していたゼーゼマンが感心したように眉を上げる。

「まぁ、とにかく。襲ってきた奴らが誰であれ、俺たちの身に危険が迫っていたのには違いない。俺はすぐ傍にいたに手を引かれてその場を離脱した」

突然の襲撃者の正体がなんであれ、目的がピオニーである事に間違いはない。

そう判断したは、すぐさま周りにいた襲撃者たちをチェーンで薙ぎ倒し、守護対象であるピオニーを渦中から遠ざける為に、彼の手を引いて安全な場所を目指して駆け出した。

しかし倒しても倒しても追っ手の数は一向に減る気配を見せず、とうとう逃げ込んだ森の中で敵に追いつかれてしまった2人は逃げ切る事を諦めたのだ。

ピオニーを背後の大樹へと押し付け、襲撃者から遠ざけるようにその前に立ち塞がったは、己の武器を構え戦闘態勢に入る。

他の親衛隊の面々がどうなったのかはには知り様も無かったが、アスランが呆気なく襲撃者たちの前に倒れるとは思っていない。―――ここで持ちこたえられれば、すぐに彼らが助けに来てくれる筈だとは思った。

「襲撃者の数は多かった。一体どこから出てきたんだと思うほどな。流石の俺も怪我くらいは覚悟したさ。・・・ま、そのまま倒れる気はさらさら無かったが」

絶望的と表現しても差し支えない光景を思い出して、ピオニーはため息混じりに呟く。

ここで倒れるわけにはいかなかった。

マルクト帝国の皇帝として・・・―――何よりも、彼自身として。

だからピオニーはにすべてを託したのだ。

自分の命も、何もかもを。

ならば、増援が駆けつけるまで持ちこたえてくれるだろうと信じた。

そして・・・―――その時の出来事を、ピオニーは一生忘れないだろうと思う。

多少の武術の心得はあるものの、実戦経験も無いピオニーが多くの襲撃者たちを相手に戦い抜けるわけなどないと言う事は本人が一番よく解っている。

だからその時のピオニーに出来た事は、出来る限り敵の手の届かない場所で、大人しく場を見守る以外にはなかった。

相手は1人だと余裕の態度を見せる襲撃者を相手に、華奢で小柄なはたった1人で自ら壁となる。

けれど圧倒的な人数差を前に、決して遅れを取る事無くは戦った。

まるで流れるような動きで次々と敵を倒していくを前に、ピオニーは己の目を疑う。―――形勢は明らかに自分たちの方が不利だというのに、この状況は一体なんなのか。

の実力はやゼーゼマンたちから聞かされていて知っていたつもりであったが、まさかここまでとは思ってもいなかった。

その姿は、まるで鬼神のごとく。

はるか昔、子供の頃に読んだ物語の中に出て来る、戦いの女神のようだと彼は思った。

「それからしばらくして、俺は駆けつけて来たアスランたちに保護された」

それは決して、早いとは言えない時間が経った後の事。

まるで尽きる事を知らないように次々と出現する襲撃者をたった1人で撃退していたは、ピオニーが痛々しい表情を浮かべるほど傷付いていた。

「俺たちは何とかその場から離脱しようと試みたが、相手だってそれをそう簡単に許してくれるほど甘くは無い。そこでは・・・自ら襲撃者を足止めする為にそこに残ると言い出したんだ」

ピオニーが悔しげに表情を歪めて吐き出すように呟くのを瞳に映しながら、ジェイドはそうですかと短く相槌を打つ。

ならばそう言うだろうと、ジェイドには解っていた。―――はそういう人間だと・・・おそらくは誰よりも一番よく知っていた。

「議論を交わしている時間も無かった。おそらくはきっと何を言ってもは譲らないだろうと判断して、アスランは俺を連れてその場を離脱した」

無茶はするな、と念を押して。

の身を案じるのならば、すぐにここを離れる以外に方法は無い。―――なるべく早くピオニーを安全な場所へと避難させれば、にも戦う理由は無いのだから。

それだけを頭に浮かべ、アスランはピオニーを連れて森の中を疾走した。

そうして漸く追っ手を撒き、の元に残った親衛隊を除く他のメンバーたちと合流したその時。

今自分たちが逃げて来た方向から、巨大な音素反応と耳を貫くほどの爆音。

そして離れていても感じられるほどの振動が、肌に直接届いたのだ。

 

 

「失礼します」

ゆっくりと一礼し、そのまま踵を返して謁見の間を去って行くジェイドの背中を見送り、ピオニーは深く長いため息を吐いた。

こんな状況になってまでも冷静さを保とうとする彼の姿に、胸の奥がチクリと痛む。

しかしだからといって、ピオニーはジェイドに掛ける言葉を持たなかった。―――今の彼は慰めやその場しのぎの言葉など望んでいない事を、彼は知っていたから。

結局あの時あの場所で何が起こったのか、ピオニーには解らない。

ただ解っている事は、あの爆発の中で、人間が無傷でいられるはずがないという事だけ。

あの後騒ぎと報告を聞きつけてきたセントビナー駐留の軍に改めて保護されたピオニーは、視察を中断し彼らの護衛でグランコクマへ帰還する事となった。

勿論あの状況で視察を続けるつもりは、流石のピオニーにも無かったが。

しかしあの爆発に巻き込まれたかもしれないをそのままに、自分だけがグランコクマへ帰る事などピオニーに出来る筈も無い。

だからこそ、本来ならば自分と共に帰還しなくてはならないだろう親衛隊の隊長であるアスランに、たちの捜索を命じた。

セントビナーを収める将軍はそれに対し良い顔をしなかったが、命じられたアスランに反論があるはずもなく。

現場で今自分が出来る事は何もないと判断したピオニーは、そのすべてをアスランへと任せ、一足先にグランコクマへ戻って来たのだ。

「大丈夫じゃよ、陛下」

不意に掛けられた言葉に視線を声の方へと移すと、そこには安心させるように微笑んだゼーゼマンの姿がある。

の音素は強い。逆を言えば、その分譜術攻撃に対する耐性も強いという事じゃ。多少の怪我はあれど、命を落とすような事はありますまい」

「・・・ああ、そうだな」

ゼーゼマンの言いたい事は解る。

確かにその通りなのだろう。―――しかし、だからといって心配する気持ちが消えるわけではない。

現にそう口にするゼーゼマンとて、全く心配していないというわけでもないだろう。

言葉に自分に言い聞かせる響きを微かに感じ取り、ピオニーは成すすべもなくただため息を零す。

「・・・それにしても・・・わしはジェイド坊やの反応に驚いたよ。―――もしかすると取り乱すかもしれないと思っていたんじゃが・・・」

「・・・ジェイドの取り乱す姿なんて、想像つかないがな」

ゼーゼマンの言葉に、ピオニーは冗談めかしてそう苦笑する。

普段から冷静沈着、何が起こっても飄々とした態度を崩さないジェイドの取り乱した姿など、一体何人の人間が見た事があるのだろうか。

少なくともマルクト軍の人間のほとんどが、想像もつかないに違いない。

「・・・いっその事、取り乱した方が良かったかもな」

ポツリと漏れたピオニーの呟きに、ゼーゼマンが視線を向けた。

ジェイドにとってがどういう存在であるかなど、おそらく厳密に言えば本人以外には解らないだろう。

それでもこれまでのジェイドの様子から見て、それほど軽い存在で無い事くらいは簡単に想像がつく。―――かけがえの無い、取替えなどきくはずが無い、特別な存在。

そんな特別な存在の生死も解らない状況で、あのジェイドの落ち着きようは・・・そう見せている彼の様子は、明らかに普通と呼べるものではない。

いっその事取り乱してしまえれば・・・―――心の内にある不安や恐れを出してしまえたならば、少しは気も楽になるかもしれないのに。

そうできないジェイドの不器用さが、ピオニーにとっては歯痒く心配でもある。

「・・・そうかも、しれませんな」

言葉には出さないピオニーの想いを察して、ゼーゼマンが囁くような声でそう返した。

 

 

急ぐでもなく、殊更ゆっくりとした足取りで自分の執務室に戻ったジェイドは、執務机ではなくソファーに腰を下ろし、激しく窓を叩く雨の雫をぼんやりと眺めていた。

静まり返る室内。

まるで自分の部屋ではないような気がして、小さく苦笑を零す。

つい先ほどここで仕事をしていた時も、確かに僅かな不安はあった。

消息の途切れた親衛隊。

何かがあった事には間違いはない。

それでもジェイドは多少の心配はしていても、心のどこかで思っていたのだ。―――何があっても、は自分の元へ帰って来ると。

実際彼女の実力を考えれば特別不思議な事ではなかったし、今までもどれほど激しい前線に身を置いていても、はいつもと変わらぬ様子で帰って来た。

戦場での絶対の命の保証などどこにも無いのに・・・―――それを誰よりもよく理解している筈の自分が、それでも何故か無条件で彼女の帰還を信じていた事に今更気付かされる。

そしてそれに気付いてしまった今、それがどれほど不安定な確信なのかという事さえも理解できてしまい、これまでの自分にはありえなかった弱さを目の前に突きつけられたような気さえした。

いつも傍らに、当たり前のようにいたはいない。

それがどれほど自分に痛みを与えるのかを、こんな状況になって初めて気付いてしまった。

「・・・・・・はぁ」

1つ大きくため息を吐いて、落ち着かない自身を持て余すように、ジェイドは唐突にソファーから身体を起こした。

そのまま目的地を定めるでもなく部屋から出て、真っ直ぐに伸びる廊下を歩き出す。

慌てた様子ですれ違う兵士たちが、ゆっくりと廊下を歩くジェイドに声を掛けるが、その誰もが淀みも乱れも無い彼の様子を訝しむ事無く、一礼して去って行った。

そのまま当てもなく歩き続け、そうしてふと見覚えのある場所に立っている事に気付いたジェイドは、歩みを止める事無く、不意に浮かんだ疑問に小さく自嘲の笑みを零す。

死、とは一体なんなのだろう。

意味ならば解っている。―――それがどういう事なのかも。

しかしその出来事に対する理解が、歳を重ねた今でも出来ていないような気がする。

見覚えがありすぎる部屋の前で立ち止まったジェイドは、少しだけ迷う素振りを見せてからその部屋の扉を開いた。

既に使われていないそこに人の姿は無く、天候のせいで陽の明かりがない為薄暗く不気味な雰囲気が漂っている。

しかしそんな雰囲気に臆する事無く、ジェイドは机や機材に積もった埃を指でなぞりながら部屋の奥へと進んだ。

「・・・確か、まだ動くはずですが」

誰に言うでもなくそう呟いて、同じく埃を被った機械へと手を伸ばせば、まだ生きているそれはジェイドの手によって久方ぶりに動き出す。―――コードで繋がれたモニターに灯りが灯り、それは薄暗い室内でより一層不気味に浮き上がった。

しばらくの間そのモニターをジッと見詰め、緩慢な動作で再び操作を進めれば、見覚えのあるデータがモニターに表示される。

言葉も無く、表示された文字を睨みつけるように見詰めていたジェイドは、ふっと自嘲の笑みと共に軽く息をついた。

かつて己の過ちで、かけがえの無い人を失ってしまった時。

まだ幼かった自分が犯した罪を、ジェイドが忘れた事など一度も無い。

それが正しかったのか正しくなかったのか、きっと今ならば答えは出るだろう。―――ただそれによって得たモノがあるのも確かで。

それでも今再びその選択肢を突きつけられた場合、自分は己が正しいと思える方を迷い無く選べるという確固たる自信は、残念ながら持つ事は出来ないけれど。

頭の中に響く声が彼に告げる。

今自分が成そうとしている事は、間違いなく正しい事なのだと。

感情の宿らない表情でモニターを見詰めていたジェイドの口角が、僅かに持ち上がる。

そうして彼の手袋に包まれた指先が静かにキーを叩いたその瞬間。

「こんな所でなにやってんだ、ジェイド」

静かな室内に静かに響いた聞き覚えのある声に、彼は悠然とした笑みを浮かべて振り返った。

 

 

◆どうでもいい戯言◆

なんだか最近、暗いお話ばかり書いている気が・・・。(気のせいじゃない)

本当はもっともっと楽しいお話も書きたいのですけどね。

とか言いつつ、他に考えてる過去編の連載もちょっと暗めなんですが。(オイ)

というか、まだこのお話も書き終わってないのに、次の話をするのもどうなのか。

当初はピオニーの視察(という名の小旅行)の内容とか、それに付いて行く主人公とかフリングスとかの話も書くつもりだったのですが、そんな所まで書いてるととてつもなく長くなってしまいそうな気がして、結局そこらへんは省いてしまいました。

なので内容がかなり突発的で説明臭いのはそのせいです。(開き直り)

なるべく短く・・・と思っての処置なのに、一話で収まらない所に未熟さを感じますが。

作成日 2006.6.29

更新日 2009.1.7

 

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