もう使われていない筈の部屋から微かに零れる灯りを瞳に映し、ピオニーは深く眉間に皺を寄せ、そして強く唇を噛み締めた。

彼の様子が可笑しい事など、ピオニーにとっては一目瞭然だった。

普段の様子と変わりが無いからこそ、可笑しい事は解り切っていた筈だったのに。

それでもそんな彼をそのまま1人にしてしまった事に、ピオニーは微かな後悔を抱く。

今彼が何を思っているのか、何をしようとしているのか・・・―――それが唯の杞憂であって欲しいと思っている反面、浮かんだ疑惑に違わぬ現実に遣る瀬無い想いを抱く。

急く気持ちとは反対に、そこへと向かう足は重く感じられる。

今、そこにいるのが、自分が考える人物でなければ良い。

そう祈りながらも部屋の入り口に立てば、薄っすらと漏れる明かりの中で立ち尽くす男を目に映し、その願いが儚くも崩れ去ってしまったのだとピオニーは察した。

「そんな所でなにやってんだ、ジェイド」

何故か震えそうになる声を押さえてそう言葉を掛ければ、男・・・―――ジェイドはゆっくりと顔を上げ、そこに立つピオニーを見詰めて悠然と微笑んだ。

そのジェイドの微笑みは。

彼が今まで見た中で一番、冷たく、儚く・・・そして綺麗に思えた。

 

いつか訪れる終焉に

〜後編〜

 

男に対して『綺麗』だなんて、俺らしくも無い。

しかもそれが、よりにもよってジェイドだとは。

自分の突然の登場に顔色を変える事無く笑みをたたえるジェイドを前に、ピオニーはほんの少しの自己嫌悪と失笑を覚える。

らしくも無く、今のこの状況に少なからず動揺している証拠だとため息を零し、そうして同じくこの状況に動揺どころか心を乱しているだろう男を見据えた。

「ほんと、お前何やってんだよ」

「私の方こそ聞きたいですね。こんな所で何をしているんですか、陛下」

もう一度繰り返した問い掛けに質問で返したジェイドは、少しだけ表情の硬いピオニーを見返して肩を竦める。

2人とも似たような問い掛けだが、この場合はどちらかといえばジェイドの問い掛けの方が的を得ていた。―――この実験室しか存在しない棟で、今は研究などしていないジェイドの姿がある事も不自然だが、実験の結果の報告は受ける事はあっても決して研究に参加しないピオニーがこの場にいる事の方が不自然だ。

『いつも通り』、呆れたと言わんばかりの態度を自分に向けるジェイドを見据えて、ピオニーは深々とため息を吐いた。

「いつも通りお前の部屋に遊びに行ったら、いるはずのお前がいなかったんでな」

「それでここへ?」

「通りかかった兵士に聞いたら、こっちの方に向かうお前を見たって聞いたんだよ」

ジェイドの心配をしたなど、ピオニーには言うつもりは無い。―――そんな事を言ったならば、この男はからかうように・・・そして少し哀しげに笑うのだろうから。

ピオニーの答えに「そうですか」と簡単に返事を返したジェイドは、再び視線を戸口に立つ彼から光を放つモニターへと映す。

そこに何が記されているのかなど、ピオニーには解らない。

ただ1つ解っている事は、この部屋で何の実験が行われていたかだけだ。

そしてその実験内容を知っているからこそ、ピオニーは口を噤むわけにはいかなかった。

「今更、ここに何か用でもあるのか?」

ぼんやりとモニターを見詰めるジェイドに向かい、静かな声でそう問い掛ける。

回りくどい言い方をするつもりも無かった。―――ジェイドに対して、今更それは必要ない事であるとも解っていたから。

ピオニーがここを訪れた時点で・・・そしてジェイドがこの部屋にいる時点で、この問いが投げかけられる事は仕方のない事だった。

ジェイドが再びゆっくりと視線をピオニーへと向ける。

いつも笑みが浮かんでいるその顔に、今は珍しく表情はない。―――それが何を意味するのか、そこから計る事は難しい。

肯定なのか、それとも否定なのか。

次の瞬間やんわりと微笑んだジェイドを見ても、ピオニーにはどちらとも判断が付かなかった。

「思い出したのですよ。―――これがここにある事を」

横目でモニターを指し、ジェイドはため息混じりにそう呟く。

かつてフォミクリーの研究が成されていた実験室で。

今は既に封鎖され、かつての活気などどこにも見られない寂れた室内で。

あの頃とは違う面持ちで、ジェイドは小さくそう漏らした。

「これってなんだ?」

のレプリカ情報ですよ」

至極あっさりと告げられた言葉の内容に、ピオニーは深く眉間に皺を刻む。

フォミクリーの研究には欠かせない、人間のレプリカ情報。

それがなくば、レプリカを作る事など出来はしない。―――しかしそれを抜き取るには、多少なりとも危険が生じるという事を、ピオニーは報告内容から察していた。

ジェイドがこの実験室に向かったと兵士から聞いた時、ピオニーは1度だけもしかして・・・と疑いを抱きはしたのだ。

しかしレプリカ情報を抜き取る際の危険性を知っていただけに、ジェイドがのレプリカ情報を抜き取るという行為に及んでいるとは思っていなかった。

の事を少なからず大切に思っていたかつてのジェイドが、そんな危険性を侵す筈はないと・・・心のどこかでそう信じていた。

しかし、まさか抱いた疑いが本当になるなど・・・。

「誤解しないでくださいよ。のレプリカ情報を抜き取ったのは、私ではありません。非常に不本意ですが、いつの間にか抜き取られていたんですよ」

ピオニーの考えを読み取ってか、ジェイドがそう言葉を付け加える。

「いつの間にかって・・・もしかして」

「ええ。おそらくはサフィールの仕業でしょう」

またもやあっさりとそう言い切って、ジェイドは冷たい眼差しでモニターを睨みつける。

あの頃・・・まだジェイドを中心にフォミクリーの研究がなされていた頃。

その頃はまだも軍人という立場ではなく、軍関係の一般人という実に微妙な立場にあったが、ゼーゼマンやノルドハイムという軍の上層部直々の戦闘訓練を受けていたの実力は軍内でも評価は高かった。

高い実力を持つ者のレプリカを作る事は研究上での目的に近く、強大な音素を操る事の出来るは絶好の研究対象だったに違いない。

それでも研究に参加していながら彼女が実験体にならずに済んだのは、一重にジェイドの庇護の元、皇帝や軍上層部の圧力があったからに他ならない。

そんな中で抜き取られたという、のレプリカ情報。

一般の研究員に手が出せる筈もなく、それ故にそれが出来る人間は限られていた。

ジェイドがしたのではないなら、残るは本人であるか・・・―――自然に彼女に近づく事が出来、フォミクリーの知識を持ち合わせている彼らの幼馴染しかありえない。

彼がどういう思惑でのレプリカ情報を抜き取ったのかはさておき、それに対して本人に弊害が起こらなかった事と、レプリカを作る事が実行に移される前に研究自体が封印されてしまった事だけは幸いだったが。

厄介な置き土産ばっかり残していきやがって・・・と心の中でそう漏らして、ピオニーはジェイドの見詰めるモニターへと視線を移した。

今はもう、いつの間にか抜き取られていたのレプリカ情報に対する文句など意味がない。―――それは既に形として、そこに残されているのだから。

問題はそれがここに存在している事でなくて。

のレプリカを作るつもりか?」

ピオニーは再び静かな声でそう問い掛ける。

今度は声も震えなかった。―――不思議なほど落ち着き払ってそう問い掛けた自分自身に、ピオニーは不思議な感情を抱く。

ジェイドが顔を上げた。

これからもしかすると恐ろしい返事を聞く事になるかもしれないというのに、ピオニーは自身が全く動じていない事に気付いていた。

何故・・・と問われても答えられないだろう。―――ただ、彼は信じているのだ。

かつてのジェイドと今のジェイドが違うのだという事を。

たとえどれほど絶望に苛まれていても、ジェイドは最後の最後で自分を見失わないだろうと。

そして・・・―――未だ生死不明である彼女が、必ず帰還するだろうとも。

その希望がある限り、最悪の事態に陥る事はないに違いない。

万が一それが裏切られてしまった時、どう転ぶかは彼にも解らないが。

「いつかが言っていたでしょう?死んだ人間は甦らないと」

薄暗い・・・数々の機械が並ぶ室内を見回しながら、ジェイドは淡々とそう話しながら薄く目を細め微笑む。

まるでそこにがいるかのように・・・優しく微笑みながら。

「・・・ああ、言ってたな」

ピオニーも、過去の在りし日を思い出す。

無表情で、淡々とした口調で・・・けれどはっきりとそう言い切った少女。

強い部分と脆い部分を共有する、アンバランスな少女。―――しかし幼いながらもしっかりと本質を見抜いている当たり前の筈のその言葉は、決して犯してはならない罪へと足を踏み入れた者の心に深く響いた。

「今ならば私もそう思います。だから、私はここへ来たのですよ」

血迷った私が、決して過ちを犯さぬように・・・―――そう付け加えて、ジェイドは穏やかな笑みと声色でそう告げた。

死んだ人間は甦らない。

そんな事は解っていた筈なのに、改めてそれを言われてショックを受けたあの時を思い出す。

当たり前の事を当たり前だというように告げられ、しかしその当たり前の事を理解していなかった自分を、今改めて若かったのだと思い知る。

「死んだ人間が甦らないと解っていても、訪れる無慈悲な現実に、私が過ちを犯さないという自信は残念ながらありません」

薄暗い室内に立ちそう語るジェイドを、ピオニーは無言で見詰めていた。

何故か部屋の中に入るのは躊躇われた。―――きっとそこは自分が立ち入る事が許される場所ではないと、心の中で思っていたのかもしれない。

若かりし頃のジェイドが、自ら認めた罪を犯した場所。

きっとジェイドはその場所に、誰にも立ち入って欲しくないと思っているに違いないとそう思った。

「そんな自分自身に負けてしまえば、おそらく私はのレプリカを作ってしまうでしょう。―――それがではないと理解していても」

脳裏に浮かぶのは、無表情で自分を見詰める少女の姿。

困ったように眉を寄せ、楽しそうに笑む微かな表情の変化。

そして・・・初めて見た、の嬉しそうな笑顔。

自分の期待に応え、そして自分だけを映すその真っ直ぐな瞳。

もしも自らの心の闇に屈し、のレプリカを作ったとして。

そのレプリカがに似ていれば似ているほど、その罪の証に苛まれ、空虚な想いを抱き。

そしてレプリカがに似ていなければ似ていないほど、深い絶望を味わうのだろう。

それでもきっと、どれほど罪に苛まれ絶望の淵に叩き落されようと、そのレプリカを手放せないに違いない。

それだけは確信できた。―――それが確信できるほど、自分の中でという人間の存在は大きくなっていたのだと・・・こんな状況になって漸く気付かされた。

それを忌々しく思う気持ちと同じように、それがこの上なく幸せな事であるのだと思えてしまうのだから、救いようがないというか手のつけようがないというか。

「ですから私は、のレプリカを作ろうとは思いません」

かつてが言った言葉のすべてが、追い込まれたこの状況で理解できた。

たとえレプリカだと解っていても、それが大切な人の姿をしていたならば、愛しいと思わない筈がないだろう。

だから作らないのだ。―――そんな迷いを生み出さない為に。

キッパリと断言したその声は、それほど大きくはなくとも強くその場に響いた。

心配する事は何もないのだと・・・―――そんな必要はないのだと言われた気がして、ピオニーは苦笑を浮かべる。

「だから・・・のレプリカを作らない為に、私はここへ来たのですよ。私が正常な判断を下せる内に・・・のレプリカ情報を消去する為に、ね」

「・・・そうか」

安堵交じりに返事を返して、2人は穏やかな表情で顔を見合わせた。

今のジェイドならば、たとえどれほど無慈悲な現実を突きつけられたとしても、道を誤る事はないだろうとピオニーは思う。

けれどのレプリカ情報が存在するだけで心にいらぬ波紋を広げるくらいならば、いっそのこと消去してしまった方がすっきりするとも。

決してそれを使う事がないならば、なくなっても困りはしないのだから、と。

「私にこんな厄介な感情を抱かせたのですから、には是非戻って来てもらい、しっかりと責任を取って貰わなければ割に合わないと思いませんか?」

いつも通りからかうようにそう笑ったジェイドを見返し、ピオニーは思わず小さく吹き出す。

「確かにそうだな。こんな物騒な奴を野放しにしとくのも心配だし、しっかりと責任とってもらわねぇと」

「相変わらず失礼な人ですね、貴方は」

返って来たジェイドの『いつも通り』の態度がいつもと同じように感じられて、ピオニーは小さく笑みを零す。

今それをいつも通りと感じられる事こそが、自分もまたいつも通りに戻れたのだとそう思えたから。

「んじゃ、とっとと戻ろうぜ。用が済んだんなら、いつまでもこんな辛気臭い場所にいても仕方ねぇだろ?」

「辛気臭い、ですか。まぁ、否定はしませ・・・」

「カーティス大佐!!」

室内を見回して肩を竦めたピオニーの動作に、ジェイドが苦笑と共に口を開いたその時、慌てた様子の兵士の声が響く。

彼の言葉を遮るように室内に飛び込んで来た兵士は、その場にピオニーの姿がある事に一瞬戸惑いを浮かべつつも、それどころではないのか・・・すぐさま礼をとってジェイドに向かい合うと、僅かに震える声で彼らを動かすに足る言葉を告げた。

「報告します!皇帝陛下親衛隊・隊長であるフリングス少佐が、たった今負傷者を連れて帰還されました!」

 

 

街の入り口に現れた一団は、警備をしていた兵士たちだけではなく、そこに住まう人々にも衝撃を与えた。

今、一体何が起こっているのか。―――それは街の人間には正式に知らされてはいなかったが、漂う空気とどこからか流れてくる噂などで簡単な事情は広まっている。

ともかくも無事に帰還した親衛隊は歓喜をもって兵士たちと街の人々に迎えられ、その場は異様な盛り上がりさえ見せていた。

「アスラン!」

とりあえずも、街の入り口で警備をしていた兵士に帰還の旨とこれからの指示を与えていたアスランは、突如掛かった声に顔を上げて視界を巡らせる。

「・・・陛下。カーティス大佐」

慌てた様子でこちらへと向かってくるピオニーと、その後ろを厳しい表情で付いて来るジェイドを認めて、アスランは話をしていた兵士に断りを入れてから2人へと歩み寄った。

「陛下、ただいま戻りました。遅くなってしまい申し訳ありません」

「んな事は良いんだよ。無事に戻ってくれて良かった」

「・・・ありがとうございます、陛下」

本当にホッとした様子でそう言うピオニーを見返して、アスランも嬉しそうに頬を緩める。

あの状況で、アスランを渦中の真っ只中に戻らせる事がどういう事なのか・・・―――それはピオニーにも解っていた。

仲間を見殺しになど出来ないと思っていても、状況から見てその場に戻るのがどれほど危険な事なのかも。

それでもアスランがその命に従ったのは、その命を下したのが皇帝であるピオニーだからであると共に、彼自身も仲間の身を案じていたからに他ならない。

「ま、無事で何よりだ。それから・・・」

「・・・状況を説明していただけますか、フリングス少佐」

先ほどよりも明るさを取り戻したピオニーの言葉を遮って、後ろで静かに控えていたジェイドがそう促す。

それに無言で頷いてから、アスランは2人の顔を交互に見詰めながら事の顛末を話し始めた。

ピオニーをアスランたちが保護したのを見届けた後、は足止めの為に数人の兵士らと共にその場に残った。

敵の数は多い。―――を含め数人では足止めするのは難しい状況ではあったけれど、元々大人数を相手にするのが得意であるは、その難しい状況にもかかわらず見事に敵を足止めしていた。

その時には、不意に自分たちのすぐ傍で強大な音素反応を感じ取ったのだという。

それに気付いた時には既に遅く、上級譜術は足止めをする彼女たちに向けて放たれていた。

「・・・それで?」

「放たれた譜術を避ける事は、あの時の彼女たちには不可能でした。そうして彼女たちは何の準備もなくその攻撃を受けてしまったらしいのですが・・・」

言葉を濁して、アスランはその時その場にいた兵士からの話を思い出す。

激しい爆発と燃え盛る炎の中、大きな怪我を負いながらもは立っていた。

譜術士には、譜術に対する抵抗力というものがある。

強大な音素を操れれば操れるだけ、譜術防御力も高い。

元々強大な音素を操る事の出来るである。―――譜術防御力も並の譜術士とは桁が違った。

「最初の攻撃でほとんどの戦力が殺がれたにも関わらず、はたった1人で瀕死の仲間を庇いつつ戦ったそうです。幸い・・・といって良いのか解りませんが、最初の譜術攻撃は無差別的なものであったらしく、敵のほとんども同じく倒れていたそうなので可能だったのでしょうが・・・」

おそらくは高い実力を持つらを恐れての、捨て身の攻撃だったのだろう。

しかしそれを受けてもは立っていた。―――それが更に相手の余裕を奪ったのは間違いない。

その上級譜術を放った実力の高い譜術士は、怪我を負いながらも立つを見て焦り混乱したのだろう。

何とかを倒そうと躍起になり、自分がまだ使えもしない更に強力な譜術を唱えようとして・・・。

「そして、譜術の暴走を招いたのです」

アスランの静かな声に、ジェイドは僅かに眉を寄せる。

どうやら自分たちが感知した強大な音素反応というのは、おそらくそれの事に違いない。

譜術の暴走。―――それがどういったものなのか、彼はよく理解していた。

「その後、どういう経緯があったのかははっきりとしません。それを境に意識を保っていた者が1人もいなかったそうですから」

「・・・そうですか」

「ただ生き残りの兵士たちが気付いた時には、もうすべては終わっていたそうです。の治癒術で回復した彼らが見たのは、自分たち以外には誰の気配もしない荒地だったそうですから」

その光景を思い出したのか、アスランは微かな恐怖を滲ませながら呟く。

それはとても残酷な光景だったのだろうと、数々の惨状を目にして来たジェイドには容易に想像がついた。

「私たちが駆けつけたのはその直後の事でした。残念ながら敵の生き残りはゼロだったので、陛下を襲った奴らの正体については判明していません」

申し訳なさそうに悔しそうにそう漏らすアスランを見て、ピオニーは気にするなと優しく声を掛ける。―――敵が何者なのか解らないのは痛いが、今更それを言っても仕方がない。

あの状況判断に優れているが、普段の戦いで相手の正体が解らなくなるようなマネをするとは思えない。

結果そうなったのだとすれば、それに構っていられる状況ではなかったという事なのだろう。

「それで・・・はどうしたんだ?無事なんだろう?」

暗い話を摩り替えるように、ピオニーは少しばかり明るい声色でそう問うた。

それに応えるように、アスランも少しばかり表情を明るくして・・・けれど瞬時にそれを苦いものに変えて頷く。

「はい。怪我は酷いですが、命に別状はありません」

「酷いって・・・」

ピオニーがと別れた頃の彼女は、それほど酷い怪我など負ってはいなかった。

確かに怪我はしていたけれど、それはどれも致命傷とは程遠いものである。―――幼い少女につけられた傷は心痛むものではあったが、酷いと称されるほどのものではなかった筈。

そんなピオニーの疑問を読んでか、アスランは控えめに言葉を付け足す。

「怪我のほとんどが、上級譜術の直撃を受けた時のものです。いくら譜術防御力が高いとはいえ、全くの無傷で・・・というわけにはいきませんから。あとはその後、おそらく1人で戦っていた時に負った傷だとは思いますが・・・」

アスランもまた、痛々しいとばかりに表情を歪めてそう呟く。

今回の親衛隊の中で、第七音素を有する治癒士はだけである。

高い能力を持つであるから、1人でも大丈夫だ・・・と判断した末であるのだけれど・・・―――今回はそれが仇になったと言っても過言ではなかった。

生死に係わりかねない怪我を負った兵士たちに、は疲労を押して1人で治療して回ったのだ。

その結果、生き残っていたすべての兵士たちは回復したのだけれど・・・―――おそらくは一番怪我の酷かったは、自分に治療を施す前に倒れてしまった。

回復した兵士たちも駆けつけたアスランたちも、誰一人として治癒術を扱えるものはいない。

結果、出来る限りの処置を施し、急いでグランコクマまで戻って来るしか選択肢はなかった。―――グランコクマまで戻れば、軍が保有する治癒士がいる。

「今はとりあえず医務室に運んであります。すぐに治癒士を派遣してもらえるよう、既に要請はしてあるのですが・・・」

そこまで言ったアスランの言葉を最後まで聞く事無く、ジェイドは無言で踵を返し、今来た道を早足で戻る。

「あ、カーティス大佐!」

「ああ、ほっとけ。あいつ今の今までの事心配してヤキモキしてたからな。一目でも無事な姿を見たいんだろうよ」

「・・・それはまぁ、そうでしょうけど」

ピオニーのからかうような声に視線を戻して、アスランは困ったように眉を寄せる。

ここまで連れて戻って来たの姿を思い出して。

「・・・余計に心労を増やさなければ良いけど」

そう1人ごちたその言葉は、生憎と誰の耳に届く事もなかったけれど。

 

 

閉ざされた医務室のドアの前に立ち、ジェイドは伸ばしかけた手を止め、ジッとその場に立ち尽くしていた。

このドアの向こうにがいる。―――それは先ほどまで感じていた絶望を払拭するほどの力を持っていた。

どくどくと早鐘を打つ心臓を宥めるように深く深呼吸をして、何故こんなにも緊張しているのかと思わず自嘲の笑みを漏らす。

そうして逸る気持ちを押さえて、ジェイドはドアノブへと手を掛けた。

僅かな音を立てて、滑らかにドアが開く。

それと同時に目に飛び込んできた真白の光景に薄く目を細めて、医務室特有の匂いと雰囲気が漂うそこへと足を踏み入れた。

他の兵士の手当てに忙しいのか、そこにはいつもいる筈の軍医の姿はない。

静まり返った室内に響く堅い自分の足音を聞きながら、ジェイドは唯一カーテンの引かれたベットへと歩み寄って。

シャっと耳に心地良い音を立ててカーテンを引いたジェイドの赤い瞳に映ったのは、整えられたベットで静かに眠るの姿。

いつも無表情の彼女の顔の半分は白い包帯で巻かれ、唯一覗いている右目も今は堅く閉ざされたまま。―――僅かに捲れたシーツの隙間から見える少女の身体も幾重にも包帯が巻かれていて、それだけで彼女の怪我の程度が窺えた。

それでも。

シーツを掛けられた胸元は、ゆっくりと・・・しかし確かに上下している。

可笑しいほど震える手を伸ばして、包帯で覆われていない方の頬へと手を伸ばす。

じんわりと手に伝わる温かさ。

生きている証。

酷い怪我を負っていても、未だ眠ったままでも。

それでもは生きている。―――生きて、自分の前にいるのだ。

ジェイドは自身でも説明出来ない感情を堪えきれないとばかりに呼吸と共に吐き出し、脱力したようにその場に膝をついた。

こんなにも焦りを感じたのは、一体いつぶりだろうか。

これほどの絶望を感じ、そして安堵を覚えたのは?

どうしようもない感情の揺らぎが、自分を襲ったのは?

そんなどうでもいい事を考えながらジェイドはのろのろと身体を起こし、傍にあった椅子を引き寄せてそこへ座ると、未だ眠り続けるの幼い顔を見詰めて・・・―――そうしてジェイドは思わず息を飲み目を見開く。

先ほどまでしっかりと閉じられていたの瞳が、今は薄っすらと開かれていた。

?・・・私が解りますか、

シーツの隙間から覗く手を握り締め、らしくもない焦りを含んだ声でそう問い掛けると、の瞳がゆっくりと辺りを見回し、ジェイドを映したと同時にその動きを止める。

「・・・じぇいど?」

「貴女はフリングス少佐に保護されて、グランコクマに戻って来たのですよ。覚えていますか、?」

掠れた拙い口調で自分の名を呼ぶ少女に、ジェイドは簡潔に状況を説明してやる。

しかし当の本人はそれを聞いているのかいないのか・・・―――その紫暗の瞳でじっとジェイドを見詰め・・・。

「ただいま、じぇいど」

そうしてふんわりと、まるで花が開くように笑みを浮かべる。

その滅多に見る事はない笑顔を前に、硬直し何も言えなくなったジェイドなど気付くそぶりもないままに、はまたもやいつもの彼女にはそぐわない爆弾を投下する。

「ずっと・・・あいたかった、じぇいど」

それはの、偽らざる本当の想い。

あの絶望的な・・・絶体絶命のあの場面で、が想ったのはジェイドの事。

グランコクマで別れたあれが最後にはしたくはなかった。―――もっともっと、ずっとジェイドと一緒にいたかった。

けれどもう一度こんな風にその姿が見られた事は、きっと奇跡に近いのかもしれない。

そう思うと、自分がどれほど幸運なのかをは察した。

その幸運さに珍しく表情を緩めるを前に、ジェイドは呆然と少女を見詰め返す。

まだ意識が朦朧としているからなのか、もつれた舌で繰り出される言葉は聞き取り難い事この上なかったが、それでもしっかりと理解できたその言葉に彼が何を言えただろう。

この状況でこれ以上ないほどの殺し文句を素で送られ、ジェイドはどう反応して良いのか解らず戸惑いを抱いたまま、脱力するふりをしてからは目の届かないベットの端へと顔を伏せた。

心臓が痛いほど早鐘を打つ。―――それと同時に顔が熱くなっていく事を自覚し、もう三十路も手前まで来たというのに十代半ばの小娘を相手にこれほどまでに振り回される自身を情けなく思った。

それでも際限なく湧き上がってくるこの幸せな気持ちは、一体なんだというのか。

「どうした、じぇいど?」

突然視界から消えたジェイドの姿に、まだ身動きが取れないは天井を見上げたまま不安げに呟く。

それに漸く顔を上げたジェイドは、再び彼の姿を視界に映し、またもや微笑んだを見詰め返して苦笑と共にため息を零す。

自分の中でいつの間に、彼女はこんなにも大きな存在になっていたのだろう。

自分の傍からいなくなってしまうと考えただけで、心の平穏すら失ってしまうほどに。

そうしてジェイドは不意に思った。

いつもいつも、自分はの事を守っているつもりで・・・保護しているつもりでいたけれど・・・―――しかしもしかすると守られていたのは自分の方だったのかもしれないと思う。

ジェイドだけを見詰め、彼を補佐し、そしていつも傍にいる。

たったそれだけの事がどれほど自身の心の均衡を保っていたのかを、今回の事件で嫌というほど思い知らされた気がした。

かつての・・・誰にも執着などせず生きていた頃のジェイドならば、こんな動揺など感じる事もなかったというのに。

まるでとてつもなく自分が弱くなってしまったようで・・・―――それでもが傍にいるだけでとてつもなく強くなれるような、そんな相反する気持ちを抱きながら。

それでも今再び、を拾ったあの場面に戻ったとしても、きっと何度でも同じ選択をするのだろうという自信はあるから、これはこれで悪くはないと、ジェイドは出会ってから初めて見る怪我を負った痛々しい姿のを見下ろす。

「早く元気になってください。貴女がいない間、ずいぶんと仕事が溜まってしまいましたから」

そう素直ではない言葉を掛ければ、はキョトンと目を丸くして・・・。

そうして、再びあの花が開いたような綺麗な笑みをジェイドへと贈った。

 

 

「ジェイドー、喉渇いたんだけど」

「・・・毎回毎回飽きもせず人の執務室に足を運んで、仕事もせずに遊んだ挙句、部屋の中を散らかすだけ散らかし帰って行く人に出すお茶は、生憎と用意がありませんので」

ソファーに行儀悪く寝そべって要求するピオニーに対し、ジェイドは視線を彼に向ける事無くピシャリと言い放つ。

それにピオニーが不満気に表情を歪めた事さえサラリと流し、ジェイドはこの部屋にはありえない不可解な音を耳にしながら、ゆっくりとした動作で眼鏡を押し上げ、冷たい色を映す眼差しでこの招かれざる客を見据えた。

「それとこれだけは言っておきます」

「なんだよ、改まって」

「今更貴方の一風変わった趣味をとやかく言うつもりはありませんが、どこが可愛いのか理解不能な貴方のペットを、この部屋に連れ込むのだけは遠慮してください」

そう言ってブヒブヒと鼻を鳴らす生物を視線で差し、その視線を扉へと移す事で彼の退室を促す。

しかし一般兵士にとっては冷や汗ものの無言の圧力に、自他共に認める図太い神経を持った彼が怯む筈もない。

ちょうど足元にいたブウサギの一匹を抱き上げて、まるでジェイドの言葉など聞く耳持たぬとでも言うように膝の上に乗せた。

「良いじゃねぇか。こんなに愛らしい奴らが傍にいれば、お前のささくれ立った神経も少しは癒されるんじゃねぇか?」

「寧ろ神経を逆なでされて、譜術で吹き飛ばしたい気分ですが・・・」

「お前、もうちょっと生活に余裕持った方がいいぞ。それに比べて俺の可愛い方のジェイドは素直で良いよなぁ・・・。俺の可愛い方のジェイドは」

「・・・・・・」

あからさまな嫌がらせの言葉に眉間に皺を寄せて、ジェイドはペンを持つ手に力を入れた。

ミシ・・・と嫌な音が聞こえたのは、どうか気のせいだと思いたい。

「・・・

本当に譜術をぶっ放したい心境に駆られつつも、動物相手にそんな大人気ない事を彼が出来ず筈もなく、代わりに感情を押し殺した声色で黙々と仕事を続ける部下へと声を掛けた。

「・・・私の事?」

「貴女以外に誰がいるんですか。私は『』と、貴女の名前を呼んだ筈ですが?」

「でも、は私だけじゃない。・・・そこにも、はいるよ」

そう言って指された先には、窓から差し込む日差しを浴びながら呑気に昼寝をするブウサギが一匹。

ややこしい事この上ないと痛みを訴え出したこめかみを指で押さえながら、貴女の方ですよと念押しをしてざっと室内を見渡した。

「この無駄に元気の有り余った動物たちを、ストレス発散の為に散歩をさせてきてください。なんならそのまま調理場に連れて行っても、私としては一向に構いませんが」

すぐさま上がるピオニーの非難の声すらも流してそう告げると、はコクリと一つ頷いて静かに席を立った。

生憎と彼女がブウサギたちを調理場に連れて行く事はないが、やけにブウサギたちに懐かれている彼女は、きっと見事彼らのストレスを発散させるどころか一緒になって戯れてくるに違いない。

「それじゃ行って来ます、ジェイド」

「行ってらっしゃい。―――ああ、念の為言っておきますが、いくら知っている相手からの誘いでも、ほいほい付いて行ってはいけませんよ」

「解った」

素直に頷くを見てほんの少し不安を抱くも、それ以上言うのも躊躇われてジェイドはブウサギたちを従えて部屋を出て行くの姿を見送る。

「おいおい、ももう子供じぇねぇんだから・・・」

「子供じゃないから心配なんでしょう?」

投げ掛けられた言葉に反射的に答えてしまい、ハッと我に返ったジェイドが顔を上げれば、そこにはニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべるピオニーが。

その心底楽しんでいる顔を見ているだけで腹立たしい。―――しかし何を言い返しても意味のない押し問答が続いた末、どうあっても最終的に自分は彼に言い負かされてしまう確立が高い為、ジェイドは悔し紛れに強引に視線を窓の方へと移した。

蒼い空、白い雲、極めつけにつがいで飛んで行く鳥の姿。

四角く切り取られた平和そのものの光景に、ジェイドは薄く目を細める。

以前と全く変わりない日常の中で、けれどその日常すら失われてしまうかもしれないと恐怖したあの日々を、きっと彼は忘れないだろう。

だからこそ、この何でもない日々が、何よりも愛しく感じるのかもしれない。

けれど恐怖は完全に去ったわけではない事も、残念ながら思い知らされてしまったから。

だから、いつかは必ず訪れるだろう終焉に。

そのすべてを、歪まず、ありのままに受け止められる自分であれば良い、と。

そう思わずにはいられない。

けれど本当は。

「ジェイドー、喉乾いたんだが」

ピオニーの呑気な声に思考を遮られて、ジェイドは深いため息を一つ。

皇帝の要求を跳ね除ける事を漸く諦めたジェイドは、面倒臭そうに席を立った。

「まったく。お茶くらい自分で淹れられないんですか?」

「何言ってんだ。人に淹れてもらうからこそ美味いんだろうが」

「・・・・・・これ飲んだら帰ってくださいね」

「考慮しよう」

いつも心の底で危惧するような、そんな哀しい終焉が訪れない事を切に祈って。

 

そうして彼らは今日もまた、他愛無くも愛しき日常を過ごす。

愛しき者たちの集う、この場所で。

 

 

◆どうでもいい戯言◆

毎度の事なのですが、書き終わった後に(もしくは書いてる途中に)「自分は一体何が書きたかったんだろう?」と我に返ってしまった後というのは非常に痛いですよね。(聞くな)

当初の目的では主人公の『守護者』と呼ばれるようになった経緯と、ジェイドが主人公をどれだけ大切に思ってるか・・・みたいな事を書こうと思っていたのですが。

果たして成功しているのでしょうか?(読み返してみると期待できませんが)

作成日 2006.7.10

更新日 2009.1.21

 

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