水の音が聞こえる。

柔らかい太陽の光と、優しい風が身体をそっと包み込む。

それはいつもと変わらない、日常風景だった。

橋の手すりに座り込み、ぼんやりと流れ落ちる滝を眺める。―――まるで何事もなかったかのような穏やかな空気に、あの短くも目まぐるしかった日々が嘘のようにさえ思えた。

ただし、それを取り戻すには、たくさんの・・・そして大きな犠牲もあったのだけれど。

すべての事後処理に追われて。

気が付けば、あの事件から一ヶ月が過ぎていた。

 

君に

 

「いー天気だよなぁ・・・」

自室のソファーにドカリと座り込み、部屋の中を駆け回るブウサギたちの姿を眺めながら、この国の最高権力者は暢気な声色でそう呟いた。

かつては7匹居たブウサギも、今ではもう6匹しかいない。

自分が去るのと共に、彼は自分の名を持つブウサギも共に連れて行ってしまった。

彼が確かにそこに居たという痕跡が、またひとつ消えていく。

それは生きていく上では仕方のない事なのかもしれないけれど、それを寂しく思うのもまた仕方のない事だった。

「こんな日は、どっかでのんびりとしたいよな〜・・・」

「なに馬鹿な事を言っているんですか。それでなくともこの間の事件の事後処理のせいで政務が滞っているんです。陛下にはきっちりと働いてもらいますよ」

まったくやる気を見せないピオニーに、いつの間にそこにいたのか・・・呆れ交じりのジェイドの声が届き、彼は更にうんざりとした表情を浮かべる。

ここ一ヶ月ほど、ピオニーは休む暇もなく仕事に追われてきた。

ここらで少しくらい休んでも罰は当たらないのではないかとも思うが、どうやらそれは優秀な部下兼幼馴染には通用しないらしい。―――そういうジェイドもまた、寝る間もないほど多忙を極めていたのだけれど。

「ちょっとくらい休ませろよ。倒れたらどうすんだ、倒れたら」

「そうなれば私が誠心誠意をこめて看病してあげますよ。ああ、心配しないでください。医者の免許も持っていますから。―――・・・死体専門ですが」

「絶対嫌だ」

飄々と笑みを浮かべてそういうジェイドに、更に表情を歪めたピオニーは、仕方がないとばかりに身を起こし、差し出された書類を渋々ながらに受け取る。

そうして書類に視線を落としたまま、彼を監視するかのごとく書類が返却されるのを待っているジェイドに向かい、先ほどとは違う落ち着いた声色で問いかけた。

「・・・は?」

「・・・さあ?」

「さあ?って、お前な・・・」

あっさりと返ってきた返事とも言えない返事に、目を通していた書類から顔を上げて、ピオニーはあからさまに眉を寄せる。

そんな上司を上から見下ろして、ジェイドはわざとらしくため息を吐き出した。

「どうせいつもの場所でしょう。事件の事後処理は粗方済みましたから」

「・・・様子はどうだ?」

「沈んでいますよ、貴方の予想通りにね」

至極あっさりとそう告げて、ジェイドはここ最近のの様子を思い返す。

ここで気休めを言っても仕方がない。―――あれだけの事があったのだ、何事もなく平然としていると言った方が可笑しいだろう。

それだけ衝撃的だったのだ。

それはマルクト軍にとっても、彼をよく知る街の人々にとっても。

そして、にとっても。

「事が事でしたからね。戦場に立ち、多くの命が消えていくのを目の当たりにしていても、近しい人の死は彼女にとっては初めての事でしたから」

「・・・そうだな」

「それにあんな追い討ちがあっては・・・」

言葉を濁すジェイドに、ピオニーもまた書類の影で眉を潜める。

の行動により、その意図が私怨であれ、一般人を巻き込んだ盗賊騒動は収まった。

そして、ずっと軍に蔓延っていた、大きな問題も。

長期間に渡って続けられてきた、軍部情報の漏洩。

ジェイドが命じられたその任務もまた、彼の行動で片がついた。

軍を離反したが、何故あの時グランコクマに戻ったのか・・・―――そのすべてが、彼の死後明らかになったのだ。

 

 

一体、どれほどの時が流れたのだろう。

誰も動く事が出来ず、また声さえ発することが出来ない静寂の空間で、一番最初に動いたのは、もう動く事のないの手をずっと握っていただった。

「・・・行かなきゃ」

唐突に顔を上げそう呟いたは、それでも名残惜しそうにの手を離すと、ぼんやりとした表情のままふらりと立ち上がり、どこかへ向かい走り出す。

その突然の行動にハッと我に返ったジェイドは、すぐ傍に居た兵士にを任せ、先を行くを追いかけた。

!待ちなさい!」

ジェイドの制止の声にも、は足を止めようとはしない。

その何かに取り付かれたかのような様子に少しの不安を感じながらも、ジェイドはその身長差を生かして何とかに追いつきその手を取った。

「どうしたのですか、!一体何が・・・!?」

「ジェイド、私・・・」

荒い息を繰り返しながら、悲しげな表情で自分を見上げるに、ジェイドは更に眉間に皴を寄せた。

「・・・どうしたのですか?」

明らかに何かに戸惑って・・・そして焦っているを前に、ジェイドは何とか落ち着かせようと、意識して冷静に問いかける。

するともその声に少し落ち着きを取り戻したのか、大きく息を吐き出して、じっとジェイドの赤い瞳を見つめ返し口を開いた。

「私、ここに来る前に会った。それから・・・全部、聞いた」

「会った?誰に会ったのですか?それに、一体何を聞いたと・・・」

「盗賊に、会った」

言葉少ななの説明に、ジェイドは目を僅かに細める。

「昔、私たちが捕まえた盗賊。の手を借りて脱獄した人。あの人に会った」

言われて不意に思い出す。

任務に出た森の中で、自分たちが捕らえた盗賊の男。

捕まった後でさえもその態度を崩す事なく、楽しげに自分をからかった男。

自分の下へ届けられた報告から、もうすでにこの世には居ないと思っていたのだけれど。

「・・・その男は?」

そう問い掛けられ、はフルフルと首を横に振る。

「私が会った時は、もう虫の息だった」

「・・・そうですか」

その男がどうやっての手を逃れたのかは解らない。―――ただ彼が望んだように、その男もまた、もうこの世にはいない。

「それで?その男に会って何を聞いたのですか?今貴女が慌てている事と、何か関係があるのでしょう?」

僅かな感傷を振り払って改めてそう問い掛けると、はコクリと小さく頷く。

「私、聞いた。の家族が襲われた事件の事。それから・・・その時も、今も、自分の後ろに居たのが誰なのか」

そうして、は盗賊から聞いた過去を話し始める。

それは温かくも悲しい出来事。

1人の男と1人の少年が辿った、その道と末路の話。

 

 

ある、軍人がいた。

熱意に溢れた将来有望なその軍人は、ある任務で1人の少年を助ける事になる。

それがすべての始まりだった。

助けられた少年は、しかしこの荒れた世を真っ当と生きていけるはずもなく、日々の糧を得るために、いつしか盗賊へと身をやつして行く。

一方、彼を助けた軍人も、順風満帆な人生だとは言えなかったらしい。

否、他人から見ればそれは順風満帆だったのだろう。―――ただ、彼自身がそれを認めてはいなかった。

ある、青年がいた。

その青年は譜術士としての才も長けており、また軍略にも長けていた。

彼もまためきめきと頭角を現し、驚くほどのスピードで昇進を遂げていった。―――ただし、その昇進は彼の実力だけで成されたものではなかったのだけれど。

軍人は青年に嫉妬する。

自分よりも遅くに軍に入ったその青年が、実力だけではなく家柄をも使って出世していく事に。

彼さえいなければ。

自分に、その家柄があったのなら・・・。

そんな折、軍人は成長したかつての少年と再会する。

どうやってか、盗賊の中でも名を上げられるほど有名になったその少年は、嫉妬し、青年を憎む軍人と再会し、そうしてかつての恩を返す為にある提案をした。

「どうしても欲しいなら奪えばいい。俺はそうやって今の自分を手に入れた。―――なんなら俺が手を貸してやるぜ?」

まるで、悪魔の囁きのようだと軍人は思った。

法の秩序を守るため、それは決して許されない事だ。

そう切り捨て、彼を捕らえる事も出来た。

けれど・・・。

「軍人はその話に乗ってしまったのですね・・・?」

ジェイドの問いに、はコクリと頷く。

けれど軍人は解っていなかった。―――その決断が、どれほど残酷なものなのかを。

彼がそれを知ったのは、青年の屋敷が盗賊に襲われた後。

燃える屋敷。

入り乱れる足音。

残ったのは、瓦礫と灰のみだった。

そして軍人は気づいたのだ。

自分が一体何をしたのか。―――それがどれほど取り返しの付かない事だったのかを。

けれどすべてはもう遅かった。

零れたミルクはもう戻らない。

軍人は自分がした事に恐怖を感じながらも、それを隠蔽し続けるしかなかった。

そんな彼の前に再び現れたのだ。―――かつて命を助け、そうして彼の望みを叶えた、盗賊となったあの少年が。

もともとそれが目的だったのか、それともその事件を経て味をしめたのか、恐怖と後悔に苛まれる軍人に、少年はひとつの取引を持ちかけた。

それは取引というよりも、半ば脅しと言った方が正確なのかもしれない。

活動の為に軍内部の情報を欲していた盗賊は、その提供を軍人に告げた。

本音を言うならば拒否したかっただろう。

しかし軍人がそうする事が出来ない事を、盗賊は十分に理解していたのだ。

「そして軍人は軍内部の情報を盗賊に流した」

再び掛けられたジェイドの問いに、もまた無言で頷き返す。

自分がした事をバラされないように・・・。

けれど被害を最小限に抑えるように・・・、加えて少なからず盗賊の動きを抑えるべく軍人は細心の注意を払った。

それに気づいていた盗賊も、それ以上要求を突き付ける事はしなかった。―――これ以上彼を追い詰めて、逆に手を噛まれては元も子もない。

それに・・・彼には軍人に対する恩もあった。

けれどそんなアンバランスな関係は、ある事件を経て一変する事になる。

「だから私たちが彼を捕まえた時、軍人は恐怖を抱いた。取調べを受けた盗賊が、その事を話してしまうんじゃないかって。―――だけどきっと、それと同じくらいホッとしたんだと思う」

淡々と語りながら、は迷う事無く足を進める。

彼女がどこへ向かっているのか、ジェイドには解らない。―――ただ話を聞きながら、彼女が導く場所へと向かうだけだ。

「けれど盗賊は話さなかった。あの事件の事も、それを願った軍人の事も」

「利用はしても、裏切りはしない。それが唯一の恩を返す手段であり、また契約を結んだ相手に対する礼儀だって・・・そう言ってた」

盗賊の言葉を思い出し、は思う。

それが彼のプライドだったのだろう。

「あの人、言ってた。―――『結局、俺もあの人も、そんな風にしか生きられなかったんだよ』って」

ピタリと歩みを止めたは、すぐ傍にある大きな扉を見上げて言った。

嫉妬したり、妬んだり・・・、そういうのは、きっと誰もが持つ感情なのだろう。

けれど人はそれを自分の中で昇華して、そうして懸命に前に進んでいる。

ただ、軍人にはそれが出来なかったのだ。―――目の前の甘い囁きに、抗えなかった。

そうして盗賊もまた、それ以外に恩を返す方法を見つけられなかった。

無言で佇むを見つめ、そうして視線を閉じられたままの扉へと向ける。

ここが誰の部屋なのか、それは軍関係者であるジェイドにはもう解っている。

そうして理解した。―――の語った、軍人というのが誰なのかを。

無言で立ち尽くしたままのをそのままに、ジェイドはゆっくりとドアノブに手を伸ばす。

この向こうに何が待っているのか。―――それはなんとなく・・・軍人として培った経験と勘が教えてくれる気がした。

「・・・失礼します」

短く声を掛けて、ジェイドはゆっくりと扉を開く。

返事は返ってこない。

それは、彼の中の勘を確信に変えるに十分過ぎるほどだった。

大きな窓から惜しみなく差し込む太陽の光。

光に満ち溢れ、真っ白に染められたその部屋の中心に、1人の男。

「・・・バレル将軍」

戸口に立ち、部屋に入ってこようとしないの声が、悼むようにその名を呼ぶ。

「彼は復讐を終えた・・・と言う事ですか」

床に倒れ伏せ、もうピクリとも動かないバレル将軍の身体を見下ろして、ジェイドは感情の篭らない声色で小さく呟く。

の復讐は終わった。

意図せずとも彼の一族と、そうして彼の最愛の人を奪った根源を葬り去り、そうして漸く彼の長い悪夢は終わりを告げたのだろう。

かつての過ちの罰を受け、その命を奪われたバレル将軍は。

それでも穏やかな表情をしているように、2人にはそう見えた。

 

 

結局、すべては内輪揉めから始まった事だった。

それが複雑に絡み合い、こんな形で国をも巻き込む事件と発展していく事など、その当時の彼らは思ってもいなかっただろう。

ただ、執務室で既に事切れていたバレル将軍に、まったく抵抗した様子がない事を見れば、彼の後悔がどれほどのものかを察することが出来る。―――もちろん、それで彼の罪が消えるわけではなかったけれど。

「陛下。・・・書類を」

「あ?ああ」

促され、事件の真相を思い出ししんみりとしていたピオニーは、もう既に目を通し終えている報告書をジェイドへと手渡した。

普段からおちゃらけてはいるが、基本的に仕事は早いのだ。

「ありがとうございます。―――それでは、私はこれで」

「あ、おい!ジェイド!」

「・・・何か?」

差し出された書類を受け取り、そのまま部屋を出て行こうとするジェイドに、ピオニーは慌てて声を掛ける。

それに律儀に振り返ったジェイドを見つめて、ピオニーは意味を成さない声を漏らして困ったように視線を泳がせた。

もちろん、何の用もなく呼び止めたわけではない。

しかし、簡単に口に出せてしまうほど、それは簡単な問題ではない事も彼はよく知っていた。

今回の事で、頭が痛くなる問題や考えさせられる問題は多い。

しかしその中でピオニーにとって一番の気がかりは、やはりの事だった。

今回の事件で、彼女が受けた心の傷は軽いものではないだろう。

ただそれは本人がどうにかしなければならないのだ。―――いくら周りが慰めても、の心がそれで癒されるとは思えない。

そんな人物ではない事も、長い付き合いのピオニーはよく知っていた。

一向に話を切り出さないピオニーを見つめて、ジェイドは小さく息をつく。

彼が言いたい事がなんなのかも、また長い付き合いのジェイドに察せられない筈がなかった。

「まだきちんと昇華出来ていないのでしょう。―――あれから、彼女は一度も涙を流していませんから」

言い淀むピオニーに背を向けて、ジェイドは淡々とした口調でそう告げる。

あの事件から、黙々と、いつもと変わらない様子で仕事をする

勿論彼女が冷たいわけではない。

おそらくはまだ実感できないのだろう。―――もう、がこの世にはいないという事を。

本当に厄介な娘だと、そう思う。

けれど、そうは思っていても放っておけない自分はもっと厄介だとも。

「本当に・・・あの人は厄介事ばかりを残して逝くのですから・・・」

やれやれと肩を竦めて部屋を出て行くジェイドを見送り、ピオニーは無言で窓越しに晴れ渡った空を見上げる。

きっと、どれほど苦しくても、は大丈夫だろうとそう思う。

彼女が一番心を許すジェイドがいるのだ。―――大丈夫でない筈がない。

「・・・お前もそう思うだろ?・・・

まるであの日と同じような泣きたいほど綺麗な空に、ピオニーは小さく笑みを浮かべた。

 

 

ここから、橋の手すりに座って滝を眺めるを見るのが好きなのだと、は言っていた。

木々に隠れ、人の目からは死角になった場所にあるベンチに座って、かつて彼が言っていたその風景を見るフリングスは、ぼんやりと昔聞いた言葉を思い出す。

そんなところで見ていないで、話しかけたら良いじゃないですか。―――そう言ったフリングスに、こうやって見るのが良いんだよと口角を上げて笑う彼の表情が、今でも鮮明に思い出せる。

風に乗って、僅かに聞こえてくる旋律。

初めて聞くの唄声は、澄んでいてとても心地良い。

その唄声を耳にしながら、あの時は解らなかった彼の言葉の意味が、今のフリングスには解ったような気がした。

あそこに座って滝を眺めているの世界は独特で、まるで一枚の絵のような光景はそのままで置いておきたいと思う。

彼女の周りを漂う空気は清浄で、容易に踏み込むのは躊躇われた。

だからこそ、はここからを見ていたのだろう。―――彼女がを認識する、そのずっと前から。

表情こそ変わらないものの、いつも彼女が瞳を輝かせているのがずっと見ている人間には確かに解る。

その純粋さは、まるで幼い子供のようで。

けれど何故だろうか。

今のの瞳に、かつて見た輝きが見えないのは。

風に乗って聞こえてくる唄声が、物悲しく聞こえてくるのは・・・。

「・・・そんな事は問うまでもないか」

小さく独りごちて、フリングスは座っていたベンチから立ち上がる。

今の彼がこの場所にいるのは、ただの姿を遠くから見ている為ではないのだから。

「こんにちは、

ゆっくりと足音を立てないように歩み寄り、自分に背中を向けているにそう声を掛ける。

するとはピタリと唄うのをやめ、驚いた様子もなくゆっくりと振り返った。

もしかすると、彼が近づいて来ているのを、彼女は知っていたのかもしれない。

「こんにちは、アスラン」

いつもと変わらない挨拶を交わして、フリングスはの隣に並び、口を閉ざしたまま先ほどのと同じように滝を眺める。

忙しい日々を過ごす内に目を向ける事など滅多になかったが、確かにが言うようにこの景色は美しいとそう思えた。

「アスラン、怪我は・・・?」

「ああ、もう大丈夫。―――元々そんなに深い傷じゃなかったしね」

沈黙を破るように話しかけてきたにやんわりと微笑み、フリングスはなんでもないようにそう返す。

確かにとの戦闘で怪我は負ったけれど、そのどれもが見た目ほど酷いものではなかった。―――無意識にか意識してか、彼の実力を考えては力を加減したのかもしれない。

そうでなければ、かつて中級譜術で平原を吹き飛ばしたという彼女の譜術を受けて、五体満足でいられるはずがない。

フリングスの言葉に安心したのか、はコクリと頷き再び滝へと視線を向ける。

そうしてまた訪れる沈黙。

どちらかといえば無口の部類に入るを相手に会話をするのなら、自分から話題を振らなければどうしようもない。―――どれほどくだらない話だろうと、は話しかければ必ず何かしら返事を返してくれるのだから。

それが解っていても気軽に話しかけられないのは、自分に負い目があるからだろうか。

「・・・さっき」

「・・・・・・?」

「何を唄ってたの?なんだか・・・聞き覚えがある曲みたいだったけど」

沈黙に耐え切れずそう口火を切れば、は小さく首を傾げてフリングスを見つめる。

「子守唄」

「・・・子守唄?」

「アスランも、誰かに唄ってもらった事があるの?」

問われて、フリングスは記憶を手繰り寄せながらひとつ頷く。

それほど鮮明に覚えているわけではなかったけれど、聞き覚えがあるという事はそうなんだろう。―――きっと、子守唄などほとんどの子供が唄ってもらった記憶があるはずだ。

それは彼にとっては当たり前すぎて・・・だから返事を返すまで、おそらくはにそんな経験がないだろう事にすぐに気付く事が出来なかった。

「・・・どうして子守唄を唄ってたの?」

しかし何故このタイミングで子守唄を唄っていたのかは解らない。―――そう思って問いかけてみても、いつもなにがしら返事を返してくれるは黙り込んだまま。

「別に答えにくいなら無理に答えなくても構わないよ」

「・・・・・・だから」

気に病む事がないようにと明るい声色でそう言ったフリングスに、が何かを呟く。

その言葉のすべては聞き取れなかったけれど、あえて問い返す事はしなかった。

そんな事をする必要などないと思った。―――何故ならば、の表情がどこか翳って見えたからだ。

そのまま再び滝へと視線を戻したに習って、フリングスも滝へと視線を移す。

肝心な事は何一つ切り出せないまま、時間だけがゆるりと流れていった。

そうしてどれほどの時間が経ったのだろう。

それが決して短い時間ではないという事に気付いたのは、ここに来る前にピオニーの私室に向かったのを見たジェイドが、ぼんやりと滝を眺める2人の傍へと来た時だった。

「おや、フリングス少佐。こんなところで何を?」

「・・・カーティス大佐」

「あなたは今謹慎中の筈でしょう?いくら恩情があったとはいえ、こうもあっさりと出歩かれていては困ります」

ジェイドの冷たさを含んだ声色に、フリングスは僅かに表情を曇らせた。

今回の事件の当事者としては異例とも思えるほど、フリングスの処分は軽いものだった。

降格・減俸に、3ヶ月の謹慎。

本来ならば刑務所に入れられて然るべきフリングスの処分がこの程度で済んだのは、の前以ての根回しと、皇帝であるピオニーの恩情のおかげだ。

だからこそ勝手な行動は慎まなければならない。―――そうでなければ、自分を庇ってくれたピオニーに多大な迷惑をかける事になる。

それが解っていながらも、フリングスは自宅でじっとしていられなかった。

自分が尊敬した上司が最後まで気にかけていた、義理の娘がどうしているのか。

あんな結末を目の前にしてしまった彼女が、深く傷ついてはいないか。

出来る事なら何か言葉をかけてやりたいとそう思った。―――結局は、何の言葉もかけてはやれなかったけれど。

それでも、もう大丈夫なのかもしれないとフリングスはそう思う。

かつての輝きを失ってしまった瞳に、おそらく目の前のこの男はきっと輝きを取り戻させる事ができるのだろうから。

「申し訳ありませんでした、カーティス大佐。すぐ・・・戻ります」

「そうしてください」

依然と微笑みを絶やさないままそう言い放つジェイドに会釈をし、フリングスは踵を返して歩き出す。

しかしふと何かを思い出したのか、ピタリと足を止めると首だけで振り返り、じっとこちらを見つめるに微笑みかけた。

。君に言いたい事があったんだ」

「・・・言いたい、事」

「あの人の最後を、人づてにだけど聞いたよ。―――中将の心を救ってくれてありがとう」

フリングスの言葉に、は大きく目を見張る。

それに再び微笑みかけて、フリングスは今度こそこの場を去るべく身を翻す。

自分の願い通り、はきっとの心を救った。

彼の最後の表情は、とても穏やかなものだったから。

それを確かめる手段はもうないけれど、そう思える方がずっといい。

結局自分は、彼を止める事も、そして彼を慰める事もできなかった。

今もそう・・・。―――自分は、の心を軽くしてやる事すら出来ない。

それでもはいつもと同じように、あの人の悪い笑みを浮かべながら、助かったと言ってくれるのだろう。

そしてもまた、立ち直ってくれるに違いない。

自分のした事が正しい事だったとは思わないけれど、今でも自分の行動に後悔はひとつもない。

そうして再びやり直すチャンスが与えられたのなら、過去を思い悩むよりも今は前を向いて歩いて行く方がずっと良いはずだ。

あの事件から一ヶ月。

漸く、そう思えるようになった。

「・・・ありがとう」

誰に向けてなのか、小さくそう呟いて、フリングスは口元に小さく笑みを浮かべた。

 

 

「こんなところで何をしていたのですか、?」

フリングスが去った後、再び滝へと視線を戻したを見やり、ジェイドは常と変わらない声色でそう声をかける。

しかしは振り返る事もせず、ただぼんやりと滝を見つめたまま口を開いた。

「・・・子守唄、唄ってた」

簡潔に伝えられた言葉に、ジェイドはそうですかと軽く相槌を打つ。

彼女の唄声は、この場所に向かっていたジェイドの耳にも届いていた。

初めて聞くの唄声。

それは選曲のせいなのか、はたまた彼女の精神状態のせいなのか、ひどく悲しげに聞こえたけれど。

「・・・ジェイド」

ぼんやりと先ほどの唄声を思い出していたジェイドは、唐突に名を呼ばれ、視線をへと向けた。

「ジェイドの子守唄、が聞きたいって言ってた」

「そうですか。・・・まぁ、どうせ笑いの種にでもするつもりだったのでしょうが」

彼ならばきっと、間違いなくそうするつもりだったに違いない。

それだけは断固として遠慮したいが、そんな出来事すらもう無いのだと思うと、複雑な思いも浮かんでくる。

も、唄ってくれるって言ってた」

「そうですか」

「でも、もう聞けない」

「・・・そうですね」

抑揚のない声でそう告げるに、ジェイドはただ相槌を返した。

そんなジェイドの気のない相槌を聞きながら、ぼんやりと滝を見つめるはふと思う。

ここから見える景色は、いつもと何も変わらないのに。

流れ落ちる水も、跳ねる水しぶきも、太陽の光にキラキラと照らされて、とても綺麗なはずなのに。

なのにどうしてだろう。―――そのすべてが、今は色褪せて見えてしまうのは。

フリングスは言った。

の心を救ってくれてありがとう、と。

けれど本当にそうだろうか?―――自分は果たして本当に、彼の心を軽く出来たのだろうか。

自分の我を通してここまで来たけれど、それは本当に正しい事だったのだろうか。

解らない。

それを確認する術はもうない。

けれどは何度同じ選択を迫られたとしても、同じ答えを選ぶのだろう。

そしてきっとそう尋ねれば、は笑って頷くのだろう。

その想像だけはまるで今目の前にあるかのようにはっきりと思い浮かべられる。

それが嬉しく、そして悲しかった。

「帰りましょう。―――貴女、最近ほとんど寝ていないのでしょう?仕方がないので、今回だけは特別に唄ってあげますから」

「・・・ジェイド?」

思っても見ない言葉にが顔を上げると、ジェイドは小さく微笑みを浮かべながらの頭を軽く撫でた。

その手があまりに優しくて・・・―――その表情が、あまりにも温かかったから。

だからは、込み上げるそれを堪える事が出来なかった。

ふわりと包み込まれるように、周りのすべてから守るように抱え込まれ、彼の傍でよく目にしていた青の軍服を視界一杯に納めながら、はゆっくりと瞳を閉じる。

ひとつ、ふたつと零れ落ちる雫は、音もなく柔らかな青に吸い込まれていく。

人の命なんて、なくなってしまう時は本当に突然で。

昨日までそこにあった温もりが、今日は感じられない可能性があるのだという事をは知った。

軍人なんてやっていれば、その確立はもっともっと高くなるだろう。

だからこそ、この温かさが今そばにある事に、深く感謝した。

はその身をもって、大切な事を教えてくれた。

今もまだ、は彼が自分を生まれるはずだった子供と重ねて見ていたのか、それとも亡くなった妻の面影を見ていたのかは解らない。

だから最後のあの時、彼を父と呼んだ事が正しかったのかも。

けれど・・・。

ありがとう、と。

お礼を言うのは、むしろ自分の方だとは思う。

いつも傍に居てくれてありがとう。

悩んだ時には背中を押し、落ち込んだ時は慰めてくれてありがとう、と。

そして貴方と出逢えた事に、心からの感謝を。

抑えきれない嗚咽を漏らしながら、はジェイドの軍服を強く握り締め、掠れる声で旋律を紡ぐ。

ただ、彼が穏やかな眠りにつけるようにと、そう願いながら。

 

 

優しい旋律が、風に乗って空へと舞い上がる。

今はここにいない君へ。

たくさんのものを与え、そうして奪っていった愚かな愛し子よ。

すべての悪夢から解き放たれ、安らかな眠りにつけるように。

この優しく、切ない旋律を。

君に、捧ぐ。

 

 

◆どうでもいい戯言◆

と、いう事で。

愚か者に捧げる唄、これにて完結でございます。

いろいろ考えていた事のすべてが書き切れたかというとこれまた微妙なところですが。

そして自分の文才がないばかりに、やはり悔いが残る部分も多々ありますが、今の自分にはこれで精一杯です。

最初の犯人(?)が誰なのかという下り(ピオニーがジェイドに命じるあたり)は、本当はその辺りもぼかそうかとも思っていたのですが、そうすると尋常じゃないくらい話が長くなりそうだったので、苦肉の策として最初から彼の存在を匂わせました。

とまぁ、話し出すときりが無いくらいそんな話ばっかり出てきそうですが、とりあえず最後まで書ききれた事に安堵していたりもします。(何せいまだに完結の目処が立ってない連載ばっかりなもので)。

ともかくも、最後までお付き合いありがとうございました。

作成日 2007.2.17

更新日 2012.2.12

 

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