それは目には見えないモノ。

重さも形もないというのに、けれど確かに存在する。

それを形にするとすれば、一体どんな物になるのだろう?

 

せよ乙女

 

「・・・うっ」

レストランに入った瞬間、鼻を突く甘い匂いにフリックは小さなうめき声を上げた。

フリックの隣にいたも声こそ上げはしなかったが、やはり同じように微かに眉間に皺を寄せて辺りを見回す。

それが目に見えるわけでもないというのに・・・―――そういう点では、も表情にはあまり出さないとはいえ、少し動揺しているのだろう。

昼下がり。―――溜まっていた仕事を終えたとフリックは、少し休憩しようとレストランを訪れた。

の側には大抵いるビクトールの姿は見えない。

どこに行ったのかはの知るところではないが、朝から姿が見えないのである。

そんなビクトールがいないからなのか、この2人が食事でもないのにレストランに姿を現すのは至極珍しい事だった。―――ビクトールがいれば、酒を呑む呑まないに関わらず酒場に連行されるからだ。

「・・・一体、何事?」

明らかな異変を察して、は訝しげに視線を巡らせた。―――怪しいモノは特に見当たらない。

では一体、この人をも昏倒させる事が出来そうな『甘い匂い』はなんなのだろう?

今日のレストランは、いつもの賑わいに反して妙に客が少ない。

その原因がこの甘い匂いにあるだろう事は容易に想像がつく。

とフリックは無言のまま視線を合わせて、1つ頷くとサッと素早く踵を返した。

いくら昼間から酒場に入り浸るのが不本意とはいえ、この甘い匂いの充満するレストランにいるよりは断然マシだろう。

なんなら2人の内のどちらかの部屋でお茶をしても構わない。―――気分転換にはならないだろうが、それもここにいるよりはマシだと思える。

しかしそんな思いも、背後から掛けられた明るい声に阻まれた。

「いらっしゃいませ〜!!」

甘ったるい空気を振り切るように歩き出した2人は、ウェイトレスの明るい声に思わず振り返った。―――目に映ったのは、この甘い匂いの中でも平然と仕事を続ける爽やかな笑顔を浮かべる少女。

一日3回、ここで食事をする度に顔を合わせている馴染みの顔。

「お席は空いてますよ?」

入り口で固まっているとフリックに気付いた様子もなく、悪気の無い無邪気な笑顔を惜しみなく晒した少女は、レストランの中を指さす。

残念ながら2人は、この無邪気な誘いを断る冷酷さを持ち合わせていなかった。

結果・・・促されるままに席につき、2人はにこにこと微笑む少女に飲物を注文することになる。

しばらくして運ばれてきた紅茶に、2人は当然ながら砂糖もミルクも入れずにそれを口にした。―――すっきりとした口当たりとは反対に、胸の中は気持ち悪いほど焼けている。

「ねぇ。ちょっと聞きたいんだけど・・・」

「はい、なんでしょう?」

仕事に戻ろうとする少女を引き止めて、は出来る限りの笑みを浮かべて不思議そうな顔で振り返った少女に問いかけた。

「この匂いは・・・?」

一体なんなのかという言葉さえ続かない。

ここに入った時よりは幾分匂いに対する抵抗はついている。―――既に嗅覚がおかしくなってきているという事実に、感謝すればよいのか悲しめばよいのかには判断しかねた。

そんなの問いに、少女は「ああ!」と至極楽しそうに表情を緩める。

「皆さんが明日の準備の為に、厨房を使ってるんですよ」

「明日の準備?」

「はい。明日はバレンタインデーですから」

訝しげに聞き返したフリックに、少女は楽しそうに笑う。

少女の返答に、とフリックはお互いの顔を見合わせた。

「ああ、なるほど」

「そういえば、そんな時期だったな・・・」

答えを聞けば妙に納得の出来る結果だった。―――今レストランの厨房では、本拠地に住む少女たちが、明日愛しい人に渡すためのチョコ作りに励んでいるのだろう。

「バレンタインか・・・」

想いを寄せる相手に、チョコレートを渡して自分の気持ちを伝える。

恋する乙女にとっては、他のどんな記念日よりも重要な日なのだろう。

「みんな大変だねぇ・・・」

そうしみじみと呟くの表情には、他の少女たちのような感情は見えない。―――どこか他人事のような口調に、フリックは思わず苦笑した。

「何・・・?」

「・・・・・・いや」

そんなフリックに訝しげな表情を向けただったが、あっさりと言葉を濁されて軽く肩を竦める。

そんなを見てますます笑みを零すフリックは、が不審そうな視線を向けているのに気付いて、コホンと咳払いをしてから聞いてみた。

「お前は参加しないのか?お前だって女の子だろう?」

『一応は』と言いそうになって思わず言葉を飲み込む。―――そんな事を言った日には、どんな報復が待っているかわからない。

フリックの言葉に、が微かに苦笑して言葉を紡ごうと口を開いたその時。

「何言ってんだ。にゃ関係ねぇ行事だろ?」

乱暴に頭の上に乗せられた手と共に、そんな太い声が頭上から降ってきた。

一体どこから現れた。―――と突っ込みを入れたくなるほどのタイミングで現れたビクトールに、は絶対零度の笑みを向ける。

「・・・・・・それは私に喧嘩を売ってるのかな?」

確かににとっては、あまり重要性の無い行事ではある。

今までその行事に参加した事もなければ、参加したいと切に思った事も無いけれど。

当たり前のようにそう言われれば、腹が立たないわけでもなかった。

「いや、別にそんなつもりは・・・・・・」

の笑顔を直視してしまったビクトールは、あらぬ方向に視線を泳がせながらしどろもどろに呟く。

それを冷ややかな目で見ていたは、途端に何かを企むような笑みを浮かべて。

「まぁ、確かにビクトールの言う事にも一理あるかな」

「・・・・・・は?」

先ほどとは打って変わって肯定の意を示したに、ビクトールとフリックは間の抜けた表情でお互い顔を見合わせた。

「私って女の子らしくないし、そういう行事って似合わないよね」

そうポツリと呟き、どこか寂しそうな笑みを浮かべるにビクトールは焦る。

何故だかとても酷い物言いをしたような気分になってしまう。―――別にそんな意味で言ったわけではないのに。

慌てて否定しようと脳内をフル回転させたビクトールは、次の瞬間そう思った自分にとても後悔を抱く事になる。

「でも、ビクトールにも関係ないよね」

にっこりと。

とても綺麗な笑みを称えて、は邪気の無い口調でそう言った。―――否、邪気がないわけではなく、それを見せないだけなのだ。

明らかに先ほどのビクトールの発言に対する報復に、反論出来る訳もなくただ乾いた笑いを浮かべるしかない。

これ以上不要な発言をし、更なる報復を受けるような酔狂はビクトールも持ち合わせていない。

はそれで満足したのか。―――はたまたそれほど怒ってはいなかったのか、立ち尽くしたままのビクトールに空いた席を勧めると、優雅に紅茶を口に運んだ。

「それよりも・・・」

そう前置きをして、手にしていたカップをソーサーに戻したは、ウェイトレスに珈琲を注文し終えたビクトールからフリックに視線を移してしみじみと呟く。

「明日が大変なのは、フリックの方だよね」

「・・・俺か?」

「そうそう。同盟軍の少女たちの熱い視線を一身に受けている『青雷のフリック』殿。自覚が無いとは言わせませんよ?」

おどけた口調で笑うに、フリックは訝しげに首を傾げた。

「・・・何がだ?」

惚けているのかとも思ったが、どうやら本当に解っていないらしいフリックに、とビクトールは顔を見合わせると深いため息を吐いた。

同盟軍の幹部で、顔良し・性格良し・おまけに剣の腕は一流。―――女の扱いには慣れているとは言えないけれど、そこがまた母性本能をそそると評判であるフリックは、自他共に認める鈍感である。

いや、本人は認めようとはしないが・・・。

同じく女性の熱視線を浴びている赤騎士とは、全くといって良いほど正反対だ。

けれどとビクトールは、無理やりそれを教えてやろうとは思わない。―――どうせ明日になれば、嫌というほど実感するのだろうから。

「でもまぁ・・・」

「ああ、1つだけフリックにでも理解できる事があるな」

「・・・俺でもってどういう意味だよ」

顔を見合わせて苦笑するとビクトールに、フリックが納得できないとばかりに眉間に皺を寄せる。

しかしそんな事を気にする2人ではない。

2人は楽しむような・・・それでいて少しばかり気の毒そうな表情をフリックに向けて。

「明日のニナは、きっといつもの3倍はパワーアップだね」

「ああ。曲がり角にご用心ってとこだな」

他人事のように呟かれた言葉に、フリックは思わず頭を抑えた。

なるほど・・・それなら俺にも想像が付く。―――と思ってしまったフリックに、反論の余地は無い。

「ニナもね。凄く可愛いし良い子なんだけど・・・もう少し押しを抑えたら良いのに」

やはり押しには弱いフリックに対する、彼女なりの作戦なのだろうか?とはぼんやりと思う。

けれどいくら可愛い女の子相手でも、あんな風に追いかけられたら逃げたくなるのも当然なのではないかとも思う。―――その証拠に・・・。

ふと脳裏に浮かんだ人物に苦笑を浮かべたは、ドタドタと響く足音に気付いた。

なんだろう?と思う間もなく、その足音はレストランに飛び込んでくる。

「よお!こんなところにいたのか!?」

「・・・・・・シーナ」

たった今思い浮かべた人物が、現実に目の前に現れたことには少なからず呆れた。

今日は千客万来だなとか思いつつ、は新しく来た客の為に席を1つ空けてやる。

同時に運ばれてきたビクトールの珈琲を奪い取って、シーナは切れ切れの息を整えるべくそれを一気に飲み干した。

「俺の珈琲・・・」

「そんな熱いモノ、よく一気飲み出来るわね・・・」

「どうした、そんなに慌てて」

それぞれが思ったことを口にする。―――しかしシーナとて、伊達に長い間この3人と付き合っているわけではないのだ。

そんな言葉など軽く流して、自分の用件を果たすべく口を開いた。

「明日、何の日か知ってるか?」

シーナの視線はに固定されている。―――そのどこか期待に満ちた目を見返して、はひしひしと嫌な予感を感じ取っていた。

「・・・・・・さあ?」

「嘘つくなって。知ってるんだろ?」

やはり付き合いの長さは伊達ではない。

ナナミやマイクロトフ辺りなら軽く騙されてくれるだろう嘘は、あっさりシーナに見破られた。―――いや、ナナミやマイクロトフほど素直な人間で無ければ騙されてはくれないだろうと思えるような態度だったので、見破られたのは当然の結果かもしれない。

シーナの確信的な言葉に、は惚ける事を諦めて小さくため息を零した。

「知ってるわよ。バレンタインデーでしょ?」

ついさっき思い出したのだということは、敢えて言わない事にした。

「そうそう。明日はバレンタインデーだよな」

明らかに期待を込めて、シーナはに視線を送る。

その視線の意味を正しく理解しているビクトールとフリックは、その先に続く言葉が容易に想像できてしまった。

「・・・というわけで、からもチョコ欲しいんだけど。しかも手作り!」

妙に力を込めて『手作り』を強調するシーナに、は呆れた視線を向ける事しか出来ない。

「何言ってんのよ。わざわざ私から貰わなくたって、シーナなら一杯貰えるでしょ?」

伊達に女好きと呼ばれているわけではない。―――シーナの人懐こさ、気配りの上手さやさりげない優しさに夢中になっている少女たちも少なくない事を、は知っていた。

「それとこれとは別だって!から貰うことに意義があるんだから。本命なんて贅沢言わないからさ。まぁ、本命でも大歓迎だけど?」

「いやいや。舌の肥えた大統領ご子息の口に合うような代物は持ち合わせておりませんので」

「何言ってんだよ。だって良いとこのお嬢さんで舌は肥えてるだろ?」

「貴方様宅ほどではありませんよ。マクドール家の普段の食事は一般家庭に毛が生えたくらいですから」

「そうなのか!?」

「贅沢は敵、が家の方針ですから」

意外だ・・・と、ビクトールとフリックは思う。

赤月帝国でも指折りの名家であったマクドール家が、そういう方針を持っていたとは。

思えば立ち振る舞いはともかく、着ている服も生活水準も、貴族にしては低い方だということに今さらながらに気付く。

身分というモノに呆れるほど執着を示す貴族とは反対に、は驚くほどそういった事を気にしない。―――それは彼女の付き人や親友からも見て解るほど。

あまり貴族らしくない貴族・・・といった印象を受ける。

いや、戦災孤児を簡単に引き取るくらいなのだから、ある意味貴族らしいと言えばそうなのかもしれない。―――そんなことは一般家庭では無理な話だ。

「ああ!どうでも良いから、チョコくれよ!!」

話が限りなく横道に逸れてきたことに気付いたシーナが、焦れたように声を上げる。

いつもいつもこんな風にうやむやにされてしまうのだ。―――という人間は、そう言うことがとても上手い。

一方そんなシーナをやはり呆れた様子で眺めていたは、先ほど頭の中に浮かんだ光景を思い出して小さく苦笑した。

シーナに声を掛けられて、鬱陶しそうに逃げる二ナの姿を。

自分がそんな風に追いかけられて鬱陶しいと思うのなら、自分もそんな風にフリックを追いかけるのを止めれば良いのに・・・。

客観的に見ていれば解り易すぎるその現実も、当人にしてみれば気付かないものなのか?

それともやはり気付いていて、尚且つそうしているのか。

もしかすると、そうする以外に方法が思いつかないのかもしれない。

未だに目の前で駄々を捏ねるシーナを苦笑交じりに眺めながら、はそんなどうでも良い事を1人考えていた。

「なぁ!!!」

「はいはい、解ったから」

「・・・へ!?」

「あげるから、チョコレート」

「「「マジで!?」」」

ビクトールとフリック、そしてシーナの声が食堂中に響き渡る。

嬉しそうに表情を綻ばせたシーナとは対照的に、信じられないとばかりに目を見開いているビクトールとフリックが気になったが、敢えて無視する。

「約束だからな。手作りだぞ?」

「あー、はいはい。手作りね」

面倒臭そうに手を振って、今にも抱きついてきそうなシーナを退けると、はカップに残っていた紅茶を一気に飲み干してから席を立った。

「・・・どこ行くんだ?」

「厨房。手作りなら今から作らないと間に合わないでしょ?」

「本気か?」

「もちろん」

疑いの目を向けてくるビクトールに、は軽い口調で答えた。

もちろん本気である。―――はやるといったからにはやる人間だ。

他にも催促するためか、の了承が取れたと同時に再び食堂を飛び出して行ったシーナを見送ってから、は厨房に向かい歩き出す。

「おい、!」

一歩足を踏み出した直後に呼び止められ、訝しげな表情を浮かべて振り返ったの目に、どこか先ほどのシーナを思わせるビクトールの目とかち合った。

「何?」

「どうせ作るんだったら、俺にもくれ」

「・・・良いけど。フリックはどうする?」

「俺か?くれるんならありがたく貰うが・・・」

「解った」

先ほどまでの態度を一変させてあっさり了承したを見つめながら、ビクトールは微かに笑みを浮かべた。

「・・・今度は何?」

「ちょっと意外に思ってな・・・」

そう言葉を濁すビクトールに、は不思議そうに首を傾げた。

「意外って?」

「いや・・・、お前が料理できるなんて思ってなかったし」

フリックがビクトールの言葉を受け継いで、そう呟く。

今までが料理らしい料理をしたのを、2人は見たことが無い。

野宿の時などは大抵保存食を携帯しているし、そうでなくても釣ってきた魚を焼いたりするくらいだ。―――本拠地や街にいる時は食堂やレストランで食事を済ませるし、昔の話を聞いた限りでは、食事の用意などはすべてグレミオ他使用人がしていたらしい。

だからこそ出て来た感想だった。

そこに全く他意はない。―――そんなビクトールとフリックを一瞥して、は爽やかすぎるほど綺麗な笑みを浮かべる。

「私、料理できるって言ったっけ?」

さらりと告げられた言葉に、瞬時に脳が判断できずに思考が止まる。

「・・・なんだって?」

漸く口から出てきたのは、そんな他愛無い言葉で。

それに笑顔を絶やさず、はあっさりと言った。

「だから・・・私、料理出来るなんて一言も言ってないわよ?」

「・・・それって、つまりは」

「そう。今回が初めて」

家にいた時は、グレミオがさせてくれなかったんだよね・・・と、今度こそ邪気の無い口調で呟く。

「まぁ、私って器用な方だし。心配しなくても大丈夫だって」

バレンタインに興味の無いが、どうしてシーナの頼みをあっさり引き受けたのかが解った気がした。

料理というモノに、は少しばかり興味があったのだろう。

そして普段はそれを許してはくれないグレミオを説得できる要因が、今回の場合はバレンタインなのだ。

「じゃあね」

心底楽しそうに去っていくの後ろ姿を見送りながら、ビクトールとフリックは不安を押し隠すようにお互い顔を見合わせて笑った。

 

 

そして迎えた(いろんな意味で)決戦の日、バレンタイン。

いつもは穏やかな雰囲気が漂う本拠地内に、どこか浮かれきった空気が漂っている。

それはもちろん意気込む少女たちから発せられる気合のようなものだが、中にはチョコレートを期待している男性の姿も見られた。

そんな中、昨日急遽バレンタインに参加することになったは、小さな箱を手に持って知り合いの部屋を渡り歩いていた。

・シュウ・リドリーやキバ・ハンフリーにクラウス。

全員がの持ってきたチョコレートに驚いていたが、にっこりと笑顔を浮かべて差し出せば快く受け取ってくれた。

あらかたの知り合いにチョコレートを配り終えたは、次に居場所の特定されていない人物の捜索に取り掛かった。

道すがら石版の前に立つルックにチョコレートの箱を渡し、訝しげな視線と素直じゃない礼を受け取り、今日に限っては珍しくない少女たちの積極的な行動を目の端に映しながら、は本拠地内を歩き回った。

をバレンタインという行事に引きずり込んだシーナの姿も見えなかった。―――チョコレートをくれと言ったのだから、自分から取りに来るぐらいの気配りは無いのかと内心毒づいて・・・。

ふと道場の前で人だかりが出来ているのに気付いて、は足を止めた。

黄色い声を発する少女たちに取り囲まれているのは、(これこそ本当に自他共認める)女性の扱いは超一流の腕を持つ赤騎士・カミュー。

「ああ、殿」

あまりの熱狂振りに素通りしようかと思ったに目ざとく気が付いたカミューが、爽やかな笑みを惜しみなく晒してに声を掛けた。―――それと同時に向けられる少女たちの複雑そうな目に、居心地の悪さを感じながらも無視する事などできず、は内心の動揺など微塵も出さずに綺麗な笑みを浮かべてカミューの方へと足を向けた。

「ずいぶんと人気があるのね・・・」

この状況でカミュー相手に軽口を叩くほどは愚かではない。―――当り障りの無いよう言葉を選んで、慎重に話し掛ける。

「可愛らしいレディたちにこれほど思われているとは、私は幸せ者ですね」

にっこりと少女たちが卒倒しそうな麗しい笑みを浮かべて、カミューはしみじみ呟く。

「そうね。カミューは幸せ者ね」

無難に肯定の意を返して、は道場内に視線を向けた。

「・・・マイクロトフは中に?」

「ええ。もしかしてマイクにチョコレートを?」

「え、ええ・・・まぁ・・・・・・副官として、仕事面でいつも助けてもらってるから」

なんて質問をするのだと、は微かにカミューを睨みつける。

カミュー程とは言わないが、マイクロトフとて女子に人気がある。―――もちろんこの中にもマイクロトフ目当ての少女は含まれているだろう。

無意味な恨みは買いたくない。

少女たちの怖さは、ニナを通して嫌というほど思い知っている。

「マイクも喜びますよ」

そう言って送られた笑みは、先ほどとは違いどこか温かみを帯びているような気がはした。―――別に少女たちに向けられている笑顔が温かくないとかそういう意味ではない。

なんて言うのだろう?―――敢えて言うならば、過保護な親が子供の幸せを喜ぶような?

どこかグレミオと似通ったそれに、は内心首を傾げる。

カミューの言葉の・・・感情の裏に含まれた意味が、には解らない。

何かが明らかに含まれているのに・・・それは解るというのに、肝心のその意味が理解できない。

不意に聞き返したい衝動に駆られるが、こちらに集まる少女たちの視線を無視する事など出来る筈も無くて。

「そうだと良いけど」

葛藤を押し込めて、はおどけるように肩を竦めて見せた。

「それじゃ。カミュー、検討を祈る」

殿も」

お互いクスクスと笑みを零して・・・再び少女たちに向き直ったカミューの背中に声を掛けて、首だけ振り返ったカミューに向かって小さな箱を放り投げた。

「いつもお世話になっている、カミューに」

わざとらしく言葉を添えて、カミューが小さな箱を受け取ったことを確認してから素早く道場の中に飛び込んだ。

 

 

道場の中は、外の喧騒など別世界だとでも言うように静まり返っていた。

厚い扉越しに聞こえてくる少女たちの声が、更にこの場を不自然に飾り立てる。

まるでここだけ外とは切り離されてしまっているような、そんな一種異様な空気がそこにはあった。―――道場独特の張り詰めた空気が、肌に心地良い。

少女たちも道場の中までは入って来れないのだろう。―――既に鍛錬の時間は終わっているらしく、道場内には数えるほどの人の姿しかない。

その中でも目立つ青い騎士服に身を包んだ青年の姿を目に止めて、は淀みのない足取りで青年の方へと歩み寄った。

「お疲れ様、マイクロトフ」

殿」

声を掛けると、どうやら愛剣の手入れをしていたらしいマイクロトフが不思議そうに顔を上げた。

殿も鍛錬ですか?」

床に座っていたマイクロトフは素早く立ち上がり、剣を鞘に収めると邪気の無い笑顔でそう問い掛ける。

それに苦笑交じりに首を横に振って・・・―――持っていた紙袋から小さな箱を取り出し、それをマイクロトフに差し出した。

「・・・これは?」

「今日が何の日か知ってる?」

「え・・・はぁ・・・」

呆然との顔を見返して、気の抜けた声を発するマイクロトフに、は堪えきれずに小さく噴出した。

「これ、バレンタインのチョコレートなの。普段お世話になってるお礼に」

「俺にですか!?」

「迷惑じゃなければ」

綺麗な微笑みを添えて差し出されたそれを、断れる人間が果たしているだろうか?

条件反射で箱を受け取ったマイクロトフは、ハッと我に返っての顔を見返す。

「そんな・・・俺には恐れ多い」

「ただのチョコレートだから」

たかがチョコレートにそんな恐縮されても・・・とは苦笑する。―――それでもにとってはたかがチョコレートでも、マイクロトフにとってはそうではない。

それが義理だと彼も理解しているが、だからといって想いを寄せる相手から贈られて嬉しくないわけも無い。

「ありがとうございます。一生、大切にします!」

「いや、食べ物だから出来れば食べて欲しいんだけど・・・」

「そんなもったいない!!」

マイクロトフの手には小さすぎる箱を大切そうに握り締めて、赤くなった顔と感動を隠す余裕も無くただ湧き出てきた言葉を口にする。

「そんなに喜んで貰えて、こっちこそお礼を言いたいくらいだよ」

全身で喜びを表すマイクロトフを見て、も嬉しそうに微笑んだ。

そして・・・―――は道場内にあるもう1つの青い塊に視線を移す。

「ずいぶんとお疲れのご様子で・・・」

「ええ。先ほどここに飛び込んで来られてから、ずっとあの調子で・・・」

おそらくは朝から元気の有り余る少女たちに追い掛け回されたのだろう。―――表情に疲れを滲ませた青雷を苦笑交じりに眺めて。

「一応、持ってきたんだけど・・・もしかしていらない?」

フリックの周辺に散らばった色とりどりの箱を眺めながら、は呟く。

「・・・か?」

これほど接近しなければ気が付かないほど注意力が散漫なフリックを、は初めて見たような気がした。―――それほど疲労しているという事なのだろう。

「だから言ったでしょ?明日は大変ねって」

「・・・このことだったのか」

ため息混じりに吐き出された言葉に、は苦笑を浮かべるしかない。

自分の手の中にあるフリックの為に用意したチョコレートに視線を向けて・・・やっぱりこれは必要ないのかもしれないと思ったその時。

にゅっと伸びて来た手に、の手の中にあった小さな箱が奪い取られた。

その突然の出来事に目を丸くしたに、フリックが微かに笑みを浮かべながら言った。

「これは俺のなんだろ?」

「そう・・・だけど・・・・・」

「ありがとう」

あっさりと告げられた感謝の言葉に、やはり驚いて。

「こんなにあるのに、まだいるの?」

「お前の手作りなんて、滅多にお目にかかれるものじゃないからな」

フリックのそんな言葉に、どこか珍味と同等に扱われているような気がして複雑な思いを抱いただったが、それでも受け取って貰えるのはやはり嬉しいもので。

世の少女たちは、ただ受け取って貰えるだけで満足なのかもしれないと、は今さらながらにそう思った。

そして・・・普段とは違うフリックの雰囲気に、少しばかり戸惑いながらもが微笑んだその時。

「フリックさん!」

つい先ほどまでは静かだった道場内に、聞き覚えのある明るい声が響いた。

それは確認するまでも無く、彼を追い掛け回すグリンヒルの少女で。

が振り返るよりも早く、フリックは勢い良く立ち上がると、ニナが入ってきたのとは別の出入り口に向かい駆け出した。

その俊敏さが普段も発揮されれば、彼も今よりずいぶんと強くなるだろうと関係の無い事を思う。―――何もあそこまで必死に逃げなくても良いのではないかと思ったが、最早フリックにとっては条件反射なのだろう。

しみじみとそんなことを考えながら、は隣に立つマイクロトフと共に追いかけっこを再開する2人の背中を見送った

 

 

道場と同様に、外の世界と切り離されたような静けさを漂わせる船着場に、ビクトールはいた。

釣りをするでもなく、ただぼんやりとデュナン湖を眺めている。―――何故彼がここにいるのかと言われれば、『避難』してきたからに他ならない。

チラリと自分の傍らに置かれた大きな箱一杯のチョコレートに視線を向けて、ビクトールは困ったようにため息を吐いた。

「こんな所で何やってんの?」

不意に響いた声に慌てて振り返ると、そこには呆れた表情を浮かべたがいる。

「どこにもいないから、捜したわよ」

批難を含む言葉とは裏腹に、の口から出る口調は柔らかい。

それにいつものように軽く笑みを返して、ビクトールは再びデュナン湖に視線を戻した。

そんな普段からは想像もつかないほど静かなビクトールの姿に、は内心不思議に思いつつも、何も言わずにビクトールの隣に腰を下ろす。

「どうかした?」

「いーや、別にどうもしねぇよ」

即答に近いタイミングで返って来た言葉は、いつも通りだったけれど・・・―――それでも声に含まれるものがいつもと少し違う気がして、は訝しげに首を傾げた。

そして・・・そんなビクトールの顔を見返したの目に、ダンボール一杯のチョコレートが映る。

「ずいぶんとご盛況のようで・・・」

「これは俺のじゃねぇよ」

「・・・・・・?」

「これはフリックのだ」

返ってきた言葉に、は『なるほど』と返事を返す。

ビクトールの機嫌が悪いのは、このチョコレートの山にあった。

別にビクトールは特別チョコレートが好きなわけじゃない。

バレンタインだからといってフリックのようにチョコレートを山ほど貰いたいとも思わないし、ましてや貰えなくても支障は無いのだ。

けれど・・・―――来る人来る人全員に、『フリックさんに渡してください』とチョコレートを差し出されれば、やはり気分も滅入るというものだ。

自分はフリックの仲介でしかないのかと。

欲しいと思っているわけではないのに、そうなったらそうなったで気分がへこむのはどうしてだろうか?

普段ならばお節介を焼いてでも引き受けるというのに・・・―――そういう意味では、自分もバレンタインの熱に浮かされているのかもしれないと、ビクトールはそんな事を思う。

「・・・なるほど」

先ほどと同じ言葉をもう一度繰り返したに、ビクトールは何気なく視線を向ける。

そこには困ったようなの笑顔があって。

「そこの箱の中と比べれば、圧倒的に足りないだろうけど・・・」

言葉と共に差し出された少し大きめの箱に、ビクトールの視線が釘付けになる。

「・・・俺にか?」

「昨日、約束したでしょ?」

言われて、そういえば・・・と昨日のレストランでの一件を思い出す。

確かに約束はしたけれど、まさか本気で貰えるとは思っていなかったビクトールは、驚きと戸惑いで思わず固まってしまう。

一方は、なかなか受け取ってもらえないチョコレートに、チラリと固まったまま箱を凝視しているビクトールに視線を向けた。

「私のチョコレートだけでは、ご不満ですか?」

少しの不安を心の中に押し込めて、はわざとおどけた口調で声を掛ける。

するとビクトールは驚きに見開いていた目を薄く細めて。

いつも通りの不敵な笑みを顔に浮かべると、の手にある大きめの箱にサッと手を伸ばした。

「十分だ」

返ってきた言葉に、は満足気な笑みを浮かべる。

「お前の手作りだろ?出来は?」

「味見してないから知らない」

「してないのか!?」

「嘘に決まってるでしょ。ちゃんと味見したよ。うん、初めてにしては上出来かな?」

っていうか、そんなに手の込んだものじゃないし・・・と呟くの頭を、ビクトールはいつもと同じように乱暴にかき混ぜて。

「ありがとな」

「・・・・・・どう致しまして」

少しばかり感じる照れに、はビクトールから視線を逸らして素っ気無く返事を返す。

そしてふと、のチョコレートの箱を嬉しそうに眺めるビクトールを盗み見て。

どうしてビクトールの分だけ包装を変えたのだろうかと、今さらながらに自分の行動の不審さの理由を考えてみる。

中身は他の物と同じだ。―――いくつもの種類を作れるほどの時間も、そして料理の腕もには無い。

中身が同じだから、包装を変えた。

それに間違いは無い。―――ただ、どうしてそうしたのかが自身にも解らなかった。

「・・・身体が大きいからかな?」

「あん?」

「なんでもない」

誤魔化すように笑ったは、自分の不審な行動に最もな理由をつけた。

それが理由にならない事には気付かない。―――他にも身体の大きい奴はいるだろうという突込みをする人間がいないから。

の胸の奥にひっそりと咲く想い。

それが自身にさえ気付かれなくても、それは確かに存在する。

形も重さも見えない、大切なモノ。

いつか花開くその時まで。

蕾のまま、今まだ眠る。

 

こうして、年に一度の乙女の決戦の日は静かに幕を閉じた。

 

 

●おまけ●

 

「ところで・・・その紙袋何か入ってるみたいだが、まだ渡してない奴がいるのか?」

「ああ、これはね。私のやつだから」

「・・・・・・は?」

「だから、私が貰ったやつなの」

「・・・・・・誰に?」

「テレーズとか、ナナミとか、テンガアールとか?あと兵士の人たちとか・・・」

「・・・貰ったのか?」

「そう。びっくりしたけどね、気持ちだからって」

何でも無い事のように返答するを見て、ビクトールは思わず呟かずにはいられなかった。

「・・・・・・さすが」

 

 

◆どうでもいい戯言◆

フリック夢?カミュー夢?マイクロトフ夢?

いえいえ、ビクトール夢のつもりなんですけどね。(笑)

そしてモテモテ主人公。―――うちの主人公は老若男女に愛されてます。(笑)

ちなみに話に出て来たのは一部の人だけで、出てこなかったシーナも他の人もちゃんと貰ってます。

作成日 2004.6.9

更新日 2009.2.15

 

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