たすけて。

 

恐怖に歯の根がかち合わない。

がくがくと震える身体を押さえることも出来ず、自分で立つ事さえも出来ず、強い力に引きずられる。

それに精一杯抗いながらも、声にならない声で心の底から叫び声を上げた。

助けて、助けて!

しかしその声に答えてくれる人はいない。

恐ろしいほど妖しい光を放つ刃を向けられ、これ以上ないほど大きく目を見開いた。

「・・・助けてぇ!!」

 

まだ、死にたくない。

 

への誘い

 

窓の外をはらはらと舞う桜の花びらをぼんやりと眺めながら、大きく欠伸を1つ。

季節は春。

高校を卒業し、某一流国立大学へ進学を果たしたは、しかし高校在学中からは考えられないほどの時間を持て余していた。

あれほどまでに追われていた課題も今はない。―――これから忙しくなってくるかもしれないが、今のところはそれなりに余裕を持てている。

毎日課せられていた修行も、緑稜高校での成果を認められてか義務化されなくなっていた。

今までは1日24時間では足りないとさえ思っていたのに、今ではこうしてぼんやりとする時間が持てているのだから不思議なものだ。

それを望んでいたはずだというのに、それでもは退屈そうに息を漏らす。―――急に時間が出来ても、その使い方が解らないのだ。

買い物を終えて入った喫茶店でコーヒーを飲みながら、は小さく独りごちる。

「・・・麻衣が淹れてくれたコーヒーの方が美味しいなぁ」

専門店で飲むコーヒーよりも、素人が淹れたコーヒーの方が美味しく感じるというのもおかしなものだ。―――そこに他の誰かの存在があるだけで、味覚さえも変わってしまうのだから。

そんな事を考えながら、もう一度カップを口へと運びつつチラリと店内の時計を見やる。

時刻は午後5時前。

この時間なら、学校を終えた麻衣はとっくにバイト先に顔を出している頃だろう。

お土産でも持って顔を出せば、麻衣は喜んでくれる。―――その後ろには、不機嫌な顔をしたナルがもれなくついてくるだろうが。

行くか、行かざるべきか。

すっかり中身のなくなってしまったカップを戻して、眉間に皴を寄せつつ考え込んでいたは、しかし数分後勢いよく立ち上がって。

「すいませ〜ん。お会計おねがいしま〜す」

「はい、ありがとうございます」

伝票片手に立ち上がったに、店員が愛想良くにっこりと微笑んだ。

 

 

渋谷の街はいつ来てもごった返している。

そんな人波を縫うように歩いていたは、まだ新しい通い慣れたビルへと足を進めた。―――お土産のケーキの箱が、コトリと小さな音を立てる。

「こんにちは〜!暇だったから遊びに来たよ〜!麻衣〜、ケーキ食べ・・・あれ?」

今日こそはナルやリンにもケーキを食べさせてやる!と間違った野望を抱きながらSPRの扉を挨拶と共に押し開けたは、そこに立つ女性の姿に目を丸くした。

ふんわりとした髪の毛を肩で切り揃えた綺麗な女性。

「ご、ごめん!」

まさか依頼人がいるとは思わず無礼にも飛び込んできた自分の立場を考え、は慌てて部屋の隅に移動すると勢い良く頭を下げる。―――しかしその女性はを見つめてにっこりと微笑むと、「気にしなくて良いのよ」と柔らかい声で告げた。

「初めまして、森まどかと言います。貴女は・・・?」

「えっ!?あ〜、と申します。―――え〜と・・・」

「ああ、私の事はまどかって呼んでね」

相手の自己紹介に慌てて名乗ったは、返って来た言葉に目を丸くする。

いや、そうじゃない。

貴女をどう呼んだらいいのか迷っていたのではなくて、今現在の自分の身の置き所に困っていたんですけど・・・―――と心の中で独りごちながら、それでもはまどかに釣られるようにして微笑んだ。

「あー・・・と、それじゃ私の事も名前で呼んでください」

「あら、そう?うふふ〜、なんだか楽しいわね〜」

「あはは〜、そうですね〜」

漂う和やかな雰囲気に、は困ったように麻衣へと視線を送る。

この人は一体誰で、どうして自分は見知らぬ人とイキナリ名前で呼び合う仲になっているのか。―――それは別に構わないとしても、そろそろ状況説明くらいはあってもいいだろう。

しかし麻衣にもよく事情が解らないらしく、同じように困った視線を向けられては微かに頬を引き攣らせる。

この状況を一体どうするべきか。

事務所に飛び込んで来た時の勢いをすっかり失い、助けを求めるように視界を巡らせたその時、事務所の騒ぎを聞きつけたのか・・・それとも何か用事があったのか、資料室から出てきたリンの姿を認めてはパッと表情を明るくする。

「リン!!」

リンなら何とかしてくれるに違いない、と厄介事を押し付ける勢いで口を開きかけたは、しかし目の前で上がった声にまたもや目を丸くした。

まるで花が舞い散るような弾んだ声で名前を呼ばれたリンは、訝しげに振り返って・・・―――そうしてそこに立つまどかの姿を確認して大きく目を見開く。

「・・・まどか?」

意外だと言わんばかりの声色で彼女の名を呼んだリンを見つめて、と麻衣も意外だと言わんばかりに目を丸くする。

まさか、知り合いなのだろうか?―――この綺麗な女性が?

「ごめんね、急に。元気だった?」

「ええ・・・。どうしたんですか、連絡もなしに」

「ん〜。驚かせてみようかなー、なんて。びっくりした?」

「しました。でもまさかそれだけでいらしたわけではないでしょう?」

呆然と立ち尽くすと麻衣を他所に繰り広げられる親しげな会話。

どうにも言葉を挟めずに困ったように顔を見合わせた2人は、じりじりとゆっくり後退しつつも顔を突き合わせた。

「ねぇ、あの人リンさんの知り合い?なんかめっちゃ親しげなんだけど!しかもリンさんが優しく微笑んでるよ!」

「いや、あたしは知らないけど。今まで見た事なかったし・・・」

それにと話してる時だって、リンさんの表情は十分柔らかいよ!と声には出さずに突っ込みながら、麻衣は窺うようにリンの表情を見やる。

確かにどうしてか他のメンバーと比べて、と話している時のリンの表情は柔らかい。

けれどがしっかりと解るほど微笑むリンも珍しいのだ。―――それが女性相手ならなおさら。

これはもしかして・・・。

「もしかして、まどかさんってリンさんの恋人かな?―――なぁ〜んて!いや、それはないよね。だってリンさんはが・・・」

「リンさんの恋人!?」

慌てて訂正された麻衣の言葉は、しかし重要な部分を切り捨ててしっかりとによって拾われた。

遠慮なく上がった声に、穏やかに談笑していたリンとまどかが同時に振り返る。

「・・・なっ!?」

「・・・あらあら」

慌てた様子のリンとは対照的に、まどかは否定も肯定もせずに無邪気な笑顔を浮かべた。

その笑顔はどこか楽しげでもある。―――まるで新しいオモチャを見つけた子供のように。

「ち、違います!」

「へぇ〜、リンさんにこんなに美人の彼女がいたんだ。ちょっと意外っていうかなんというか・・・」

「人の話を聞きなさい!」

何故か感心したように頷くを睨みつけて珍しく声を上げるリン。―――そうしてそんなリンを眺めてニコニコと楽しそうに笑うまどか。

もしかするとちょっと修羅場っぽい雰囲気になるのかと思いきや、なんなんだこの終始変わらない和やかな雰囲気は・・・と麻衣は頬を引き攣らせる。

まぁ、別にとリンが恋人同士というわけでもないのだから、当然といえば当然なのかもしれないが。

「へぇ〜、リンってば仕事以外興味なさそうな顔して意外とやるのね〜」

「ね〜。こんなに綺麗な彼女がいたなんて思いもよらなかった」

感慨深く呟くまどかと

顔を見合わせて同意しているように見えるが、会話は成立していない。―――そんな2人を見つめて自身を落ち着けるように大きくため息を吐き出したリンは、いつもと同じキッパリとした口調で口を開いた。

「まどか、彼女は調査の助っ人に来ていただいてる方です」

「・・・へぇ〜、なるほどなるほど。そういう事ね。リンも隅に置けないんだから」

その言葉とリンの態度だけですべて納得したように頷くまどかから、今度はへと視線を移して。

、彼女は・・・古い知り合いです」

「え〜?その言葉の濁し方、怪し〜い」

解っていてからかう体勢に入っているを見据えて、リンは呆れたように息を吐く。

タイプは違えど、どちらの相手もリンにとっては性質が悪い。

だからといって跳ね除けられないのがつらいところだ。

そんなリンを傍目で見つめながら、リンさんも意外に苦労人なのかも・・・と麻衣は乾いた笑みを浮かべながら、リンに対する認識を改める。

「それはそうと、ナルは留守?」

そうして一通りからかって堪能したのか、まどかが突然ころりと話題を切り替えた。

それに安堵しつつ、リンは言いづらそうに肯定する。―――「・・・旅行です」と告げれば、まどかは仕方がないとでも言いたげに微かに微笑んで。

しかし次の瞬間、またもやにっこりと微笑んだまどかは、有無を言わさぬ声色で告げた。

「では呼び戻してちょうだい。―――仕事です」

 

 

まどかのその一言で、リンは旅行に行っているというナルと連絡を取るべく電話と向かい合っている。

たまに来た時にナルがいない理由が旅行だという事も驚きだが、彼女の一言でリンが反論もせずに動くのも驚きだった。

そうして、今自分がここにいるべきかどうかでは迷う。

仕事という事は、勿論霊現象の調査の事なのだろう。

このまま行けば巻き込まれる可能性は高い。―――いや、この場にいなくても巻き込まれる可能性は非常に高かったが・・・。

いっそ何も見なかった事にして帰ってやろうかとも思うが、にこやかに話しかけてくるまどかの為にそれもままならない。

どちらかといえばにとっても好感の持てるタイプではあったけれど、扱いにくいタイプである事も確かだった。

「・・・どうぞ」

「あら、ありがとう」

にこやかに笑顔を浮かべてお茶を出す麻衣に、まどかはにっこりと微笑み返す。

出された紅茶の隣には美味しそうなケーキ。―――勿論、お土産としてが買ってきたものだ。

今日こそナルとリンにも食べさせるつもりで大量に購入してきたので、こういった非常事態も問題ない。―――つくづく良いタイミングだったと、は思わず自身に賞賛を送った。

ちゃん、このケーキ美味しいわね。どこで買ったの?」

「ああ、これは駅前ですよ。もし良かったら今度一緒に行きます?」

「あら?うふふ〜、楽しみねぇ。それじゃ、ナルとリンのとっておきのエピソードでも教えちゃおうかしら」

「それは楽しみですね〜。ぜひ!」

ケーキをつつくまどかと談笑を交わしながら、は麻衣が淹れてくれた紅茶を飲む。

やっぱり喫茶店で飲む紅茶よりも美味しい気がするのは、きっとそれがこの場所でありこの場所に在る人たちのおかげなのだろうと納得する。

「―――はい。はい、それは解ってます。・・・ええ」

そんな傍ら、固い口調で電話の向こうにいるだろうナルと話をするリンを横目に、は思わず苦笑を浮かべた。

きっとナルの事だから、辛辣な言葉を向けているのだろう。―――別にリンが悪いわけではないというのに・・・。

そんな他人事のような感想を抱いていると、不意にリンが電話を持ったまま振り返った。

思わずぎょっとするを他所に、リンは受話器をまどかへと差し出して・・・。

「どうぞ、ナルです」

差し出されるまま受話器を耳に押し当てたまどかは、変わらぬ様子で声を発する。

「もしもし、ナル?―――戻ってきて」

語尾にハートマークがつきそうなほど可愛らしい声で、しかし何の前置きもなく発せられた言葉に、紅茶を飲んでいたは思わずむせた。

どんな説得の仕方だ!それでナルが承諾するのか!?と人事ながらに心配しつつも視線を向けるも、しかしまどかは怯んだ様子さえ見せずに更に言葉を続けた。

「うん・・・うん、うん・・・でも、戻ってきてくれるでしょ?」

一体どんな会話なのか興味がそそられる。

思わずスピーカーボタンに伸びる手を何とか宥めながらチラリと麻衣を見やると、何故か彼女の方がはらはらとした様子を見せていた。―――そのまま視線を移せば、まどかに電話を繋いだリンはどこか諦めたような表情を浮かべている。

一体彼女たちはどういう関係なのだろうかと疑問を抱いたその時、「ありがとう!」というまどかの弾む声が聞こえて慌てて振り返った。

「帰ってくるんですかっ!?」

「ええ、今夜中に着くって」

思わず声を上げた麻衣に、まどかはなんでもないようにそう返す。

その言葉に目を丸くしていた麻衣は、次に感心したような表情を浮かべて独りごちた。

「ふぇ〜。ナルに言う事聞かせられるなんて、すごいんですね〜」

「ほんと。どうやるのか教えて欲しいくらい」

麻衣の独り言に思わず同意しつつ、もまた独りごちる。

彼の操縦法が解れば、ちょっとは反撃できるかもしれない。―――そんな思いを抱いて漏れた言葉に、しかしまどかの意外だと言わんばかりの表情で小さく微笑んで。

「そうかなぁ?えぇと、あなた・・・」

「アルバイトの谷山です」

「ふぅん。私にしたらあなたたちの方がすごいと思うけど。ナルとリンが人を雇うだけでも意外なのに、結構なじんでるみたいじゃない」

確かに言われればそうだと、も心の中で同意した。

あまり社交的とは思えないあの2人が、積極的に人を雇うようにはとても思えない。

麻衣の場合は成り行きで一緒に仕事をしたからなのかもしれないが、そんな機会でもなければありえなさそうな構図だ。―――ナルが求人票を出すとも思えない。

それはそうと、どうしてそこに自分が入るのだろうか?

そんな疑問を読み取ったのか、まどかは更に笑みを深めて意味ありげに口を開く。

「だって、あのリンと随分仲が良さそうなんだもの」

「いやー、仲が良いかどうかは微妙なところっていうか・・・」

森下事件を経て、確かにリンはを必要以上に遠ざけたりはしなくなった。

だからといって、それを仲が良いと表現して良いものかどうか・・・―――そう小さく漏らしたに、まどかは柔らかく微笑んで。

「でも、あのリンがあんなに慌てて弁解するところなんて初めて見たわ。よっぽど貴女に誤解されたくなかったのかしら?」

「それって、私があちこちに言いふらしそうだって思われてるって事ですか・・・?」

そうだとしたら心外だ。

こう見えても意外と口は堅いのだ。―――まぁ、おしゃべりが好きな事は否定しないけれど。

そう反論すると、まどかと麻衣は顔を見合わせて困ったように笑った。

その意味が解らず首を傾げるを他所に、麻衣は話題を摩り替えるようにまどかをみやる。―――自分たちの口から、リンの淡い想いをバラしてしまうわけにもいかない。

更に首を傾げるを誤魔化すために思考を巡らせた麻衣は、ふと浮かんだ疑問をそのまままどかへ投げ掛ける。―――誤魔化しと疑問の解消がこれで一気に解決するなら一石二鳥だ。

「・・・あのう、森さんってどういうご関係の方なんですか?」

突然現れてリンと親しげに会話し、更に旅行に行っているナルを呼び戻すほどの人物なのだ。―――麻衣やでなくとも好奇心をそそられるだろう。

しかしそんな2人を気にした様子もなくまどかは柔らかく微笑み、そうして衝撃的といえば衝撃的な言葉を放った。

「私?そうね、平たく言えば師匠かしら?―――ナルにゴーストハントを伝授したのは私なの」

「・・・えぇ?」

思わず絶句し、目の前でにこやかに笑むまどかを見つめる。

何が衝撃的かって、このおっとりした人からナルが何かを教わったという事自体が衝撃的だ。

ナルがこのテンポについていけるとはとても思えない。―――別にまどかが悪いわけではないけれど、よくあのナルが教えを乞えたものだといっそ感心する。

「うわ〜。まどかさんってすごいんですね〜」

あまりの事に固まる麻衣の傍らで、も感心したように呟く。

「・・・そうかしら?」

「そうですよ。ぜひ、弟子にしてください」

「あら〜?いいわねぇ、ほんとに楽しそうで!」

そう言って本当に楽しそうに笑うまどかを見返して、も楽しそうに笑みを零した。

 

 

そうして用事を済ませたまどかが帰った事務所で、と麻衣は顔を見合わせてお茶を飲む。

話題は先ほどのまどかと、そしてリン。―――ついでに強制送還させられる事になったナルについて。

「そういえば、まどかさんさっき仕事だって言ってたよねぇ」

麻衣の淹れてくれたお茶をすすりながら気のない様子で呟くに、ケーキを頬張っていた麻衣がコクリと小さく頷く。

「それって、多分怪現象の仕事だよねぇ」

「多分そうなんじゃない?ナルにゴーストハント教えたの、森さんだって言ってたし」

これがまったくのプライベートな知り合いならばともかく、同じ職種の人間からの仕事の話となれば、その線が濃い。

麻衣の言葉に小さく相槌を打ちながら、はため息混じりに呟いた。

「・・・調査、かぁ」

ため息交じりではあるものの、そこに昔ほどの嫌そうな空気が感じ取れず、麻衣は微かに笑みを浮かべつつ口を開いた。

、前ほど調査嫌がらなくなったね」

「え?あー・・・いや、まぁ・・・」

麻衣の率直な言葉に、視線を泳がせながら言葉を濁す。

本音を言えば、今だって調査は好きではない。

怪現象など進んで関わりたいと思うほど、は物好きではない。

それでも・・・―――それでも、みんなといるあの時間が、居心地良く感じるのも確かで。

そんな微妙な変化を感じ取った麻衣は、からかうような笑みを浮かべた。

、変わったよね」

「・・・は?」

突然の麻衣の言葉に、は目を丸くする。

一体何を言い出すのかと視線で問いかければ、麻衣は嬉しそうに小さく笑って。

「具体的にどうこう言うんじゃないけど・・・なんか空気が柔らかくなった気がする」

の周りに張り巡らされていたぴりぴりとした空気が、いつの間にか綺麗になくなっている。―――いつも必死だった目が、いつしか余裕に溢れている。

そんな言葉には表しにくいものばかりではあるが、確かには変わったと麻衣は思う。

出逢った頃と比べて、ずいぶんと。

そんな麻衣の声には出さない言葉を読み取ったのか、は困ったように微笑んで。

そうして麻衣から視線を逸らすように俯いて、もう一度小さく笑んだ。―――それは麻衣に向けたものとは違う種類のものだったけれど。

「・・・?」

突然俯いたを訝しく思った麻衣が声を掛けると、は何かを思い出したようにパッと顔を上げて勢い良く立ち上がり、傍らに置いてあったカバンに手を伸ばした。

「ごめん、麻衣。私これから用事があったのすっかり忘れてた!」

「えっ!?これから?」

「そうなの!ほんとはちょっとだけ寄るつもりだったんだけど、まどかさんの登場ですっかり忘れてた!ほんと慌しくてごめんね!!」

そう言って見送りに立ち上がる麻衣を置いて、は最後にもう一度「ごめん」と謝罪を告げて事務所を飛び出した。

人でごった返す街を駆け抜けながら、SPRの入っているビルが見えなくなったところで足を止め振り返る。

「・・・ごめん、麻衣」

荒い息の中何度目かの謝罪を告げて、は自嘲気味に微笑んだ。

麻衣の言葉が嫌だったわけではない。

それは、本当に嬉しい言葉だった。―――過去の自分とは違う、新しい自分になれたような気がして嬉しかった。

けれど・・・。

本当は、見透かされているような気もして怖かった。

決して人には見られたくない、そんな部分を感じ取られてしまったような気がして・・・。

「やだな、もう。私、逃げてばっかりじゃない」

小さく小さく呟いて、手に持ったカバンをぎゅっと握り締める。

今はまだ、目を逸らしていたかった。

いつかそれと向き合わなければならない時が来るのならば、どうか今だけは。

まるでそう祈るように僅かに目を細めて、そうしては何事もなかったかのように踵を返し、雑踏の中へと足を踏み出した。

 

 

「おはよう、

そう声を掛けられたのは、の通う大学の構内。

振り返ればそこには、少し前の事件での依頼人であり友である安原修がにこやかに手を振っている。

「おはよー、安原くん」

示し合わせたわけでは勿論ないけれど、偶然同じ大学を受験し合格した2人は、やはりこれも必然的に交友関係を続けていた。

すべて同じ科目を選択しているわけではない上、広い大学構内で毎日顔を合わせるというわけではなかったけれど、やはり友人という事で何かと関わりのある人物だ。

本日諸事情により午後の講義をサボらなくてはならなくなったとは違い、安原はまだ講義が残っている。

そんな彼が何故、今まさに構内を出ようとしているに声を掛けるのか。―――それを訝しげに思いながら視線を向けると、安原は含みのある笑みを浮かべて。

「少し用事があるんだ。だから午後の講義は自主休校」

「あらら、余裕の発言。さすが元生徒会長」

まだ大学に通い始めたばかりで余裕のある発言だとからかうも、安原はいつもと変わらない笑顔を浮かべている。―――まぁ、彼の追い詰められた姿など想像もつかないが。

だってまだ講義が残ってるでしょう?どこ行くつもりですか?」

「あー・・・私も、自主休校かな?」

「あらら、余裕の発言。さすが城聖の元学年トップ」

先ほど投げた言葉をそのまま返され、は苦い表情を浮かべる。

安原はともかく、自分は好きで自主休校をするわけではないというのに・・・。

昨夜予想通り掛かってきたナルからの電話内容を、ははっきりとは知らない。

掛かってくるだろうと予想していただけに驚きはしなかったが、その内容を一清は何一つ説明してはくれなかった。―――行けば解ると、それだけ。

それを例のごとく今朝突然聞かされ、こちらも例のごとく勝手に仕事を受けられたは、これからこうしてSPRの事務所に向かう途中なのだ。

多少思うところはあるものの、直接言われたとて今更断ったりはしないというのに・・・―――それでも何一つ相談すらしてくれなかった一清に、信頼されていないような・・・それでいてちゃんとを理解しているようなその対応に、は呆れるしかない。

いつか絶対泣かせてやる!と叶うはずもない野望を胸に抱くくらいしか、今のに出来る事などなかった。

「んで、安原くんはなんでサボるの?なんか用事でもあるわけ?」

基本的に安原は真面目な人間だ。

臨機応変さを兼ね備えてはいるものの、何の理由もなくサボるなど考えられない。

そう思いつつ問いかければ、安原は意味ありげに笑いながら視線をあさっての方向へと投げた。

「ん〜、それは後のお楽しみという事で」

「なにそれ。後で何かあるの?」

「ええ、それはもう。きっと驚きますよ」

輝くような笑顔でそう答える安原に、それ以上問い詰める事など出来るはずもなく、後で解るのなら良いかとはあっさりと頷いた。

「それじゃ、僕はちょっと急ぎますんで。、また後で!」

「は〜い。またね、安原くん」

そう言って駅に向かい駆けていく安原の背中を見送って・・・―――そうしてしばらくした後、は不思議そうに首を傾げた。

「・・・また後で、ってどういう意味だろ?」

勿論、もうこの場にはいない安原からはその問い掛けの答えは得られない。

最初から最後まで意味ありげだった安原の言動を訝しく思いながらも、は止めていた足を再び前へと踏み出す。

彼の言った言葉の意味を彼女が理解するのは、これから1時間後の事。

やはり彼は侮れないと再確認するのも。

そうしてにとって大きな転機を迎える事件へ足を踏み入れるのも、もうすぐ。

「あー、いい天気だなぁ・・・ちくしょう」

今はまだ、何一つ知らないまま。

青い青い空を見上げて、は悔し紛れにそう独りごちた。

 

 

◆どうでもいい戯言◆

こんなしょっぱなもしょっぱなで1話まるまる使ってると、一体全何話になるのか先が思いやられます。

前回ですら、今までどおり7話で終わらせようと思って10話にまで伸びてしまったというのに・・・。(計画性なさすぎ)

今回は、今まで意味ありげにぼかされてきた主人公のナゾに迫りたいと思います。

そして最初はリードしていたにも関わらず、なんとなくリンと差をつけられてしまった感があるぼーさんとの絡みを、ぜひ!

ともかく、血ぬられた迷宮編スタートです。

作成日 2007.11.24

更新日 2008.5.12

 

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