カメラの前に鎮座して祈祷を始めた綾子の姿をモニターで見ていたナルが、真剣な表情のままゆっくりと振り返る。

「準備はいいか?」

掛けられた静かな声に、は強張った表情のままコクリと1つ頷く。

思わず唾液を飲み込んだ音が妙に大きく響いた気がして、それを紛らわせるように朗々と祝詞を読み上げる綾子の姿を目に映し、大きく深呼吸を1つ。

単調な綾子の声が、不思議と心を落ち着けてくれるような気がした。

心配そうに自分を見る滝川と麻衣へニコリと微笑みかけて、無言でカメラを回すリンへ合図を送るように視線を向けると、は左手のブレスレットに手を掛ける。

さて、どうなる事か。

集まる視線と身体に圧し掛かる緊張を振り払うように、は躊躇いなくブレスレットを外した。

 

未知への

 

ヒヤリ、と何か冷たい物が頬に押し付けられる感覚に、は堅く閉じていた瞳を薄っすらと開いた。

最初に目に映ったのは白い天井。―――生憎と見覚えのないものだ。

「・・・気分はどう?」

唐突に、なんの前触れもなく掛けられた声に首を回してそちらを向くと、そこには見覚えのある・・・しかし見覚えのない人物が1人。

どうやら頬に当てられているのは彼の手らしい。

心配そうに自分の顔を覗き込むその青年の姿に、はなんだか泣きたいような笑いたいような不思議な感覚を抱いた。

「へいき・・・だよ、たぶん」

結局は小さく微笑むに留めて、自分でも一体どっちなんだよと突っ込みを入れたくなるような返事を返す。―――しかしその人物は勿論そんな突っ込みを入れる事はなく、ただ安心したようにやんわりと微笑んだ。

「・・・、気をつけて」

しかしすぐさま表情を引き締めると、少しだけ声を低めてそう告げる。

言われた言葉の意味が解らずキョトンと見上げれば、小さく苦笑を漏らして宥めるように髪の毛を梳いてくれた。―――その手がとても優しくて、はなんだか照れ臭く思いながらも、抗う事無くやんわりと押し寄せる睡魔に身を任せる。

、気をつけて。君は霊と同調しやすい。それを跳ね除ける力が君にはない」

うん、知ってるよ・・・とはそう答えようとした。

しかし生憎と声を出す事が出来ない。―――身体が重くて、意識がぼんやりとして、上手く思考が纏まらない。

「完全に取り込まれてしまえば、もう戻る事は出来ない。、気をつけて・・・」

解ってるよと、夢現に呟く。

もう何度も何度も聞かされた言葉だ。―――それは己の身の安全の為に、絶対に忘れてはならない事。

解っているのに同じ事を繰り返してしまうのは、自分の不用意さだけが原因ではないのだと心の内で言い訳しながら。

優しく響く温かい声と、労わるような髪を梳く感触に導かれるように、の思考はゆっくりと押し寄せる睡魔へ溶けていった。

 

 

「・・・う〜・・・」

「・・・?」

魘されるようなの声に、傍についていた綾子は心配げに顔を覗き込んだ。

綾子の呼ぶ声に引き上げられるように意識を取り戻したは、薄っすらと瞳を開き訝しげに天井を見上げている。

「・・・気がついたの?」

「綾子・・・?」

自分の状態が解っていないのか、眉間に皺を寄せて自分を見上げるを見下ろして、綾子はホッと安堵の息を吐いた。

「あんた、大丈夫?随分魘されてたみたいだけど・・・」

「・・・やってもやっても課題が終わらない夢見た。リアルに怖かった」

「・・・あんたねぇ」

ゆっくりと身を起こして、本当に怖かったのか額の汗を拭うマネをするを半目で睨みつけながら、綾子は深々とため息を吐き出す。

もしかするともう目を覚まさないんじゃないかと思うほど静かに眠っていたを見ていた綾子としては、心配して損した気分を拭い去れない。

「もう、前回も今回も無茶ばっかりして・・・心配するこっちの身にもなりなさいよ」

それでもいつも通り元気そうなを見て、やはり安心するのは確かだ。

飄々としているの頭を軽く小突けば、綾子の心配そうな表情に流石に申し訳なく思ったのか、困ったように微笑んでありがとうと小さな声で呟く。

「それで身体の調子は?どこかつらいとこはない?」

「う〜ん・・・特には。まだちょっと身体が重いけど、それはこの家に来た時よりもマシになったし・・・。っていうか、なんで私ここで寝てるの?」

「覚えてないの?」

疑問を疑問で返されて微かに憮然とするも、綾子の心底驚いたと言わんばかりの表情に気圧されたは、渋々といった様子でしっかりと頷く。

綾子はそんなを見て少しだけ考え込むも、すぐに大きくため息を吐いて事の経緯を説明してくれた。

今回の事件の犯人が人間ではなく霊の可能性が高いと判断したナルは、綾子の祈祷に合わせてへ霊視を依頼した。

霊の動きを一番確認しやすくなるのは、こちらからの干渉があった時だ。

綾子の祈祷がどれほどの効果を生むかは解らないが、ちょうど良い機会だと踏んでの事だとは思っている。

そうして予定通りに綾子の祈祷が始まってから、は霊視をするべくあらゆる霊に関する事柄からの干渉を阻んでいるブレスレットとピアスを取った・・・筈だ。

しかしにはそこからの記憶はない。―――目覚める前のの一番新しい記憶は、左手のブレスレットを外したところで途切れている。

「あたしは現場を見てないからなんとも言えないけど、どうもあんたはこの家の霊に憑依されたらしいわよ」

「・・・憑依」

「それで意識を失ったんだって。もう!祈祷を終わらせて戻ってみれば麻衣は真っ青な顔して混乱してるし、ぼーさんは呆然と固まってるし、ナルはナルで倒れたあんたを見て何か考え込んでるし・・・びっくりしたわよ!」

どうやら一番事態から遠くにいた綾子が率先して、意識を失っているをこうして落ち着けるところへ運ぶ指示を出してくれたらしい。―――発言は薄情そうに聞こえても、実は一番頼れる人物であるのかもしれないと、はぼんやりと綾子を見上げてそう思った。

「あんたが寝てる間も大変だったのよ?キッチンから火が吹くわ、麻衣がそこの窓から子供の影を見るわ、礼美ちゃんって子の叫び声に応えるようにポルターガイストが起きて典子さんが怪我しそうになるわ・・・。しかも子供部屋の温度が氷点下よ、氷点下!」

話している内に少し興奮したのか、綾子はベット脇の椅子に座ったまま足を組みなおし、そうして腕まで組んで声も荒くそう話す。

それをじっと見ていたは、ハァ・・・と大きくため息を吐き出して。

「綾子、また除霊に失敗したんだ」

「煩いわよ!!」

脱力交じりに返って来た言葉に、痛いところを突かれたのか・・・綾子は噛み付く勢いでそう怒鳴る。

それを軽くあしらい、はそのまま寝てしまったせいで皺になった服を手で伸ばしながらベットから抜け出した。

「綾子、とりあえずベースに行こうよ。もう大丈夫だからさ」

「・・・解ったわよ。どうせナルにあんたの意識が戻った事報告しなきゃいけなかったしね。―――ぼーさんたち、ものすごく心配してたわよ」

怒鳴る自分を気にした様子もなく飄々とそう申し出たを見返して、綾子は反論を諦めてそう同意した。

まだそれほど長く一緒にいたわけではないが、どうにもは扱いづらい。

パッと見は普通の女子高生と変わらないように見えても、考え方や価値観がそうではないような気もする。

妙に大人びていると思えば、子供じみた意地を張る時もあった―――そのアンバランスさが、という人間の本性を上手く隠しているようにも思える。

麻衣のように直接感情をぶつけてくるわけでも、真砂子のように真っ向からケンカを売っているような棘のある発言をされるわけでもない。

先ほどの綾子の反論をあっさりとあしらったように、まさに暖簾に腕押し・柳に風といった形容詞がピッタリと当てはまるような飄々としてマイペースなイメージのあるは、綾子にとっては苦手な部類の人間に違いない。

それでも綾子がを嫌いになれないのは、彼女の懐っこい犬のような態度のせいかもしれないとそう思う。―――どちらかといえば、は犬というよりは猫のようだけれど。

「さ、綾子。行くよ行くよ!」

「さっきまで寝てたのは誰よ」

どうやら体調は本当に良くなったのか、戸口でひょこひょこと手招きをする、この家に来て初めて元気な様子のを見詰めて、綾子は苦笑を零しながらも立ち上がった。

 

 

「おはよ〜ございま〜す」

!?」

呑気な声と共に緊張感のない何食わぬ顔でベースに姿を現したに、待機していた滝川と麻衣は椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。

「もう大丈夫なの!?」

「あ〜、なんとか」

倒れる前と何一つ変わらない様子で笑うに、2人はホッとしたような・・・けれど複雑そうな表情を浮かべる。

あの現場を見ていない綾子はともかく、その場に居合わせた彼女たちにしてみれば、そのあまりの差になんと声を掛けていいのか解らない。

それよりもキッチンから火ぃ吹いたんだって?と緊張感の欠片もない発言にも突っ込めず、気まずげにお互いの顔を見合わせる滝川と麻衣の姿に気付いたらしいは、困ったように視線を泳がせその焦点を無言で自分を見詰めるナルへと合わせた。

「何があったのか・・・は、まぁ大体予想はつくけど。確かビデオ撮影してたよね?」

「見るか?」

「ぜひとも。自分の身に何があったかくらい把握してないと、コメントしづらいもんで」

そう言って苦笑を浮かべるを見返して、ナルは小さくため息を吐くとモニターから目を外さないリンへと声を掛けた。

「リン、テープを再生してくれ」

「・・・はい」

ナルの命令に、リンは避けておいたテープを機材へとセットする。

ふと誰もが口を噤んだ。

奇妙な沈黙の中、機械の動く音だけが妙に大きく耳に届く。

なんとも言えない張り詰めた空気の中、静かに再生されたテープが問題の場面をモニターに鮮明に映し出していた。

 

 

カメラの前に鎮座して祈祷を始めた綾子の姿をモニターで見ていたナルが、真剣な表情のままゆっくりと振り返る。

「準備はいいか?」

掛けられた静かな声に、は強張った表情のままコクリと1つ頷く。

思わず唾液を飲み込んだ音が妙に大きく響いた気がして、それを紛らわせるように朗々と祝詞を読み上げる綾子の姿を目に映し、大きく深呼吸を1つ。

心配そうに自分を見る滝川と麻衣へニコリと微笑みかけて、無言でカメラを回すリンへ合図を送るように視線を向けると、は左手のブレスレットに手を掛ける。

集まる視線と身体に圧し掛かる緊張を振り払うように、は躊躇いなくブレスレットを外した。

そして、変化はそれと同時に訪れた。

ブレスレットを外した体勢のまま、深く俯いた。―――彼女の長い黒髪が、カーテンのように彼女の表情を周囲の目から隠す。

「・・・?」

麻衣の訝しげな声が室内に響く。

外されたブレスレットが、乾いた音を立てて床に落ちた。

「・・・おい、どうし」

「・・・っ!!」

心配げな滝川の声が、最後まで発せられる事はなかった。

躊躇いがちに伸ばされた滝川の右手が、戸惑ったように宙を掻く。

「・・・ひぅっ!」

思い切り空気を吸い込んだ、引き攣った声。

それが合図だったのか・・・―――直後、弾かれたようには大きな泣き声を上げた。

自らの頭を抱え込んだの手が、はっきりと震えているのが見える。

「ひあああぁぁぁぁぁぁぁぁあああ!!」

号泣、と呼んでも差し支えないほど。

悲しみと、恐怖と、諦めがない交ぜになった悲痛な泣き声。

嗚咽の合間に、『たすけて』『かえりたい』と掠れた声で小さく呟く。

「・・・リン!」

「はい」

ただただ泣き続けるを見ていたナルが、唐突にリンへと声を掛けた。―――それに即座に反応したリンは、撮影していたビデオカメラを傍らに立つ滝川へと渡し、そうして迷う事無くの元へと歩み寄り、蹲る彼女へと手を伸ばす。

その、直後だった。

先ほどまで鳴き声を上げていたがピタリとその動きを止め、俯けていた顔をゆっくりと上げる。

「・・・っ!?」

を心配そうに見つめていた麻衣が、声にならない声を上げた。

ゆっくりと向けられる瞳。

それは先ほどまでとは明らかに違う、常軌を逸した光が宿っている。

「・・・・・・」

暗い、淀んだ眼差しで麻衣を・・・そしてその向こうにいるナルを見据えながら、は小さな声で何かを呟いた。

それを認めた瞬間、の傍らでその一部始終を見ていたリンが、バンバンと力強くの背中を数回叩く。

それにビクリと身体を強張らせたは、しかし次の瞬間には身体中から力が抜けたのか、クタリと自分を支えるリンへ寄りかかった。

涙に濡れた頬に張り付く黒髪を払ってやりながら、リンは無言で顔を上げる。

そこには難しい顔をしてを見詰める、ナルの姿があった。

 

 

すべての記録を流し終えたテープは、今はただモニターに砂嵐を散らすだけ。

誰の目から見ても常軌を逸した自分の姿を真剣な眼差しで見詰めていたは、張り詰めた空気の中小さく息を吐き出した。

「・・・あ〜、っと」

しかし言うべき言葉が見つからず、困り果てて意味を成さない声を絞り出す。

これを直接見ていたから、滝川も麻衣も様子が可笑しかったのか。

ビデオを見た一番最初の感想は、実の所はそれだった。

そりゃついさっきまで普通に会話していた相手が突然こんな形で変貌すれば、誰だって戸惑いもするだろう。―――自身だって、それを目の当りにしたならばどうコメントしていいやら困ってしまう筈だ。

「え〜っと・・・私がこんな事言うのも変だけど、まぁ・・・あんまり気にしないで」

いや、気にするよ!と自分自身に突っ込みを入れながら、はどんな表情をしていいやら解らず苦笑を浮かべる。

「今更言うのもなんだけど、あんまり珍しい事でもないし・・・」

「えっ!?」

何とか場を盛り上げようとそう言葉を続ければ、麻衣が目を瞠って驚きの声を上げる。

それに同じく呆気に取られた表情を浮かべていた滝川が、少しだけ頬を引き攣らせながら言葉を捜しつつ口を開いた。

「珍しいことじゃないって・・・」

「あー、うん。言ってなかったけど、私って降霊が得意なんだよねっていうか意図せず降霊しちゃうっていうか」

「・・・は?」

「つまり、霊の密度・・・密度?まぁ、いいや。霊の密度が高いところで霊視しようとすると、大体半分の確立で降霊しちゃうの。降霊っていうより寧ろ取り憑かれてるっていう方が正確だけど」

一気にそう言って、まいったよね〜と乾いた笑みを漏らすを、滝川と綾子と麻衣は呆然と見詰める。

それはまいったなどという言葉で片付けられる問題ではないのではないかとも思うが、あいにくとそう突っ込める雰囲気ではない。

「お前・・・それ、大丈夫なのか?」

あっけらかんとした様子で笑うに、他人である滝川の方が心配になりそう声を掛けるが、しかし当の本人は部屋の中にある椅子に腰を下ろして大げさにため息をついてみせるだけ。

「大丈夫か大丈夫じゃないかって言われると明らかに大丈夫じゃなさそうだけど、まぁ今のところ大事には至ってないからそういう意味で言えば大丈夫なのかもね」

「そんな暢気な・・・」

「ま、一応これが仕事ですから」

あっさりとそう言い切って、はまたもやため息を漏らす。

もとより、月華となったに拒否権はないのだ。―――そもそも月華になる事自体にに拒否権はなかったのだから、そこらへんは理不尽な気がしないでもないが。

それでもは、きっと心の一番奥のところで信じているのだ。

自分のボスである一清は、の身に本当に危険な事を強要しないと。

なんだかんだ言いつつ、一清はいつでもを守ってくれた。

本来ならば自分が彼を守らなければならない立場にいる事は重々承知しているが、少なくとも今は、彼と自分の関係はそれでうまく行っていると思っている。

そんな一清が、どういう意図があるのかは定かではないけれど、ナルの助っ人要請に許可を下したのだ。

それは仕事の内容がに本当に危険を及ぼさないものだと判断したからなのか、それとも何があってもナルが責任を持っての身を守ると判断したからなのかは解らないが。

「・・・それで、

心配そうな顔でへ更に何かを言おうと口を開いた滝川を遮って、ナルは静かな声色でそう話を切り出した。

そちらへと視線を向ければ、いつもと変わらない無表情でを見つめるナルと目が合う。

「ん〜・・・?」

「霊視の結果は?何か見えたか?」

抑揚のない声で声を掛けられ、は深く眉間に皴を寄せながらう〜んと小さく声を上げた。

「あんまりよくは覚えてないんだけど・・・」

「ああ」

ナルの相槌の声を聞きながら、は己の中でぐるぐると渦巻く感情を1つ1つ思い出しながら口を開いた。

「怖い・・・悲しくて、寂しい。苦しい・・・」

先ほど綾子にも言った通り、霊視の最中の事はほとんど覚えていない。

しかし思い出そうと考えれば考えるほど、不可解な・・・けれど身に覚えがある感情が次から次へと湧いて出てくるのを感じた。

上げられる負の感情を表す単語の数々に、その場に居た全員が痛ましげに眉を寄せる。

あのビデオに映っていたの様子を見ていれば、その感情のすべてが当然の事のように思えた。

それほど、あの時のは絶望をその身に表しているように見えた。

「それはどういう意味だ?何が怖い?何がお前を苦しめた?」

「・・・よく、解らない。だけど・・・」

静かな声で質問を繰り返すナルの声に目を伏せて、は表情を歪ませて言葉を濁す。

そんなの様子に、これ以上思い出させるのは可哀想だと麻衣が抗議の声を上げようとしたその時。

「だけど・・・憎かった」

ぽつり、とその場に落ちた言葉に、麻衣はのどまで出掛かった言葉を飲み込んだ。

滝川が訝しげに首を傾げる。

そんな中、の言葉に僅かにだが反応を見せた人物がいた事を、ナルは見逃さなかった。

「どうした、リン。何か心当たりでも・・・?」

ナルのその声に、全員が目を丸くしてモニターと向かい合うリンへと視線を向ける。

いつの間にかリンは僅かに椅子を回し、ポツリポツリと話すを見つめていた。

「霊に憑依されていた彼女を正気に戻すその直前、彼女は言いました」

それはビデオの最後に映っていた光景の事だろうとは思う。

自分でもよく憶えていない為、あの時自分が何と言っていたのかは自身も知らない。

声が小さすぎた為か、音声も録音されてはいなかった。―――唇の動きを読もうにも、距離がありすぎてよく解らない。

それをあの時真近にいたリンは聞いていたというのだろうかと、ナルは改めてリンへと視線を向けた。

「何と言っていた?」

シンと静まり返った室内に、誰かの唾を飲み込む音が聞こえた気がした。

「・・・かえして、と」

「・・・・・・」

「あの時彼女は、かえして、と言っていました」

それがどういう意味なのかは解りませんがと付け加えて、リンはへと視線を向けたまま口を閉じた。

「・・・かえして?」

「どういう意味だ?」

「いや、だから覚えてないってば」

すぐさま質問を投げ掛けてくるナルに苦笑交じりにそう言って、は自分に集まる視線に居心地の悪さを感じながら、考え込むように視線を泳がせる。

かえして、ねぇ・・・。―――それが『返して』なのか、もしくは『帰して』なのか。

どちらにしてもあまり良い意味ではなさそうだ。

加えてそう呟いた時のの表情を思えば、それが負の感情を宿しているという事は明白だった。

ともかく、こんな結果だけでは真実は解らない。―――唯一はっきりしている事はといえば、この家に霊が存在する・・・という事くらいか。

「なんなら、もう一回やってみる?」

本音を言うならば、是非辞退したいところだけれど・・・と心の中で呟いて、それでもはそれを表情に出す事もなく、さらりとそう提案した。

今回の自分の仕事は、ナルの助っ人だ。

真砂子がいるならばともかく、今ここにいる人物の中で霊視が出来る人間はしかいない。―――ならばそれをするのが、自分の役目なのではないかとは思う。

最初にこの家に来た時と比べて、今は大分気分も楽になっていた。

それは霊視をしたからなのかどうかは解らないけれど、少なくともこの空気に少しではあるが慣れてきたのだろうと今までの経験から判断した。

こう見えて、順応性は高いのだ。

だから今度の霊視では、もしかするともっとはっきりとした事が解るかもしれない。―――まぁ、やってみなければ解らないが・・・。

しかしそんなの申し出は、ナルの控えめな否定の言葉であっさりと却下された。

「いや、止めておこう」

「・・・え、なんで?」

願ったり叶ったりの返答だったのにも関わらず、は思わず目を見開いて身を乗り出した。

確かにあのビデオに映っていたの状態を見れば、二の足を踏んでしまうのも仕方がないことのように思えたが、それでもあのナルの事だから、てっきり二つ返事でGOサインを出すと思ったのだけれど。

おそらくはそう思っていたのはだけではないのだろう。―――滝川と麻衣、綾子がそれぞれ顔を見合わせて訝しげな表情をしているのを尻目に、ナルは今もまだ砂嵐を流し続けるモニターへと視線を向け、そうして改めての腕につけられているブレスレットを見つめてうっすらと瞳を細めた。

「これ1つ外しただけで、この反応。―――彼の言っていた通りだな」

ポツリと漏れた呟きに、滝川が不可解だと言わんばかりの面持ちでナルへ視線を向ける。

「彼?彼って誰だよ?」

の上司。―――家の当主だ」

さらりとナルの口から流れ出た名前に、滝川たちだけではなくまでもが目を丸くした。

勿論自分が一清に言われてここにいる時点で、彼とナルとの接触は当然の事だとは思っていたけれど・・・。―――自分の上司は一体どこまでナルに話したのか・・・底が見えない相手だけに、判断が付きかねるところが非常に辛い。

しかしナルは周りのそんな反応も当然の事のようにさらりと流して、改めてを見据えて呟いた。

「彼女の協力を依頼した際、彼女の能力とその対処法についてしっかりと釘を刺されていたんだが・・・。―――まさかこれほどとは思っていなかった」

言葉通り、ナルにとっても予想外・・・もしくは彼の想像を超えていたのだろう。

そうでなければ、彼が自分が認めるほどの失態を侵すはずがない。

それと同時には1人感心していた。―――あんなにも自分勝手な自分の上司が、それでも自分の身の安全くらいは考えてくれていたという事実に。

「これが彼女本来の能力の高さなのか・・・それともこの家の霊と酷く相性が良すぎるのか・・・。どちらにしても非常に興味深い人物ではあるが、彼女の身体に掛かる負担を考えると、これではあまり多用は出来そうにないな」

ため息混じりに吐かれた言葉に、はきょとんと目を丸くして。

それって、要するに・・・?

「ともかく、の霊視はひとまず中止だ。僕が許可を出すまで、そのブレスレットとピアスを外す事は禁止する」

「じゃあ、私ってこれからどうする・・・」

「リンの補佐に回ってもらう」

えぇー、と心の中だけで感情の篭らない声を上げて、はチラリと横目でリンを見る。

しかし当の本人であるリンは、ナルの言葉など聞いていないのか流しているのか、黙々とモニターへ視線を注いだまま振り返る様子もない。

「・・・あの〜、補佐ってなにすれば」

「リンに聞け」

ばっさりと切り捨てられ、は途方に暮れた様子で麻衣を見やる。

別にリンが嫌いなわけでも、機械が苦手なわけでもない。

ただ、なんというか・・・あのリンから発せられる強い拒否のオーラと対峙しなければならないかと思うと、気が重いというかなんというか。

ご愁傷様とばかりに手を合わせて拝まれてしまい、は諦めのため息とともにがっくりと肩を落とした。

ほんと、これからどうなるんだろ・・・。

リンに向かって「よろしくお願いします」と笑顔を浮かべて挨拶し、しかしいともあっさりとスルーされてしまったは、部屋に満ちる微妙な空気の中そんな事を考えた。

 

 

◆どうでもいい戯言◆

とりあえずこの章のお話の最重要ポイントは、リンさんと仲良くなろう!ですから。

といいつつリンさんほとんど出番がありませんが。(だってリンさん、お話に積極的に関わってこないし)

とりあえずなんとかかんとか、仲良くさせたいと思います。

作成日 2007.9.24

更新日 2007.10.23

 

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