刺すような太陽の光。

足元から這い上がってくるようなアスファルトの熱を感じつつ、大学構内にあるカフェの一角を陣取っていたは、堪らないというようにテーブルに突っ伏した。

「・・・あっつい」

「暑いですねぇ」

小さく漏らした言葉に安原の同意が返ってくるが、その声色はなんとも言えず涼しげで、は不機嫌そうに眉を寄せた。

同じように彼も暑いはずだというのに、この差は一体なんなのか。

それでもゆっくりと身を起こし、何とか涼を取ろうと持参したうちわで扇ぎながら、送られてくる熱を含んだ風に更に眉間に皺を寄せつつも、は気を取り直して口を開いた。

「もうすぐ夏休みだけど、安原くん何か予定は?」

「予定、ですか?バイトをするつもりだけど」

「バイト?バイトってまさか・・・」

ふと嫌な予感に襲われ、は僅かに身を逸らせて安原を見やる。

夏といえば、怪奇現象の定番である。―――SPRでバイトのような事をしている安原を知っている身としては、関連性を疑ってしまうのも仕方がない。

そうなれば自分だとて無関係ではいられないだろう。

そういう意味を込めて視線を送れば、安原は困ったように笑みを浮かべて。

「違うよ。沖縄でホテルのボーイのバイトがあるって紹介されてね。なんだか楽しそうだし、やってみようかなと・・・」

「あー、そういう事」

安原の説明にホッと安堵の息を吐き出して、は椅子の背もたれに身体を預けた。

言われてみれば、この世にはバイトなど腐るほどあるのだ。―――SPRとて手広く仕事を請け負っているわけでもないのだし、そうそうこちらに助っ人の申請が来るはずもないだろう。

「それで、は?夏休みの予定」

「予定、ねぇ。・・・特に何があるわけでもないんだけど」

自分で言っていて悲しくなってきた・・・と、はがっくりと肩を落とす。

「いいねぇ、安原くん。なんか大学生活満喫してるって感じで」

「なんならも一緒に来る?」

「あら、そんな事言っていいんですか?私が一緒だと綺麗なおねーさんたち引っ掛けられませんよ」

「あはははは、相変わらず手厳しいなぁ」

からかうような笑みを浮かべるを見返して、明るく笑い声を零す安原。

これは彼女たちの日常風景。

それは、夏休みを目前に控えたある日の出来事。

 

わりゆくもの

 

「んで、結局はここに入り浸る事になるんだから、私も進歩しないっていうかなんていうか・・・」

クーラーの効いた室内で、麻衣に入れてもらったアイスティーに口をつけながら、はぼんやりと天井を見上げて独りごちる。

夏休み前までは、安原との会話もあってどこかへ出かけようかと考えてはいたけれど、それらは具体的な計画にまで発展する事無く、旅行のパンフレットと共に部屋の隅に追いやられていた。

そうして家にいても退屈を持て余していたが訪れたのが、ここ・・・渋谷サイキック・リサーチ、通称SPRの事務所なのだ。

ここにくれば、少なくとも麻衣はいる。

ひっきりなしに仕事が舞い込んでくるようなところでもない為、きっと麻衣も退屈しているだろうと自分自身に言い訳をしながら、は罪悪感を払拭させるためのお土産を持ってここへ来たが、そこで対面した2人の人物を認めて思わず乾いた笑みを浮かべた。

おなじみ、自称巫女の松崎綾子と、元高野山の坊主である滝川法生である。

どうして2人がここへ来たのか・・・という疑問は、発せられる前にノドの奥に押し込められた。―――聞かなくとも、どうせ暇を持て余していたのだろう。

そこの辺りはも同じなので、下手に突っ込むと痛い目に合いそうだが。

「えーっ!ナルってばまた旅行!?」

現在の自分の状況についてを漠然と考えていたは、不意に上がった綾子の声にハッと我に返った。

天井を仰いでいた視線を戻せば、綾子と滝川は不思議そうな顔をして麻衣を見つめている。

その視線を受けて、2人の分の飲み物を淹れて戻ってきた麻衣がきょとんとした様子でコクリと頷いた。

「うん、今日帰ってくるって言ってたけどね。―――意外に旅行好きだよね、ナルって。しょっちゅう出かけるもんね」

「んで、リンさんは今日もおこもりですか。相変わらずだよねぇ、リンさんも」

チラリと資料室に視線を向けるも、そこには何の反応もない。

少しくらいお茶に付き合ってくれてもいいんじゃないかと勝手な事を思うけれど、仕事の邪魔をするつもりもない為、あえて声を掛けるつもりはなかった。

まぁ、後でお茶でも差し入れすればいいだろう。―――放っておけば、ずっとモニターと向かい合っていそうだ。

「それにしても、ナルが旅行ねぇ・・・。まさか観光目的じゃないでしょ?」

「実は温泉好きで秘湯探検とかだったりしてな」

麻衣からアイスコーヒーを受け取った滝川が、礼と共に笑いながらそう呟く。

それに全員がムッツリと黙り込み、それぞれ想像力を働かせた。

温泉好きで秘湯探検をするナル。

「・・・うわ、めちゃくちゃ違和感ある」

「だよねぇ。想像力が拒否反応起こしそう・・・」

お互い顔を見合わせて、乾いた笑みを浮かべる。

ナルにだって趣味の1つや2つくらいあっても可笑しくはないが、あの警戒心の強そうなナルが人前で服を脱ぐという行為自体しそうにない。

「でも見てみたいよね。カメラもって観光地に立ってるナル。絶対周囲から浮きまくってそうだけど」

「ぶっ!ちょ、やめてよ、!!」

思わず噴出しかけて文句の声を上げる麻衣を他所に、は涼しい顔でアイスティーを口へと運ぶ。

絶対にありえない光景ではあるだろうが、想像するくらいは自由だ。―――まぁ、現実離れしすぎていて想像が追いつかないという難点はあるけれど。

そんな麻衣とのやり取りを横目に見ていた綾子が、紅茶を口元へ運びつつ小さく息を吐き出した。

「なんにしても、結構なご身分よねぇ」

「・・・たしかに」

夏休みの旅行はどこもお値段が高めなのだ。

そんな時期にふらりと旅行に行けるナルを、少しだけ羨ましいと思う。―――何せの旅行計画が現実化しなかった原因は、そのお値段にあるのだから。

綾子と顔を見合わせつつそう話していると、不意に事務所の電話が声を上げた。

それに何気なく視線を向けて・・・―――しかし一向に麻衣が手を出さない事に気付いて彼女へと視線を移せば、当の本人は何食わぬ顔でソファーに腰を下ろしている。

「おい、電話だぞ」

「あー、いいの。留守電になってるから」

それを見かねた滝川がそう告げるも、それでも麻衣は慌てた様子なくサラッとそう返す。

それに3人が呆気に取られたような表情を浮かべると、流石の麻衣もその違和感を感じているのか少し困ったような面持ちで口を開いた。

「だって電話に出ちゃだめって言われてるんだもん。郵便物も触っちゃだめだって。リンさんがチェックしてから〜って」

麻衣の口から零れる真実に、と滝川は呆気に取られたように視線を交わした。

一応麻衣の仕事は事務職だろうと思えるのに、電話の対応も郵便物の選別もだめなら、一体何のためのバイトなのか。

そう思うのはや滝川だけではないらしい。

「バイトってそーゆー雑用の為にいるんじゃないの?あんたここで何やってんのよ」

持っていたカップを乱暴にテーブルに戻した綾子が、驚きに目を丸くしてそう問い掛けた。

それに考え込むように視線を飛ばして、麻衣は指を折りながら日々の仕事を思い出す。

「ん〜、調査員かな、一応。それから接客と、お茶淹れたり・・・掃除したり・・・。あ、でも所長室は掃除した事ないなぁ。立ち入り禁止だから」

「って事は、所長室の掃除はナルがしてるって事?ナルが掃除機かけてたりするの?―――うっわ、ちょっと見てみたいかも」

「いや、注目するのはそこじゃねーだろ」

控えめに突っ込みを入れられ、しかしは不満そうに滝川を見やる。

その目には、だって気になるでしょ?という色がありありと浮かんでいる。

いや、確かに気になるけど・・・と言う言葉を飲み込んで、滝川は更に質問を続ける綾子へと視線を向けた。

「そんなヌルイ仕事で給料どのくらいもらってるわけ?」

確か以前、麻衣はSPRのバイトをするようになってから生活が潤っていると言っていた。

一般的に、普通の学生のバイトの値段などたかがしれているだろう。―――そんな麻衣が潤うと殊更強調するくらいなのだから、きっと破格な値段には違いない。

しかしだからといって、先ほど聞いた仕事内容ではそんなバイト代が出るようには思えなかった。―――まぁ、調査の時はさておき。

僅かに身を乗り出した綾子の問いに、麻衣は小さく唸り声を上げて。

「調査のある月とない月とでは違うけども・・・平均で安いOLくらい、かな」

そうしてさらりと告げられた答えに、3人は大きく目を見開いた。

「じょーだんでしょ!?」

「渋谷なんて一等地にこのオフィス、家賃いくらだと思う!?それでバイト代がOLの給料なみ!?」

「ちょっと、麻衣。もしかしてナルに騙されてるんじゃないの!?その内どっかに売り飛ばされちゃったりするんじゃ・・・!!」

綾子や滝川はともかく、にいたっては酷い言い草である。

しかしそう言わせるほど、現実的にはありえないのだ。

「仕事の依頼だってガンガン入るわけじゃないし、そのほとんども断っちまうし。依頼料も志納ってやつだろ?儲かってるとは思えないし、どういう金銭感覚してんだ、ナル坊は」

気の向かない仕事は一切しないという徹底振り。

かといって、お金に困っているという様子は一切ない。

「でもほら、お父さんが大学教授なんでしょ?お金持ちなんじゃ・・・」

「ないない。大学教授なんてそんなに実入りのいい商売じゃないぞ」

「ま、確かに」

滝川の言葉にひっそりと同意しつつ、はアイスティーをコクリと飲む。

の通う大学にも、勿論だが教授と呼ばれる人がいるけれど、その誰もが金持ち然としているわけではない。

教授という職業でどれくらいの給料をもらっているのかはには解らないが、それだって他と比べて群を抜いて良いというわけでもないだろう。

「じゃあ、もともと金持ちとか・・・」

3人の猛反撃を食らい、ちょっと引き気味になっていた麻衣が何とかつじつまを合わせようと口を開く。―――しかしそれと同時に、何の前触れもなく事務所の戸が開いた。

カランという軽い鈴の音を立てて、見慣れた人物が入ってくる。

夏だというのに全身黒で統一した、見た目から暑苦しい事この上ない姿をしているナルが、疲れた様子で事務所へと足を踏み入れた。

「あ、ナル、おかえり〜」

「よう、お邪魔してるよ」

明るい麻衣と滝川の声にチラリと視線を向けて、しかしナルはそれ以上何を言うでもなくそのままスタスタと所長室へと足を向ける。

そうして呆気に取られる面々の前で、最後まで何も言葉を発する事無く音を立てて所長室の扉が閉められた。

「・・・なんかいつにもまして機嫌悪くない?」

「帰ってきた後はいつもあんな感じだよ」

所長室にいるナルに聞こえないようにと声を潜める綾子に釣られて、麻衣もまた小さな声でそう答える。

「へ〜。旅行に行って毎回不機嫌な顔して帰ってくるって珍しいよね。嫌なら行かなきゃいいのに」

、声大きいよ!」

の言い分ももっともだが、だからといってそれがナルに通用するとはとても思えない。

所長室とは扉一枚隔てているだけなのだ。―――聞こえでもすれば、ナルの機嫌は更に下降すること間違いない。

瞬時にそう判断し止めに入ろうとした麻衣が立ち上がりかけたその時、再びカランという軽い鈴の音と共に事務所の扉が開かれた。

「あっと、いらっしゃいませ」

立ち上がりかけた麻衣は、条件反射のように視線をから扉へと移し、慌てて来客を出迎えるべく振り返る。

今度はジョンでも来たのかなと楽観的に考えていたは、しかし扉を押し開けたまま不安げに立つ青年と幼い少女を認めて、慌てて居住まいを正した。

「・・・あの、こちらは・・・その、所謂霊能者さんですよね」

「あ、はい。ご相談ですか?」

依頼主の来訪に、普段から対応している麻衣はきびきびとした動きで青年と少女を中へと促した。

そうして彼らをソファーに促す麻衣の動きに従って立ち上がったは、チラリと所長室に視線を送って・・・。

「・・・穏便に済めばいいけど」

機嫌が悪いナルを思い出してはそう独りごちると、小さくため息を吐き出した。

 

 

やはりナルは客を前にしても、その態度を改めるつもりはないらしい。

いつもよりは不機嫌な様子を抑えてはいるが、普段から威圧的な雰囲気を放っているためあまり効果はなさそうだ。

そんな中で、幼い少女を連れた青年は自らを吉見彰文と名乗った。―――少女は彼の姪で、名前は葉月というらしい。

「診ていただきたいのはこの子なんですが・・・」

彰文は不安げな様子で俯いたまま彼の服の裾を握り締めている葉月を見下ろし、こちらも暗い表情のままそう告げる。

しかしナルは最初からあまり乗り気ではないらしく、素っ気無い声色で言い放った。

「・・・病気の治療なら病院に行くべきだと思いますが」

そんなナルの言葉に、葉月はビクリと身体を震わせる。

「びょういん、きらい」

「大丈夫。病院には行かないからね」

必死な様子でそう言い募る葉月に優しく微笑みかけて、彰文は安心させるようにそう告げた。

それを見ていた滝川が、仕方がないとばかりに口を開く。

「ナルちゃんよ、診るぐらいいいじゃねーか。そんな大した手間じゃないんだし」

「そうだよ。それに病院で事が済むと思えるくらいなら、わざわざ霊能者のところになんか来るわけないでしょ。病院と霊能者じゃ、霊能者の方が圧倒的に胡散臭いんだから」

身も蓋もない言い草ではあるが、事実は事実だ。

よほど心霊現象に傾倒しているのでなければ、大抵はまず病院に足を向けるだろう。

そうせずこういった場所に足を向けるという事は、常識的に見ても普通ではないのだろう。

滝川の発言に便乗してそう告げたをジロリと睨み付けたナルは、しかし彰文の「お願いします」という言葉に諦めたようにため息を吐き出した。

「・・・解りました」

「すみません」

そんなナルの態度に申し訳なさそうに頭を下げた彰文は、しかし気を取り直したように表情を引き締め、そうして改めて葉月を見下ろして僅かに眉を寄せた。

「まず、これを見ていただきたいんですが・・・」

そう言って彰文は、葉月の首に巻かれた包帯に手を伸ばす。―――そうして現れた痣のようなものに、麻衣とは同時に表情を曇らせた。

葉月の小さな首に走る痣。

それはまるで首を切り落とすとでも言うように、まっすぐ横に走っている。

「よくある皮膚病のように見えますが?」

「それが少しも痛くも痒くもないらしいんです。これだけなら病院に連れて行ったんですが・・・」

まだあるのかと更に眉を顰めるの前で、彰文は葉月の服を僅かに脱がせる。

そうして露わになった小さな背中に走るたくさんの痣に、全員がはっきりと眉を顰めた。

「・・・な、にこれ。なんて書いてあるの?」

それはまるで、文字のようだった。

否、それはおそらく文字なのだろう。―――意味は解らなくとも、どんな字なのかがはっきりと見て取れる。

これが彰文の決断を揺るがせた原因なのだろう。

確かに、これをただの皮膚病だと片付けるには、あまりにも違和感がありすぎた。

「『喘月院落獄童女』」

「・・・ぜんげついんらくごくどうにょ?」

ポツリと零れた滝川の言葉に、が不思議そうに首を傾げる。

「・・・ぼーさん、それって」

「ああ。こりゃ、戒名だ」

痛々しい表情を浮かべて告げられた言葉に、思わず目を見開く。

「戒名って・・・死んだ人につける名前でしょう?」

「ああ」

戸惑った様子で問い掛ける麻衣に、滝川は1つ頷いて見せて。

「『喘月』ってのは、何かを恐れるのがバカなくらい度を越している事だ。『落獄』ってのは地獄に落ちるって意味だろう。『童女』は女の子につける」

「つまり、それって・・・」

「『喘月』の『月』は葉月から取ったんだろう。誰かが悪意でもってこの子につけた戒名だ。―――『このバカな子供は地獄に落ちるだろう』ってさ」

地獄に落ちる。

滝川からもたらされた情報に、全員が口を噤んだ。

悪意をもって、誰かが葉月へとつけた戒名。

しかしそれが痣となって現れるなど、普通では考えられない。

その方法がまったくないわけではないだろうが、誰かがそれを行うにしてもそんな面倒な方法は取らないだろう。

それ以前にそんな事をされれば、いくら幼いとはいえ葉月本人だって不審に思うはずだ。

では、一体誰が・・・?

は思いつめた表情を浮かべている彰文を見やり、痛ましげに眉を寄せる。

彼がどうして心霊事務所などに足を運んだのか、漸く理解できた。

これはただ事ではない。―――彼もそれを感じ取ったのだろう。

そうしてすべての事情を話し終えた彰文は、最後にもう一度お願いしますと言葉を付け加え、幼い葉月を伴って事務所を出て行った。

後に残されたのは、痛いほどの沈黙と空気。

「・・・ナル、あの子」

言いかけた言葉は、すべて発せられる事無くノドの奥に押し込められる。

それ以上は、口にしたくはなかった。

得体の知れない何かに、悪意に満ちた戒名を付けられた葉月。

このまま放っておけば、彼女の行く末は明るいものではないだろう。

それが解っていても、には何も言えなかった。

はSPRの所員ではないのだ。―――結論を下すのは、あくまで所長であるナルである。

「・・・今日はもうお引取りを」

固唾を呑んで答えを待っている面々を前に、ナルは素っ気無くそう言い放って席を立つ。

そうして所長室へと引き返すナルの背中を見つめながら、全員はなんとも言えない表情のままお互い顔を見合わせた。

「・・・どうなるんだろ?」

麻衣の不安げな声に返事を返す事も出来ないまま、は困ったようにため息を吐き出して。

「ナルがどうしても引き受けないっていうんなら、うちで何とかしてくれるように頼んでみるよ。―――まぁ、一清が相手じゃナルを相手にするのと大して変わらないだろうケド」

それでも、一見冷たく見えたとしても、ナルがそれだけの人間ではない事をは知っている。

「ま、後はナルちゃん次第ってとこだな」

「そこが一番難しいところだけどね」

気の乗らない仕事は一切引き受けないナルが、今回はどう出るか。

簡単に想像出来ない分、余計に不安が募るけれど。

だからといって、これ以上口を挟んで機嫌を損ねられても困るのだ。

滝川の言う通り、あとはナル次第。―――見守るしかないだろう。

そして・・・ナルが仕事を引き受けた時には、自分の夏休みがふいになる事も覚悟しておかなければならない。

「・・・夏は怪奇現象の定番だからねぇ」

夏休み前に安原とした会話を思い出して、は諦めたようにがっくりと肩を落とした。

 

 

「・・・はぁ」

ため息交じりで味噌汁をすするを新聞越しに見やり、一清は不機嫌そうに眉を寄せた。

いつもならば、『食事中に新聞読まない!』と口うるさく文句を言ってくるだろう相手が、辛気臭い顔で味噌汁をすすっているのだ。―――たとえ相手が気の長い人間だとしても、気にならないはずがない。

そして自慢ではないが、一清はそれほど気の長いタイプではなかった。

「・・・おい」

「ん〜・・・なに?」

「食事中に辛気臭い顔するのは止めろ。飯が不味くなる」

「私がどんな顔してご飯食べようと、私の勝手でしょ。―――そっちこそ、ご飯中に新聞読むの止めろって何回言えば解るのよ」

すぐさま倍になって返ってきた言葉に、一清は安堵したように息を吐き出す。

どうやらまったく調子を失っているわけではないらしい。

だからといって、やはりこの空気は歓迎できるものではなかった。―――普段から賑やかな人間が沈んでいると、それだけで気になるものである。

かといって、自分に誰かを慰められるとは思えなかった。

どちらかといえば、叱咤激励する方が自分には合っている。

せめて藤野でもいれば事情は変わってくるんだが・・・と一清がいつの間にか部屋に居ない藤野の姿を探したその時、当の本人がなんとも素晴らしいタイミングで広間に顔を出した。

「一清さん、お電話です」

口を開こうとした一清を遮って向けられた言葉に、彼の眉間に更に皺が寄る。

それでも一清はそれ以上何かを言うでもなく、諦めたようにため息を吐き出しながら緩慢な動作で立ち上がった。―――彼にとって藤野は心強い側近ではあるが、またもっとも敵に回してはいけない人物でもあるのだ。

そうして入れ替わりに部屋を出て行く一清の背中を見送って、藤野はチラリとに視線を向ける。

相変わらずぼんやりと何かを考え込む様子で、一心に味噌汁をすすっていた。―――しかし目の前の皿に盛られた料理にほとんど手がつけられていない事に気付き、困ったように笑みを浮かべて。

「・・・お口に合いませんでしたか?」

「・・・え?」

不意に掛けられた声に、はハッと我に返ると、心配そうに自分の顔を覗き込む藤野に気付いて、慌てて手付かずになったままの料理に手を伸ばした。

「そ、そんな事ないよ。藤野さんのご飯は美味しいし。うん、ほんと。いや、マジで」

「そんなに必死に弁解されると、誤魔化されてる気分になるんですけど」

慌てたようにパタパタと手を振りながら焼き魚に手を伸ばすを認めて、藤野は苦笑いと共にそう独りごちる。

そうして何食わぬ様子で新しいお茶を淹れた藤野は、静かにの隣に腰を下ろし、湯気を立てるそれを差し出しながらにっこりと微笑んだ。

「何か心配事があるのなら、私に話してもらえませんか?」

「・・・だから、別に」

「誰かに話すだけでも、すっきりすると思いますよ」

更にそう言い募られ、は困ったように視線を逸らす。

昔からそうなのだ。―――こういう時の藤野を相手にして、誤魔化しきれた例がない。

一清のような威圧的なものではないけれど、どこか抗いがたい雰囲気があるのだ。―――藤野という人間には。

「・・・実は、ね」

そうして今回も白旗を揚げたは、今日SPRの事務所であった事をポツリポツリと話し始めた。

SPRの事務所で話をしていた時、依頼主が来たのだという事。

そしてその依頼主が連れた幼い少女の首と背中にあった痣の事。

その痣が悪意に満ちた戒名であり、このまま放っておけば少女の命すら危ないだろうという事。

の中でも話が纏まっていないのか、幾分要領の得ない話し方ではあったけれど、藤野は言葉を挟む事無く最後まで彼女の話を聞いた。

そうして胸に引っかかっていたすべてを話し終えたが小さく息を吐いたのを見計らって、藤野は戸惑ったように口を開く。

さん、それで・・・さんはどうしたいのですか?」

「どう、って・・・」

「その葉月という少女を、助けてあげたい?」

「そりゃ、助けてあげられるなら助けてあげたいけど・・・」

弾かれたように身を乗り出すを目にして、藤野は僅かに目を細めた。

今までにはなかった反応。

これまでには考えられなかった様子。

怪奇現象に一番近い場所にいながら、もっともそれらから遠いところにいたはずのの確かな変化。

その変化を、喜ぶべきなのか。―――それとも・・・。

さん、あなたは・・・」

「・・・

迷いながらも口を開きかけた藤野の声を、今度は一清が遮った。

振り返れば、いつからそこにいたのか・・・―――悠然と腕を組みながら戸口に立っている一清を認めて、藤野は呆れたように息を吐く。

「・・・なに?どうしたの、一清」

「仕事だ」

キッパリと言い放たれた言葉に、しかしは驚いた様子も見せずに持っていた箸を置いた。

「それって、SPRからの助っ人要請?」

「そうだ。依頼内容は・・・お前は知っていると言っていたが?」

素っ気無い一清の言葉に、はコクリと頷く。

結局のところ、ナルは彰文の依頼を引き受ける事にしたのだ。

これで最悪の事態は免れるかもしれないと、は真剣な眼差しを一清へと向ける。

「いつから?」

「すぐにでもという話だ。出発は明朝」

「解った。すぐに用意する」

一清から話を聞き終えたは、ごちそうさまでしたと手を合わせて立ち上がると、言葉通り準備に取り掛かるのだろう・・・―――自室に戻るべく部屋を出ようとする。

そんなの腕をすれ違いざまに掴みながら、不思議そうな面持ちで振り返ったを見下ろし、一清は僅かに口角を上げて口を開いた。

「ほう。文句1つなしか・・・。珍しいな、どういう心境の変化だ?」

明らかに面白がっているのだろう。

意地の悪い表情を隠す事も無くそう告げる一清を見返して・・・―――そうしては気まずげに視線を落としながら、小さな声で呟いた。

「・・・もう、誰かのせいにするのはやめたの」

小さく小さく呟かれた言葉は、けれど離れたところにいる藤野の耳にも届いた。

そうしてスルリと一清の拘束から逃れるように去っていくの背中を見送って、一清は更に笑みを深めた。

「・・・まさかここまで効果があるとは思わなかったな」

「・・・一清さん」

くつくつとノドを鳴らして笑う一清を咎めるように、藤野が彼の名前を呼ぶ。

しかしそれすら気にした様子もなく、一清はチラリと藤野へと視線を向けて。

「なんだ?最初にこの策を提示したのはお前だろう?」

「それは・・・そうですが」

「そしてあいつは俺たちの望む変化を遂げた。―――何か不満か?」

そう言われてしまえば、藤野に反論の術はない。

これは自分が望んだ事なのだ。

そうしては彼の望む通りに成長した。―――そこに、何の不満もないはずだと言うのに・・・。

「一清さん、もしかしてそれは嫌味ですか?」

「嫌味・・・?」

「この策に、最後まで反対していたのはあなたですからね」

困ったようにそう告げる藤野を見返して、一清はなんとも言いがたい笑みを浮かべて目を閉じた。

もっと成長するべきだと思っていた。

この家で生きていく為には、それは必要不可欠だと。

それでもいつまでも手元に置いておきたいと思っていたのも確かで。

「一清〜!ちょっとお願いがあるんだけど!!」

2階から聞こえてくるの元気の良い声に、一清はゆっくりと目を開けて。

「・・・まぁ、成るようになるさ」

未だに心配そうな眼差しを向ける藤野に軽い口調でそう告げて、一清は表情を面倒臭そうなそれに変えると、なんだと2階に向けて声を上げた。

 

 

◆どうでもいい戯言◆

というわけで、呪いの家第1話をお送りしました。

いつも通り、意味ありげな会話が飛び交ってますが。

今回は前回ほど長くならなければいいんですけど。(希望)

作成日 2008.2.10

更新日 2009.2.18

 

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