「おい、!」

何かに揺さぶられる感覚に、はハッと目を開いた。

それと同時に頬を伝う涙に気付いて慌ててそれを拭おうとすると、優しい手が代わりにその涙を拭ってくれる。

「・・・大丈夫か、?」

「・・・ぼーさん」

ぼんやりとした視界に映るのは、心配そうに自分の顔を覗き込む滝川の顔。

気がつけば、綾子も真砂子もジョンも・・・―――そしてリンもまた、同じような顔をして自分を見つめている。

「・・・私、寝てたんだ」

解っていた事をポツリと呟いて、そうして深くため息を吐き出す。

そうして何故誰も彼もが心配そうな顔をしているのかと思い訝しげに視線を向けると、その視線を受け止めた滝川が戸惑いを含んだ声色で呟いた。

「お前、寝てたと思ったらいきなり魘されだしたもんだから、またなんか危ない夢でも見てるんじゃないかと思ってよ」

どうやら心配してくれたらしい。

何せには夢で仮死状態に陥るという前歴があるのだ。―――彼らが心配するのも、仕方のない事と言えた。

「ああ、うん。それは大丈夫。なんともないから」

「そうか?でもお前・・・」

言われてもう1度優しく頬を拭われる。

先ほど零れた涙が、まだ頬に残っていたらしい。

それに気付いて、は困ったように微笑むとそっと目を閉じた。

「大丈夫。ただちょっと、悲しい夢を見ただけだから」

 

遅れてきた

 

目の前でニコニコと笑顔を浮かべる青年を前に、は思わずため息を吐いた。

「・・・やっぱり来たんだ、安原くん」

夏休みに入って以来、初めて顔を合わせた直後の第一声に、安原は軽く眉を上げて首を傾げる。―――勿論、彼女の言葉をそのまま素直に受け取ったわけではないけれど。

「あれ?心外ですね。僕が来ちゃダメですか?」

「責任感じてるの。安原くんの連絡先、ぼーさんに教えたの私だから」

それでも言葉通り、わざと心外だと言わんばかりの表情を浮かべてからかい混じりにそう返した安原に向かい、は肩を竦めつつそう呟く。

確かに自宅にはいなかった安原と連絡を取ろうとするならば、その手段は限られている。

どうしても緊急に連絡を取りたい詳細な理由を彼の家族に話せない以上、安原の家族が素直に連絡先を教えてくれるとも限らないのだし。

だからこそ安原は、前以てに連絡先を教えていたのだ。

夏休みに入る時点ではSPRでの仕事はなかったようだが、長い夏休みなのだからこれからもそれがないとは限らない。

むしろ怪奇現象の本番とも言える夏は、霊能者にとってはかき入れ時のようにも思えた。

最もSPRが積極的に仕事をしようとするとは思えなかったし、夏になったからといって霊の活動が活発になるかどうかは解らないが。

それでも万が一に備えて、安原は訝しげに首を傾げるに有無を言わさず連絡先を渡したのだ。―――勿論本人は、その連絡先を使う日が来るとは思っていなかっただろう。

けれどはその連絡先を活用し、滝川という存在を経て今ここにいる。

ここまでの移動手段と距離と慌しさを思うとうんざりするが、安原がここにいるという現実は彼自身の選択なのだ。

その為に連絡先を渡していたのだから、が罪悪感を抱く必要はまったく無い。

そんな思いを込めてにっこりと微笑むと、もまた困ったように笑って・・・―――けれどすぐさまそれを悪戯っ子の笑みへと変えて、意味ありげな声色で口を開いた。

「それで?リゾートホテルのバイトは楽しかった?」

「まぁ、それなりに」

「なのに、それを放ってこんなトコまで怪奇現象体験しに来たのね。前から思ってたけど変わってるよね、安原くん」

おそらく心の底からそう思っているのだろうの表情を見て、安原は我慢できずに小さく噴出した。

確かに怪奇現象が嫌いと豪語するからすれば、安原の行動は不思議以外の何者でもないのだろう。

一応はバイトであるものの、バカンス的な雰囲気のあるそれを放り出し、あえて命の危険がある怪奇現象を選ぶのだから・・・―――まぁ、の感想もあながち間違ってはいないのだろうが。

「ま、とりあえず上がれや、少年。いつまでも玄関で立ち話もなんだし」

「そうですね、お邪魔します」

滝川の促しに、安原は素直に頷いて靴を脱ぐ。

そのままベースに向かえば、部屋を出る時には転寝をしていたはずの麻衣は既に目を覚ましていた。―――もしかすると、玄関から聞こえる声に気付いたのかもしれない。

そうして目を覚ましていた麻衣は、そこに立つ意外な人物を認めて驚きの声を上げた。

「安原さん!?」

「あ、谷山さん。どうも」

目を丸くする麻衣を前に、安原はいつもと変わらないにこやかな笑顔を浮かべる。

それに麻衣がホッと肩の力を抜いたのが解った。

あんな事があった後なのだから、精神的に張り詰めているのは当然だ。

そんな中でいつもと変わらない明るい笑顔を見る事が出来るというのは、思っていた以上に安心を生むものだった。

それは麻衣だけではなく、を含め全員がそうだろう。

「あの時ぼーさんが電話してた相手って、やっぱり安原さんだったんだ。今、着いたの?大変だったでしょ?」

どうやら麻衣は滝川が電話をしていた事を知っていたらしい。―――その言葉から、相手が誰なのかの確信はなかったようだが。

そんな麻衣の言葉に、安原は大きく息を吸い込み心の底から搾り出すような声で口を開いた。

「ほんっっっとうに大変でしたよ。なんたって沖縄から飛んできたんですから」

「沖縄ぁ!?昨日の今日でよく着いたね・・・って、旅行してたの?」

「いえ、バイトです」

素直に驚きの表情を浮かべる麻衣を見て気を良くしたのか、安原は笑みを絶やす事無くさらりとそう答える。

「バイトで沖縄?どんなバイト?」

「リゾートホテルのボーイを」

リゾートホテルのボーイ?

想像すると笑ってしまいそうで、麻衣は思わず口元に手を当てた。―――妙に似合っていると思えるから、余計に。

「で、友人の滝川ってのが危篤だって事にして抜けてきたんです。あらゆる交通手段を駆使して、なんとか朝一番に着いたというわけで」

誰が危篤だ、誰が。という滝川の突っ込みは、全員によってあっさりとスルーされた。

それよりも沖縄からここまで、こんなにも短時間で移動した安原の手腕を褒めてやりたい。

なんという行動力と判断力だろうか。

とても真似できない。―――そこまでして怪奇現象の現場に駆けつける安原の心情も、にとっては理解できないが。

「それで?僕は何をすればいいんですか?」

一通りの挨拶も終わり、とりあえず荷物を置いた安原は、早速とばかりに滝川へと向き直りそう問いかけた。

わざわざ自分が呼ばれたという事は、何かさせたいこと・・・―――もしくはして欲しい事があるのだろう。

現状がどうなっているのかはここに着いたばかりの安原には解らないが、これまでの調査の内容から考えて時間が惜しいだろう事は想像に難くない。

そんな安原の問いに、滝川はスッと真面目な表情を浮かべて。

「俺たちはここから動けない。少年には外で情報を集めてもらいたいんだ」

「探偵をやればいいんですね。どういう性質の情報を?」

そういう事ならば、安原の得意分野だ。

霊能力とは無縁だけれど、安原の処理能力を疑う者はここにはいない。―――それほどに彼は優秀だった。

「詳しい事は今から説明するが・・・―――そういや、少年。安政年間ってのは何年くらいだ?」

「えーと、安政の大獄が1858年ですよね。そのくらいじゃないでしょうか?」

「なるほど、1858年ねぇ」

こういう質問にも躊躇いなく答えが返ってくるところが、彼の頼もしいところのひとつだ。

思わず感心したように頷く滝川を前に、けれど安原は不思議そうに首を傾げて。

「安政年間がいつ頃かなんて、に聞けばよかったんじゃ・・・。それとも、忘れちゃってた?」

問いと視線を向けられたは、茶化すように肩を竦めて見せる。

そうしてそんな安原の言葉との様子を見た滝川は、そういえば・・・と目を丸くしてを見つめて。

「・・・お前、知ってたの?」

「勿論、存じておりましたよ。私も一応、この間までは受験生だったものですから」

意外とでも言わんばかりの滝川の眼差しをさらりと流し、は薄い笑みを浮かべてあっさりと肯定する。

「知ってたんなら、なんで言わないんだよ」

「聞かれなかったので。あえて口を出すのも出すぎたマネかと思ったものですから」

どうせ私は賢そうな顔はしてませんしね。と付け加えたを認めて、滝川は根に持ってそうだと察し頬を引き攣らせる。―――まぁ、本気で根に持っているわけではないだろうが。

「まぁまぁ、落ち着いて。それで、安政年間がどうしたんですか?」

薄い笑みを浮かべて遠くを見つめるを宥めつつ、安原が先を促すように口を開く。

やはり安原の存在は心強いと、滝川は改めて思った。

「ま、そういう種類の情報を集めてくれや」

「了解しました」

疲れたようにそう話す滝川を認めて、安原は心得たとばかりにひとつ頷いた。

 

 

ともかく一通りの状況を説明し終えた後、休む事無く安原は情報を集めに吉見家を出て行った。

思えば沖縄からここへ来るまでは勿論の事、ずっと動き通しである。

相変わらずタフだなぁとしみじみ思いながら、女性陣と共に食事を終えてベースに戻ってきたは、そこから聞こえる聞き覚えのない物音に思わず目を丸くした。

「たっだいまー。お昼食べ終わったよー。交代し・・・って、なにこれ?何の音?」

「解らん。ゆうべのデータをチェックしてたら入ってた」

思わず耳を押さえて眉を寄せる麻衣たちを他所に、滝川は探るようにモニターを見つめている。

そこから聞こえていたのは、まるで大きな地響きか鼾のようだった。

音声を特別大きくしていないのなら、それは尋常な大きさではない。

そして当然、昨夜こんな音を聞いた覚えもなかった。―――聞き逃すという事は絶対にありえないほどの大きな音なのだから、それは間違いない。

「何の音だろうな。これがどのカメラにも入ってるって?」

「ええ」

滝川の問い掛けに、モニターと向き合っているリンが短く答える。

どのカメラにも入っているという事は、場所の特定が出来ないという事だ。

どこか場所が解れば、とりあえず対処のしようはあるかもしれないというのに。

「恐竜の寝息みたいや・・・」

「うん・・・」

ジョンの小さな呟きに、麻衣もまた表情を強張らせながら頷く。

恐竜の寝息とは上手く言ったものだ。―――同じくモニターを覗き込みながら、がしみじみそう思った時だった。

ジリリリリと何の前触れもなく、突如火災報知機が鳴り響く。

「えっ・・・!か、火事!?」

「どこだ・・・!!」

それに弾かれたように顔を上げた麻衣よりも早く、滝川は素早く立ち上がり廊下へと駆け出す。

しかし飛び出した廊下には何の異変もない。

それに思わず立ち止まった滝川の耳に、麻衣の悲鳴のような声が届いた。

「ぼーさん!母屋が・・・!!」

ベースの窓から見える母屋から、太い煙が立ちのぼっている。

それに全員が立ち上がり、突然の出来事に慌てて母屋を目指して駆け出した。

 

 

「滝川さん!!」

そうして着いた母屋では、彰文が座布団を使って必死に火を消していた。

家の中にはもうもうとした煙が立ち込めている。

火事では炎よりも煙の方が厄介なのだ。―――そんな事を考えながら煙を吸い込まないようガードしつつ、顔色の悪い彰文の下へと駆け寄って。

「大丈夫か!?ばーさんたちは!?」

「祖母は窓の方から父たちが。子供たちは外に出しました!」

相変わらず手際がいい。

もしかするとこの騒ぎで怪我人が出ていても不思議はないのだ。―――そういった意味では、彼らの手際の良さはかなりの助けになっている。

「消火器、もっとありますか!?」

「あります。今持ってきます」

「あたしも手伝います!!」

彰文の母親の裕恵が抱えてきた消火器を受け取り、それを配りながら麻衣がそう声を上げる。

今はこれ以上火が回らないよう食い止めなければ・・・―――そんな焦燥感に掻き立てられながら消火器を抱えたは、しかしふと傍にいたリンが弾かれたように振り返った事に気付いた。

「リンさん?どうし・・・」

「・・・ナル」

しかしの問い掛けを全て聞かない内に、リンはポツリと呟いた。

それを訝しく思う間もなく、リンは弾かれたように駆け出す。

「この場をお願いします」

「ちょっと、リンさん!?」

持っていた消火器をへと押し付け去っていくリンの背中に声をかけるも、彼は振り返る事無く廊下の奥へと消えていく。

「お願いって、ナルに何かあったの!?」

答えが返って来ない事を理解しつつも更に声を上げたに、消火器を配っていた麻衣が気付き顔を上げた。

そうして去っていったリンと取り残されたを交互に見やり、麻衣もまた持っていた消火器を傍に立っていた綾子に押し付けリンの後を追って駆け出した。

「え、麻衣!?」

「ごめん、綾子!おばさんを手伝って消火器を集めて!!」

「麻衣!!」

走り去っていく麻衣は、綾子の声に振り返らない。

それをまたもや呆然と見送って・・・―――そうして腕の中の消火器を見下ろしたは、暫く逡巡した後それを麻衣と同じく困惑する綾子へと押し付けて。

「ごめん、私も行ってくる!ここは綾子が何とかして!」

「何とかって、あんたねぇ!!」

「だって気になるんだもん。綾子、愛してる!信じてるからね!!」

一方的に言い放ち勢いよく駆け出したの背中を見送り、暫く呆然としていた綾子は深いため息を吐いて。

「何が愛してるよ。そういうセリフは他に言ってやんなさいよ、もう」

小さく悪態をつきつつも、残った真砂子に消火器を手渡しつつ、消火活動を手伝うべく身を翻す。

一方リンと麻衣の後を追って駆け出したは、慌しくベースへと駆け込んだ。

「リンさん!麻衣!!」

戸口付近で立ち尽くしている麻衣に気付き声を上げると、麻衣は泣き出しそうな顔でを振り返った。

それにどうしたのかと口を開きかけたは、しかしその必要がない事に気付き口を噤む。

部屋の中央に、リンが立っていた。

そうしてその奥・・・―――襖の前に立つ人物を認めて、はきゅっと唇を噛む。

「・・・和泰さん」

彰文の兄であり、吉見家の長男でもある和泰。

彼もまた、霊に憑依されていたのだろう。―――包丁を手に、襖を破ろうと奇声を上げている。

「やめなさい。それを開ければあなたが死ぬ事になります」

この場には似つかわしくないほど冷静なリンの声が、正気を失った和泰へとかけられる。

しかしリンには悪いが、それで彼がおとなしくなるとはにはとても思えなかった。

案の定、威嚇するようにこちらに向けて奇声を上げる和泰に、麻衣がビクリと身体を揺らす。

もしかすると、母屋に火を放ったのも和泰なのかもしれない。

ベースから、人を遠ざける為に・・・―――きっとその推測は、外れていないだろう。

「谷山さん、九字を撃ってみますか?」

そんな事をぼんやりと考えていたは、不意にリンの口から零れた言葉にチラリと視線をそちらに向けた。

声をかけられた麻衣もまた、表情に怯えの色を浮かべつつリンを見やる。

「でも、やっちゃダメだって・・・!」

滝川に耳にたこが出来るほど言い含められたのだ。

それ以上に、麻衣が九字を撃った事で怪我を負った幼い子供たちの姿と泣き声が耳から離れない。

しかしそんな麻衣に向かい、リンはいつもと変わらない声色でキッパリと言い放った。

「私だと大怪我をさせてしまいます」

平然と言うのだから恐ろしい・・・と、こんな状況なのにも関わらずは頭の隅でそう思う。―――まぁ、リンがそういうのだからそうなのだろう。

かつてこっくりさんを真似た呪詛を前にした時、彼はこれ一枚で相手を殺してみせるとまで言った。

その事を考えれば、相手に大怪我をさせてしまうことくらい当然なのかもしれない。

「あの結界はそんなには持ちません。ナルを起こされたら終わりですよ」

尚も迷う麻衣に向かい、リンが更にそう続けた。

リンが危険だというナル。

具体的にどう危険なのかの説明はなかったが、それでも彼がそこまで言うのだからそうなのだろう。

それ以前に、霊に憑依された和泰がナルに近づけば、彼の身が危険に晒される事は疑いようもない。

「・・・でも」

それでもやはり麻衣の決心はつかないようだった。

子供たちに向けて九字を撃ったのは昨日の事なのだ。―――そうあっさりと忘れてしまえる事ではないだろう。

そこまで考えたは和泰へと挑むような眼差しを向けて、身を縮めるようにして立ち尽くしている麻衣の肩に手を置き、スッと一歩前へ踏み出した。

「リンさん、私がやるよ」

・・・?」

名乗り出たを、麻衣が不安そうな眼差しで見つめる。

自分の感じる恐怖を、が肩代わりする。―――それに罪悪感を感じているのだろう麻衣の心境を察して、はなんでもないとばかりににっこりと微笑んだ。

「大丈夫だって。だから、麻衣はそこで見てて・・・」

「駄目です」

けれどそんなの言葉は、またもやあっさりとリンに却下される。

それに訝しげに顔を上げれば、リンは襖を破ろうと包丁を振り回している和泰を見つめたまま言葉を続けた。

「貴女では駄目です」

「あのねぇ、リンさん」

ダメ押しとばかりに告げられた言葉に、こんな状況にも関わらずはがっくりと肩を落としてジト目でリンを見やる。

自分が何かをしようとすれば、必ずリンは反対する。

ナルが許可を出していない事と・・・―――そしておそらくはを心配してくれているのだろうが、だからといってこうもダメ出しばかりされれば気も落ちるというものだ。

リンは意外と心配性なのかもしれない、と心の中で思いながら、この切羽詰った状態を何とかするべくは気合を込めて口を開いた。

「駄目だ駄目だって言うけど、他に方法ないでしょ?このままナルを起こされちゃまずいんじゃないの?」

「・・・・・・」

「私がやったって大した効果ないんだから、何も麻衣じゃなくても・・・」

「それが駄目だと言っているんです」

もしも視線に力があったなら、和泰は気を失っているかもしれない。

そう思えるほど鋭い目つきで和泰を見つめていたリンが、強い口調でキッパリと言い放った。

しかし言われた意味が解らず、は訝しげに眉を寄せた。

「それが駄目って、どれが駄目なの?」

「貴女のその考えこそが間違っている、と言っているんです」

その考えって、どの考え?

がそんな疑問を口に出す前に、リンは更に言葉を続けた。

「貴女は自分の力を随分と軽んじている。どれほど霊能者としての力が自分にあるか、貴女自身がそれを理解していない。今までならばそれでも構いませんでしたが、今回は相手の命が掛かっているんです」

「力って・・・」

淡々と言われ、は困惑したように振り返ることのないリンの背中を見つめる。

自分の力と言われても、正直は自分にリンが言うほどの力があるとは思わない。

もし本当にそんな力があれば、もっと役に立っているだろう。

そんなの考えを読んだのか、リンは彼女には見えないと解っていながらも僅かに眉間に皺を寄せて。

「高い霊視能力。憑依した霊からその過去や感情を読み取る力と高いシンクロ率。人形を作る能力」

「それは・・・」

「本来その人が受けるべき災厄を転嫁させるだけの人形を作るのは、そう簡単な事ではありません。誰にでも出来る事でもない」

リンの言葉に、はギュッと眉を寄せる。

「でも、前に霊に向けて九字を撃った時、大した効果はなかったし」

以前車の中で霊に襲われた時、は霊に向けて九字を撃った。

けれど相手は少し怯んだだけで、消えもしなければ逃げもしなかった。

結果的に霊を追い払ったのは一清だ。

ふと過去の出来事を思い出し、そう言い募る。

どうしてこれほど必死になって否定しているのか、もうには解らなかった。

自分の能力が認められているのだ。

それが自分の望まないものであったとしても、これほど必死に否定する必要はない。

むしろいつものなら軽く流してしまうだろうと思えるのに、彼女は右手で自分の左手を握り締めながら泣き出しそうな顔をしていた。―――否、左手ではなくその手にあるブレスレットを握り締めて。

そんなの様子など和泰を睨みつけているリンには解るはずがないというのに、それでも全てを察しているらしいリンは、最後にキッパリと言い放った。

「貴女の能力は、以前にも増して強くなってきています。―――いえ、本来の力が戻ってきていると言った方が正しいかもしれません。貴女の力を押さえ込んでいた何かが、少しづつ失われているような気もします」

今度こそ、は言葉を失った。

リンは、何を知っているのだろう?

彼は何も知らないはずだ。―――だっては彼に何も話していない。

一清が話したのだろうかと一瞬疑うが、彼とてそんなお家事情をほいほい話すとは思えなかった。

それ以前に、彼とリンとの間に特別な接点はない。

だとすれば、彼は己の能力だけでそれらを察してしまったのだろうか。

だとするならば、なんて油断ならない人なのだろう。

呆然とリンを見やりながら立ち尽くすと、突然始まった2人の口論に呆気に取られる麻衣。

けれど状況は一刻の猶予もなかったのだという事を、2人はすぐさま思い知る事になる。

「ガアァァア!!」

一際大きな奇声を上げて、和泰が渾身の力を込めて包丁を振り下ろした。

それは先ほどから何度も何度も傷つけられてきた襖を僅かに切り裂く。―――その向こうには、眠らされたままピクリとも動かないナルの姿が見えた。

「ナル・・・!!」

そのナルの姿に咄嗟に九字を切るべく手を上げた麻衣は、しかしそれでも思い切る事が出来ずに身体を強張らせた。

こんな状況になっても・・・―――否、こんな状況だからこそなのだろうか。

克己と和歌子の泣き声が、耳から離れない。

麻衣のそんな一瞬の躊躇いを感じたのか、荒く呼吸を繰り返す和泰が再び包丁を振り上げた。

麻衣は動けない。

それを感じ取ったが迷った末に手を振り上げたその時、一歩早くリンが動いた。

ピィィと短く指笛が鳴る。

その瞬間、破られた襖の隙間から獣の手のようなものが飛び出し、それは今にも包丁を振り下ろさんとしていた和泰へと襲い掛かった。

突然の出来事に息を飲む麻衣をそのままに、リンは突然の攻撃にその場に蹲った和泰へと一歩踏み出す。

「リンさん、危ないよ」

そんな麻衣の制止も無視し、リンが和泰の身体に手を伸ばしたその時だった。

蹲っていた和泰は突如目を見開き、まるで猫のような身のこなしでリンの手から逃れるように部屋の隅へと飛び退る。

それと同時にリンの腕から血飛沫が舞った。

「リンさん!!」

声を上げて、は慌ててリンへと駆け寄り傷口を見る。

幸いな事にそれほど深い傷ではないようだが、この鋭い切り口は一体なんなのだろうとは訝しげに眉を寄せた。

引っかかれた傷ではない。

それよりももっと鋭い何かで切ったような・・・。

「・・・

考え込むように自分の怪我を見つめるを押しのけて、リンはまっすぐ和泰を見据えた。

それに現状を思い出したもまた、和泰へと視線を向ける。

リンの攻撃では、和泰は正気には戻らなかったようだ。

今も自分たちを威嚇するように唸り声を上げている。

「・・・ねぇ。どうするの、リンさん」

リンが九字を撃てば、和泰の身は保証できない。―――そしてリンは、それはも同じだという。

あんな事があったばかりの今の麻衣に、九字が撃てるかどうかは微妙なところだ。

だとすれば、和泰を止める手がない。

滝川やジョンが戻ってくれば状況も変わるだろうが、向こうは向こうで消火するので手一杯だろう。―――いつ戻ってくるか解らない彼らを待っている余裕はない。

どうすればいいのだろうか。

威嚇する和泰と睨み合い、どうにも動けずが唇を噛み締めたその時だった。

「臨・・・」

低い、何かに耐えるような声が聞こえた。

「・・・兵闘者皆陣列在前!」

それがなんなのかを理解するその前に、麻衣は和泰に向かい九字を撃つ。

「ギャアァ!!」

その目には見えない力は、確実に和泰へと届いたようだった。―――苦しげな声を上げて、和泰の身体は部屋の隅まで吹き飛ぶ。

しかしそれにハッと我に返って一瞬怯んだ様子を見せた麻衣は、即座に身を起こし飛び掛ってきた和泰の体当たりを避ける事が出来ず、勢いよく壁へと叩きつけられた。

「麻衣!!」

慌てて麻衣へと駆け寄り、その身体を抱き起こす。

「・・・

麻衣は苦しそうに表情を歪めつつも、なんとか堪えてゆっくりと立ち上がった。

その様子にがホッと安堵の息を吐いたのも束の間、今度はリンが珍しく声を上げる。

、谷山さん!滝川さんを呼んでください!ベースに誰か人を・・・!!」

どうやら麻衣へと体当たりを食らわせた和泰は、こちらが怯んだ隙に部屋の外へと飛び出して行ったようだった。

それを追いかけつつ指示を飛ばすリンの声に重なるように、和泰が窓を突き破って外に出る高い音が響き渡る。

「・・・麻衣、ごめん!ぼーさんたち呼んできて!」

!?」

それに弾かれたように駆け出したにそう告げられ、麻衣は少し涙の滲む目元を乱暴に拭いながら走り去るの背中へと声をかける。

しかしは立ち止まらなかった。―――走るスピードを緩めないまま、首だけで振り返って声を張り上げる。

「リンさん、1人じゃ危ないから!」

自分に出来る事などあるかは解らないが、それでもリン1人に追わせるわけにはいかない。

そんな思いを込めてそう叫び、は今はもうそこにはないリンの後を追いかけた。

 

 

なんとか燃え広がる前に炎を食い止める事が出来た面々は、一様に疲れ果てた表情を隠す事無く深くため息を吐き出した。

現場は酷いものだったが、掃除をしてリフォームをすれば元通りになるだろう。―――何より死傷者が出なかった事が幸いだった。

窓を開けて充満した煙を外へ逃がしながら、滝川はすっかりすすだらけになってしまった顔をTシャツの裾で拭う。

それを見た綾子が「お腹出さないでよ!」と声を上げるのをスルーし、やれやれと息をついたその時だった。

「ぼーさん!!」

切羽詰った声で呼ばれて振り返ると、そこにはこちらへ向かい駆けてくる麻衣の姿がある。

確か麻衣はリンやと一緒にナルの様子を見る為にベースに戻ったはずだ。

だというのに、どうしたのだろうか。

見ただけでも解るほど焦っている様子の麻衣を認めて、チラリと嫌な予感が脳裏を過ぎる。

まさかナルに何かあったんじゃ・・・―――そんな思いを振り切るように、滝川は僅かに頬を引き攣らせた。

リンは、ナルを危険だと言った。

そんな危険な男が霊を宿したまま目覚めたら、自分たちには手の出しようがない。―――せめてそんな最悪な状況にはなってくれるなという思いを込めて麻衣を見やれば、彼女は走ってきた勢いのまま体当たりするように滝川へとしがみついて。

「ぼーさん!和泰さんが・・・!!」

まるで振り絞るようにそう声を上げる麻衣を認めて、滝川はなんとなく状況を理解できたような気がして眉を寄せた。

霊に憑かれている人間はまだいるかもしれない。―――そう推測したのは自分だ。

「和泰さんがベースを襲ったの!それでリンさんと乱闘になって、外に!!ぼーさんに来てって!!」

「解った、ジョン!!」

「ハイです!!」

麻衣の言葉に、状況がかなり切羽詰っている事を悟った滝川は、すぐさまジョンに声をかけつつ走り出す。

ジョンも麻衣の話を聞いていたのだろう。―――すぐさま返事を返して滝川を追うように駆け出した。

「アタシたちも・・・!」

「待って!綾子たちはベースにいて!!また襲われないように!!」

霊に憑かれているのは、和泰だけとは限らないのだ。

栄次郎や陽子や子供たちについていた霊は既に落としたけれど、また憑かれていないとも限らない。―――念の為、そうならないようには気をつけているけれど。

しかし綾子と真砂子にそう告げて再び走り出した麻衣に、綾子は思わず声を上げた。

「ちょっと、麻衣!?」

「あたし追いかける!あたし非力だから・・・あたしにしか出来ない事があるの!!」

そう言ってあっという間に姿が見えなくなった麻衣の背中を見送って、綾子と真砂子は顔を見合わせつつ表情を顰めた。

憑依霊を落とすプロのジョンがいるのだから、麻衣が和泰に向かって九字を撃つ確立は低いだろうが、それでも状況的に絶対にないとも言い切れない。

真砂子はそういう事をするタイプではないし、綾子も今まで目覚しい活躍がないとはいえ人に向けて九字を撃てば相手が無事であるという確証もない。

確かにこういう状況においては、麻衣の力も必要となるかもしれない。

そう結論を出して、2人がベースに向かおうと足を踏み出しかけた時、視界の端に走り去る影を認めて綾子は思わずそちらへと視線を向けた。

「ちょ・・・若ダンナ!?」

綾子の制止の声を無視し、彰文は強張った表情のまま麻衣の後を追うように廊下を駆けていく。

「松崎さん・・・」

「解ってるわよ!解ってるけど・・・!!」

思わず後を追いそうになった綾子は、真砂子に呼び止められ焦れたように唇を噛む。

この状況で彰文が現場に行っても良い事はひとつもないだろう。

出来れば追いかけて引き止めたいが、長くベースを空にしておくのも心配だ。

リンが危険だと断言するナルが目覚めれば、自分たちに打つ手はない。

彰文の事は心配だが、真砂子1人でベースに戻ったとしても、何かあった時に彼女だけでは対応出来ない。

今ここに真砂子と綾子の2人しかいない以上、彼を追いかける事の出来る人間は誰もいなかった。

「心配ですけれど・・・彼の事は滝川さんたちに任せましょう」

「・・・そうね」

向こうには主力が揃っているのだ。

無事に霊に憑かれた和泰を救えれば、彰文がその場にいても大丈夫だろう。

救えなければ・・・?―――そんな事は考えたくもない。

「さっさとベースに戻りましょ」

「ええ・・・」

浮かんだ嫌な想像を振り払うように、綾子は真砂子にそう声をかけて踵を返す。

どうかこれ以上悲しい結末にはなりませんように。

今の2人には、それを祈る事しか出来なかった。

 

 

◆どうでもいい戯言◆

メインは漸く登場した安原さんなのに、出番が切ないくらい控えめなのがなんとも・・・。

でも次回ですよね、彼の見せ場は!(笑)

しかしなかなか話が進みません、呪いの家。

今回は主人公の生い立ちも明らかにするつもりなんですが、果たして何話くらいになるのか。

作成日 2010.2.27

更新日 2011.4.24

 

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