意識が戻った時にまた暴れださないようにと気を失った栄次郎を縄で縛りつけ、そうして怪我を負った吉見家の人たちの手当てをしながら、は無残にも荒れてしまった室内を見回して小さく息を吐く。

幸いにも、吉見家の人たちの怪我は見た目ほど大したものではなかった。

包丁で切りつけられた部分もあるものの、傷はそれほど深くはない。―――それだけが救いだといえば救いだ。

もっとも、受けたショックは計り知れないが。

ともかくも、事情を聞くにしても落ち着かない事には意味がない。

勝手に申し訳ないとは思ったけれど、全員分のお茶を入れてそれを配り終わった頃、手当てを担当していた麻衣と綾子の作業も終わったらしい。

それを認めて、吉見家の人々に向き直ったナルが静かに口を開いた。

 

最初の異変

 

「一体何があったんですか?」

奇妙に静まり返った室内に、ナルの静かな声が響く。

あまりにも突然の出来事に、全員ショックが隠せないのだろう。―――そんな中でのナルの問い掛けに、栄次郎の妻である光可が耐え切れないとばかりに声を上げた。

「こっちこそ知りたいわ。話をしてたらいきなりなんですからね」

顔色悪くそう告げる光可の言葉に、彰文の母である裕恵と長男の和泰もまた顔色を悪くしながら俯く。

「いきなり暴れだしたんですか?」

「ええ。・・・そりゃあ、ちょっと言い争いはしましたけど」

「内容をお聞きしても?」

少し気まずそうに言葉を付け足す光可に、ナルは容赦なく先を促す。

それに視線を泳がせた光可は、しかし黙っていても仕方がないと判断したのか、躊躇いがちにではあるけれど口を開いた。

「今日、食事の時に不機嫌だったので理由を聞いただけです」

別になんでもないと素っ気無く言い放つ栄次郎に、光可は更に言葉を付け加えた。―――なんでもないのなら、客の前であんな顔をしないでと。

彰文から聞いた話だと、栄次郎は人当たりが良い明るい性格だったのだという。

もしかすると光可自身も、客の前であんなにも不機嫌そうな顔をする栄次郎を見たのは初めてかもしれない。

それに加えて、今この家には恐ろしいほどの不安が満ちている。

自然と光可の口調も厳しくなり、口論になっても仕方がなかったのかもしれない。

そんな光可の言葉に、栄次郎は何も言わずに部屋を出て行ったのだという。

そのまま口論は終わるはずだった。―――その筈だったというのに・・・。

「その後すぐに戻ってきたと思ったら、包丁を持ってて・・・―――まったく、どうかしてるわ!」

どうしようもない憤りを吐き出してそっぽを向いた光可を見つめ、ナルは少しだけ考える素振りを見せて。

「不機嫌だった事の原因に心当たりは?」

「さぁ・・・。食事の前までは普通だったんです。一通り料理の用意を終えてから外の空気を吸ってくるって出て行って・・・―――戻った時はああだったんです」

普通に考えれば、外に出た時に何かあったに違いない。

そして、現在の吉見家の現状を考えれば、無難に思い当たるのは・・・。

「憑依霊かね」

光可の話を聞いていた滝川が、ナルを見やりポツリと呟く。

それに隣に座るが嫌そうに顔を顰めたのをそのままにして、ナルは意外にあっさりと肯定した。

「だろうな。ジョンを呼んだ方が良さそうだ。―――それとも・・・」

そうしてそこで言葉を切って、その視線を静かに話を聞いていた綾子へと向ける。

「松崎さん、落とせますか?」

「アタシ?・・・出来なくはないけど、あんまり得意じゃないのよね」

唐突に話の矛先を向けられた綾子が、僅かに戸惑った様子でそう答える。

それはつまり、上手くいくかどうか微妙なところだという事だろうか。

そんな綾子の返答を受けて、ナルはその視線を滝川へと移した。

「ぼーさんは?」

「んー・・・やってみてもいいけどな。だれでも初体験てもんはあるしよ」

「え、なに?ってことはあんた今まで憑依霊を落とした事ないわけ?とんだ霊能者だこと!」

顎に手を当てながら恐ろしい発言をする滝川に、綾子が馬鹿にしたようにわざとらしく笑い声を上げた。

それに漏れなくカチンと来たらしい滝川は、盛大に引き攣った笑みを浮かべながら真正面から綾子を見返す。

「お前が言うなっつーの。なんだったらお前に向かって九字切ってやろーか?何があっても責任はとらねーけどよ」

「ほーう。やってもらおうじゃないの」

「・・・2人とも、子供みたいな喧嘩やめようよ。傍から見てるとちょっと悲しくなってくるから」

いつもと変わらず言い合いをする滝川と綾子を呆れた眼差しで見つめながら、が疲れたように肩を落とす。

綾子の言い分はともかく、滝川が憑依霊を落とした事がないと言う事実については、にとっても意外ではあったが。

まぁ、人にはそれぞれ事情があるものだ。―――綾子の言葉ではないが、人によって得手不得手もあるのだろう。

とりあえず深く突っ込むのはよそうと結論付けたとは対照的に、こちらも2人の言い合いを呆れた様子で見ていた麻衣が口を開いた。

「なにがあってもって、どゆ事?」

どうやら先ほどの滝川の脅しめいた発言が気に掛かったらしい。

そんな麻衣の問い掛けに、早々に綾子との口論を切り上げた滝川が、今度は麻衣と向き合いながら言葉を続けた。

「法力ってぇのは、直接人に向けちゃいけないんだ。危険だからな」

危険という言葉に、麻衣は僅かに頬を引きつらせる。

法力などという目には見えないそれがどう危険なのか、想像もつかない麻衣は更に質問を投げ掛けた。

「ど、どういう風に?」

「知らん。やったものがいない」

「・・・へ?」

しかし返ってきた素っ気無さ過ぎる答えに、勢いが殺がれたのか麻衣がガクリと肩を落とす。―――そんな麻衣の様子を眺めながら、なにやら滝川は納得したように顎に手を当てて。

「だから俺も人間に憑依した霊を落とした事はない。一度壷に憑いた霊を落とした事はあるが・・・」

「・・・どうなったの?」

「霊は落ちたが、壷も見事に粉々になった」

恐る恐る問い掛けたに、滝川はあっさりとそう言い放つ。

「・・・っていうか壷が粉々になった時点で、霊が壷に憑くなんて無理なんじゃ・・・」

「ま、そういう考え方もあるわな」

またもやあっさりとそう告げられ、は盛大に頬を引きつらせた。

なんとも予想外の返答に、なんとコメントしていいやら解らない。

ただひとつ言える事は、人間で試すわけにはいかないという事くらいか。

壷は粉々になっても仕方がないと諦める事が出来るが、人間相手だとそういうわけにはいかない。―――その壷が人間だったらと思うと、あまりにも恐ろしすぎて想像したくないほどだ。

そんな中、同じように表情を引き攣らせていた麻衣が、ふと思い出したとでも言うようにポンと手を打つ。

「で、でもあたし友達に向けてやった事あるよ。見せてっていうから・・・」

「なーぬー?」

言うや否や、麻衣は滝川に据わった目で見つめられ、怯んだように一歩後ずさる。

あれは滝川に九字を教えてもらった後の事だ。

学校でその話をすると、友人が物珍しがって見せてくれと言ったのだ。―――勿論断る理由もないので、麻衣はそれを実践して見せたのだが・・・。

「二度とすんなよ。麻衣程度だから何も起こらずにすんだんだぞ」

「はーい。ごめんなさーい」

パチンとおでこを弾かれ、麻衣は控えめに痛みを訴えながらも素直にそう答えた。

滝川の話を聞いていると、あの時の自分がどれほど危険な事をしたのかしみじみと思い知る。

もしも成功していたら、友人に怪我をさせていたかもしれないのだ。―――そんな事にならなくてすんでよかったと、麻衣はひっそりと胸を撫で下ろした。

そんな2人のやり取りを無言で見つめていたナルは、話が終わったのを察したのか今度はその視線をへと向ける。

、お前は?」

「え、私!?」

突然自分に向けられた提案に、は慌てたようにナルを見やる。

まさか自分に声が掛かるとは思ってもいなかった。―――そう言えば、霊能者としての自覚を持てと返ってきそうだけれど。

そんなナルの問い掛けを耳にした滝川や綾子が、ふいとへと視線を向けて。

「そういえば見た事ないけど、お前って霊落とせんの?」

「っていうか、アタシこの子がそんな事してるとこ見た事ないけど」

揃って向けられる視線と疑問に、はヘラリと誤魔化すように乾いた笑みを浮かべる。

これまで見たの能力といえば、敏感すぎる霊視能力くらいだ。

時には倒れる事もある不便なほどのそれは、ありがたいのかそうでないのか判断が難しい。

あとは緑稜高校の事件の際、リンと共に陰陽師として人形を作成したとは聞いたけれど、生憎と2人はそれを目の当たりにしていない為、どちらかといえば印象が薄い。―――勿論、それがウソだとは思っていないが。

気がつけば自分に集まっている多くの視線を受けて、は困ったように視線を泳がせた。

「・・・出来ない事はないけど」

「うそ、出来るの!?」

「まぁ、出来るといえば出来る。けど、ちょっと色々問題が・・・」

思わず驚きの声を上げた綾子に反論する余裕もないのか、が気まずそうにそう言葉を付け加える。

「・・・問題とは?」

静かなナルの声に促されて、は無意識に畳の目を指でなぞりながら言葉を続けた。

「憑依されてる人から霊を落とす事は出来る」

珍しいの断言に、滝川が訝しげに眉を寄せる。

「じゃー、何も問題ないだろーが」

「ただ・・・霊を落とした途端、漏れなく私に憑依しちゃうっていうか・・・」

「・・・は?」

「だから、落とした霊が今度は私に憑依しちゃうの。かなり高い確率で」

開き直ったように今度はあっさりと告げられた言葉に、話を聞いていた滝川と麻衣が揃って表情を引き攣らせる。

確かには、自分は霊に憑依されやすいと言っていた。―――だからといって、まさかそんな事があるとは・・・。

「高い確率というのは、どれくらい?」

「・・・3回に1回憑依されなかったら上出来、みたいな」

コクリと首を傾げて誤魔化すようにわざとらしく笑うを見返して、ナルが盛大にため息を吐き出す。

それを前には僅かに頬を引きつらせるが、生憎と反論できる立場にはないと思ったのでなんとか文句を飲み込む。

別に霊に憑依されるのは自分のせいではないのだけれど・・・―――もちろん、そんな言い訳がナルに通用するかどうかは口に出すまでもないが。

そんなナルとを見比べて、けれどふと疑問を抱いた麻衣が不思議そうに首を傾げた。

「でも、ジョンとかが今まで何回も霊を落としたりした事あったけど、が憑依された事って一度もないよね。どうしてが霊を落とした時だけ憑依されるの?」

「ああ、それは距離を取ってたから」

「・・・距離を取ってると大丈夫なの?」

「う〜ん。一概には言えないけど、これまでの経験からすると大抵は。それにほら、ブレスレットとピアスもつけてたし。―――でも・・・」

麻衣の疑問に律儀に答えていたは、しかしふと言葉を切って今もしっかりと腕につけられているブレスレットに視線を向ける。

そのなんとも表現しがたい複雑な表情を認めて、麻衣は更に首を傾げた。

「・・・でも?」

「あ、ううん。なんでもない。―――まぁ、だからそんな感じだから、私に霊を落とすのはちょっと向かないかなって」

栄次郎さんの身体から出ても、私に憑依しちゃったら意味ないでしょ?といって微笑むを見返して、麻衣は戸惑いながらもコクリと頷く。

「松崎さん、一応やってみますか?」

そんなと麻衣のやり取りを横目に、ナルはさっさと話を進めるべく、再び綾子へと話をふる。

「・・・いいけど。とりあえず落とすだけならできると思う。でもまた憑いたって知らないわよ」

「このまま栄次郎さんに憑依しているよりマシでしょう。随分と凶暴な霊のようだから」

それに気乗りしないまでも断るつもりはないのか、綾子は小さく頷きながら了承の返事を返した。―――先に釘を打つことも忘れずに。

ナルも今はそれ以上を望む気はないのか、あっさりと頷いて話を纏める。

それを聞いていたが、心配そうな表情のままポツリと呟いた。

「・・・そうだよね。このままだと栄次郎さんの身体の方も心配だし、いつ縄が切れて栄次郎さんが暴れだすか解らないし」

「縄が切れるって・・・。あれだけ頑丈に縛ってるのに?」

「解らないって。ほら、よく漫画とかであるみたいにブチって引き裂いちゃったりとか」

「ぷっ、なにそれ。そんなのあるわけ・・・」

の冗談じみた発言に思わず噴出した麻衣は、しかしふと浮かんだ疑問に思わず口を閉ざす。

しかしこの疑問を口に出す事は出来なかった。―――否、口に出すのが怖かったと言った方が正しい。

だというのに、その不安にも似た疑問は、至極あっさりとの口から零れ出た。

「・・・いつ暴れだすか解らない、か」

小さく小さく呟かれた言葉に、麻衣がギクリと身体を強張らせる。

が何を言いたいのかが解った。―――そして同じ事を麻衣が考えている事も、は知っているのだろう。

これまで事故や病気で死んだという吉見家の人々。

そのすべてが、本当に事故や病気だったのだろうか?

今回のように、霊に憑依されて暴れた人はいなかったのだろうか?

「・・・

「大丈夫だって、私たちがいるんだから。なんだかんだ言ったって、今までちゃんと調査をこなしてきたでしょ?」

だから大丈夫、というの言葉に麻衣は頷く。―――まるで自分に言い聞かせているようなその言葉に、頷かないわけにはいかなかった。

そうしてやるならば早速と作業の準備に掛かるナルたちを認めて、手伝うよと殊更明るく立ち上がるの背中を見送り、麻衣はひっそりとため息を吐き出す。

「どうした?」

「ううん、なんでもない」

そんな麻衣に気付いた滝川の声にもなんでもないと返事を返して、麻衣はいつも通りの様子を見せるを見つめる。

この家で何が起こっているのかというのも、心配の種ではあるのだけれど。

『でも・・・』

不意にそう言って言葉を切ったの姿を思い出す。

少し前の調査から、が時々元気がない事に麻衣は気付いていた。

どこか不安そうな・・・―――それは言葉にするには曖昧すぎるものだったけれど、確かにそう感じる時がある。

先ほどもそうだ。

ブレスレットを見つめながら浮かべたの表情。―――あれはなんと言えばいいのだろう。

不安でもなく、恐怖でもなく、悲しみでもなく。

「・・・あ」

唐突に思い浮かぶ。―――あれは、戸惑いだ。

でも、一体どうして?

その意味するところが解らず、麻衣は難しい顔をして首を傾げる。

こういう時に思うのだ。

は気さくで人当たりもいいし、付き合いやすいタイプではあるけれど、ふと気付くと自分はの事を何も知らない。

有名な霊能力者の一族で、その中でも月華と呼ばれる特殊な位置にいて、割と勉強が好きで、大学に入ってからはそうでもないが高校時代は課題に追われていて・・・。

そんな見える部分しか知らない。

どうしてが当主と一緒に本家に住んでいるのだとか、彼女の両親はどうしたのかだとか、これまでどんな生活を送ってきたのだとか・・・―――そういった部分を自分は何一つ知らない。

聞いてみればいいのだと思った事も何度もあるが、話をはぐらかされた時の事を考えると、その手段を取る勇気がなかった。

「おーい!行くぞ、麻衣!!」

「あ、うん!」

ぼんやりと考え込んでいた麻衣は、廊下から自分を呼ぶ滝川の声に我に返り、吉見家の人たちにお辞儀をしてから慌てて廊下へと飛び出した。

今はそんな事を考えていても仕方ない。

今現在最優先されるのは、この吉見家にいるだろう霊を何とかする事だ。

麻衣は自分にそう言い聞かせて、先を行くナルたちの後を追いかけた。

 

 

霊を落とすにあたり普段は使われていない小部屋を借りた面々は、そこに縄でぐるぐる巻きにされた栄次郎を置いて、いつも通りカメラをセットする。

そうして準備を手伝っていた滝川が、周りを確認しつつ納得したように頷いた。

「おし、ここなら多少暴れても大丈夫だろ」

「そうだね。まぁ、暴れないに越した事はないけど」

同じく様子を見ていたが、そう小さく独りごちる。

まぁ、もし栄次郎が暴れたとしても、先ほど鮮やかな手際を見せたリンがいれば大事には至らないだろう。

それに同じく頷いて見せた麻衣は、ジョンへの連絡の為に部屋を出ていたナルが戻ってきた事に気付いて視線を向けた。

「あ、ナル。ジョン来られるって?」

「ああ。原さんと明日一番の飛行機で向こうを発つと言ってた」

「・・・真砂子も呼んだんだ」

「後手に回りたくない」

素っ気無くそう言うナルを、麻衣はジト目で見つめる。

それを隣で見ていたが、ニヤリと口角を上げて麻衣の耳元へ顔を近づけた。

「麻衣ちゃ〜ん、可愛い顔が台無しですよ」

「うわっ!・・・なによ、

「べっつに〜。ただ可愛いなーと思っただけ」

「・・・さっきと言ってること違うし」

ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべるを軽く睨みつけて、麻衣は赤くなった顔を隠すようにそっぽを向く。

自分の方こそどうなのよ・・・と返してやりたい気分だったが、生憎とシャレにならなさそうなのでやめておいた。

ここには滝川もリンもいる。―――それに加えて、がまったく気付いていないのだから、そんな事を言おうものなら空気が重くなる事間違いなしだ。

いくらなんでもこれから霊とご対面するかもしれないこんな時に、これ以上重い空気を背負うのは勘弁して欲しい。

そんな2人のふざけ合いをさらりと無視して、ナルは準備が整え終わった綾子へと合図を出した。

ナルの合図に決意を固めた綾子が、小さく息を吐いた後パンと両手を打ち鳴らす。

「つつしんでかんじょうたてまつる」

朗々と響く綾子の声。

いつ聞いても不思議な感じがする。

本当にこんな言葉だけで、霊を落とす事が出来るのだろうかと。

それほどまでに、綾子の声には普段と変わったところがほとんどないのだ。―――ジョンや滝川とは対照的に。

「みやしろなきこのところにこうりんちんざしたまいて しんぐのはらいかずかずかずかず たいらけくやすらけくきこしめしてねがうところを かんのうのうじゅなさしめたまえ」

淡々とした様子で進む儀式。

何か変化でもないかと思ったその時、うつ伏せで転がっていた栄次郎が、バッと勢いよく顔を上げた。

大きく目を見開き、獣のような唸り声を上げる。

何とか抜け出そうとしているのか、縄がぎしぎしと軋み声を上げていた。

先ほど言っていた冗談が本当にならないかとが僅かに不安を抱いたその時、麻衣がナルに向かい不安そうに口を開く。

「・・・ね、ねぇ。やっぱ綾子じゃ無理なんじゃないの?」

「かもしれない。どうせ明日にはジョンが着く」

かもしれないって!と、あんまりといえばあんまりな言葉に、は綾子の代わりに突っ込みを入れた。―――勿論声に出すようなマネはしなかったが。

「リンさんじゃダメなわけ?」

「相手の正体が解らないからな」

あっさりと答えるナルに、その辺りの事情が解らない麻衣は素直に頷くしかない。

リンは色々と難しい事が出来るようだけれど、条件がつく為に実行できない場合が多い。

今回もそれに当てはまるのだろう。―――そう納得した麻衣は、しかし不意にナルに名前を呼ばれて訝しげに顔を上げた。

「下がっていろ」

それと同時に目の前に現れる黒い背中。

何事かと視線を巡らせれば、転がった栄次郎から黒い影が漂っていた。―――それは見る見るうちに動物の姿へと変わっていく。

「静かに外へ出ろ。リン、麻衣を連れて行け」

ナルの指示に、リンが麻衣の背中を押しながら戸口へと歩み寄る。

「・・・

同じようにリンからにも声が掛けられるけれど、何故かは一歩も動けなかった。

怖いわけではない。―――恐怖で足が竦んだわけでも。

ただ目の前にある気配に気をとられて、は食い入るようにそれを見つめる。

そんなの目の前で、床に転がっていた栄次郎がムクリと身を起こし、そうして戸惑いを見せる面々を認めて突如笑い声を上げた。

ノドを鳴らすような、それでいて気が触れたかのような笑い声に、ゾクリと背筋に悪寒が走る。

「なむほんぞんかいまりしてん らいりんえこうきこうしゅごしたまえ」

そんな栄次郎を前に、祈祷を中断していた綾子が声を上げてパンと大きく手を打った。

しかしそれは霊を祓うに至らず、反対に動物の姿をした黒い影が襲い掛かるように跳躍する。

「きゃ!!」

短く悲鳴を上げる綾子と、向かってくる影に対抗すべく構える滝川とリン。

しかし確かに2人へ向かっていた黒い影は、突如その進路を変えた。―――クルリと身を翻し、壁を背に立つナルとへと矛先を向ける。

「ナル!」

!!」

麻衣と滝川が同時に声を上げる。

しかしこちらに向かってくる黒い影を目にしても、は動けなかった。

今度はその理由ははっきりしている。―――今度は間違いなく、恐怖でだ。

「・・・こっちへ来い」

そんなを見かねて、ナルはの腕を強引に引っ張ると自分の背後へと匿った。

そうして向かってくる黒い影を見据え、僅かに腰を落として・・・。

「ナル、止めなさい!!」

不意にリンの怒声が響く。

それにナルがビクリと肩を揺らした。―――それと同時に強い力で突き飛ばされるのを感じ、は突然の出来事に成す術もなくそのまま床に転がる。

そうして弾かれたように顔を上げて、は言葉もなく大きく目を見開いた。

大きな黒い獣に体当たりされ、吹き飛ばされるナル。

まるでスローモーションのようなそれを、は呆然と見つめた。―――何が起こっているのか、それすらも解らずに。

そんな面々を前に、ナルに体当たりを食らわせた黒い獣は、壁に背をつけたナルの身体をすり抜けるようにして音もなくその姿を消した。

「・・・ナル?」

すっかりその黒い獣の姿が消えた頃、ズルリと力が抜けたように床に座り込むナルを見つめて、が小さくその名を呼ぶ。

それに答えるように控えめに咽たナルの声に、は漸く我に返った。

「ナル!!」

慌てて這うようにしてナルに近づき、そっと手を伸ばす。

苦しそうなナルの顔など、これまで一度だって見た事がない。―――頬に手を当てれば、肌はヒヤリと冷たかった。

「大丈夫か!?怪我は?」

「・・・大丈夫だ。栄次郎さんは?」

駆け寄る滝川にそう返事を返して、ナルは苦しそうにしながらもそう問い掛ける。

それにハッと気付いた綾子が視線を向けると、そこにはきょとんとした様子の栄次郎が不思議そうな面持ちでこちらを見ていた。

「・・・あの、何があったんですか?」

どうやら霊はすっかり落ちているらしい。

先ほどまでの狂気を含んだ様子とはまったく違う栄次郎を前に、麻衣は戸惑ったような表情を浮かべて、なんと答えたものかと助けを求めるように滝川へ視線を向ける。

それを受け止めた滝川もまた、どう説明すればいいかと困った表情を浮かべた。

「ナル、ごめん。私・・・」

今もまだ座り込んだまま俯くナルを前に、眉間に皺を寄せたが口を開く。

まるで今にも泣き出しそうな、不安と恐怖と悲しみがない交ぜになった顔。

のこんな表情など、今まで一度だって見た事がない。

いつでも、どんな状況になっても、は平然としていた。

時に怒り、笑い、茶化したり、面倒臭がったり。

そんな表情は今までたくさん見てきたけれど、こんな弱々しい表情など一度だってした事がない。

「・・・別になんともない。栄次郎さんから霊が落ちたならそれでいい」

そんなを前に、ナルにしては珍しく毒の含まれていない言葉を口にした。―――それは遠まわしではあるけれど、気にするなという意味なのだろう。

それに更に表情を歪ませたは、グッと唇を噛み締め俯く。

まるで何かに耐えるように、何かから自分を守るように。

「・・・とりあえずベースに戻ろうぜ。麻衣、栄次郎さんを母屋に送ってやってくれ」

「うん、解った」

未だ体調の戻らないナルの代わりにそう指示を出して、滝川はの腕を取って引き起こした。―――その傍らで、リンもまたナルを引き起こす。

「・・・ごめん、ぼーさん」

「気にすんなって。別にお前が悪いわけじゃねーんだから」

返ってくる労わりの言葉に、は滲みそうになる視界に気付いてギュッと目を閉じた。

誰も自分を責めたりしない。

それが解っていながら、は謝罪を口にする。―――そんな自分がとてもズルく思えて、それがたまらなく嫌で、は強く拳を握り締めた。

「・・・ごめんなさい」

小さく小さく口の中で囁くように告げられたその言葉は、今度こそ滝川たちに届く事もなく。

誰にも聞き咎められる事もなく、の心の中に響いてひっそりと消えていった。

 

 

◆どうでもいい戯言◆

今回こそ、主人公の謎を明らかにしたいと思っています。

前回はうっかり長くなりすぎて、それどころじゃありませんでしたから。(笑)

まぁ、そろそろ暴いておかないと、残りの章も少ないですからね。

作成日 2008.4.8

更新日 2009.5.13

 

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