目の前で膨れ上がるような黒い獣の影に、身動きが取れなかったのは何故なのだろう。

尋常ではないほどの、明らかなそれ。

恐怖を感じても可笑しくないほどのそれを前に、けれどは驚くほど何も感じていない自分に気付いていた。

だからだろうか?―――それを前にしても、動けなかったのは。

それは黒い獣が、自分たちへと向かってくるのを目にするまでの話だけれど。

「・・・こっちへ来い」

今度こそ恐怖で一歩も動けないを背中に庇い、向かってくる黒い獣と向き合うナル。

黒い獣は、ただ自分たちを見据えていた。

それは自分を見ていたのか、それともナルを見ていたのか。

それすらも解らないまま、突然の衝撃に床に転がったは、一瞬目の前で何が起こったのかを理解できなかった。

苦しそうな面持ちで蹲るナル。

慌てた様子の滝川たち。

フラッシュバックする映像に、はそれに耐えるかのように眉間に皺を寄せた。

可笑しな話だ。―――自分はその光景を知らないはずなのに。

「大丈夫か、

いつの間にか傍にいた滝川に手を引かれて、は緩慢な動作で立ち上がる。

腕にしっかりと感じる大きな手。

感じる手の温もりが心地良くて、そして酷く切なかった。

 

思わぬ誤算

 

「・・・落ち着いたか?」

「ええ、おかげさまで」

ベースに戻り、漸く平静さを取り戻したは、掛けられた滝川の問いに気まずそうな返事を返しながら、僅かに視線を泳がせた。

予想外の展開であった事も確かだけれど、先ほどの事は思い出すだけでも自分が情けなく思えて、は小さくため息を吐き出す。

あんなにも過剰反応する必要はなかったのだ。―――だというのに、そうなってしまった自分を思い出すと頭が痛い。

おまけにあの状況で一歩も動けなくなるのだから、この事を一清に知られれば鼻で笑われる事は間違いない。

想像するだけで、腹立たしく思えるが。

「・・・だめみたい、映ってないよ。あのキツネみたいなのが出てきたあたりからザーッてなっちゃう」

「霊障でしょうね、テープは動いているようですから。他の計器類は全部針が振り切れています」

思わず頭を抱えそうになったのすぐ近くで、設置していたモニターを覗き込みながら麻衣とリンがそんな会話を交わしている。

引かれるようにチラリと視線を移せば、確かにモニターは砂嵐で何も映ってはいなかった。

それを確認してから、は視線を窓際へと移す。

窓際に設置されたテーブルセットには、いつもならば真っ先にモニターの確認をしているだろうナルが、頭を抱えるようにして座っていた。

具合が悪いのだろうか?

そもそもナルは黒い獣のような影に、真正面から襲い掛かられたのだ。

いつものナルならば、そんなヘマはしないだろう。

原因の一端は自分にあるとそう自覚しているは、声を掛ける事も出来ずに唇を噛んだ。

生きていく上で、出来る限り人の負担にならないようにと気をつけていたのに・・・。

「単なるキツネに見えたが、そんな生易しい相手じゃないかもしれんな。、お前は何か解らなかっ・・・―――と。ナル坊、どうした?」

麻衣とリンの会話を聞いていた滝川が、考え込むようにへと問い掛けて・・・―――しかしの視線がナルに注がれている事に気付いて、彼もまたナルへと視線を向けた。

いつもの彼らしくない様子。

それだけの出来事があったのだといえばそうなのだが、弱っているナルなど想像がつかない。―――それでも滝川の呼びかけに応えないナルを認めて、麻衣は心配そうな面持ちで俯くナルの顔を覗き込んだ。

「気分が悪いの?」

「・・・いや、少し背中が痛むだけだ」

重ねての問い掛けに、漸くナルが答える。

しかし顔を上げようともしないという事は、よほどの事なのだろう。

それに・・・―――はじっとナルを見つめ、僅かに目を細める。

ナル本人は背中が痛むと言っているけれど、とてもそうは見えない。

むしろ痛むのは背中ではなく、頭の方なのではないかと・・・。―――何故ならば、ナルがじっと額を押さえているからだ。

「さっきぶつけたところ?大丈夫?」

「大した事はない。・・・悪いが、少し寝てくる」

更に心配そうに声を掛ける麻衣に、ナルは素っ気無くそう告げながらゆっくりと立ち上がった。

そんな彼の発言にも、は驚きを隠せない。

あの仕事の鬼のナルが・・・―――必要とあれば徹夜だって簡単にやってのけるナルが、少し休んでくるというのだ。

もしかするとよほど具合が悪いのかもしれない。

そうは思うけれど、ナルの性格からいえばあまり構われるのは歓迎されないだろう。

「じゃ、アタシが部屋まで送ってくるわ。ついでに自分のとこで着替えてくる」

立ち上がったナルを認めて、同じく立ち上がりながら綾子がさりげなくそう告げる。

そのままゆっくりとした足取りでベースを出て行くナルを支えながら、綾子もまた廊下へ姿を消した。

その後姿をぼんやりと見送りながら、は小さく息をつく。

ナルの不調の原因は、間違いなく自分にある。

もう少し気をつけていれば・・・―――もっとちゃんと警戒していれば、こんな結果にはならなかったかもしれない。

以前までならば、仕事中に気を抜くなんて事は一度もなかった。

それが今ではちゃんと一息つく事も覚えてしまっている。―――それはいつの間にかSPRのメンバーを信頼している証拠でもある。

それは決して悪いことではないけれど、時と場合によるのだ。

が逃げ遅れなければ、ナルが襲われる事もなかったかもしれない。

けれど、ナルはを責めないのだ。

「・・・責めてくれればいいのに」

ナルが出て行った廊下をぼんやりと見つめながら、がポツリと呟く。

そうすれば、少し楽になるのかもしれない。―――それこそが甘えであると解っていたけれど。

「・・・どうなのかねぇ」

「そうだよね、甘えてるよね」

「やっぱり!チャンスだよね!」

「なんだよ、チャンスって。っていうか甘えてるって何が?」

絶妙なタイミングで掛けられた声に思わず言葉を返すと、呆れたような滝川の視線が返ってきた。―――同じように声を上げた麻衣も、滝川の視線に気付いて気まずそうに乾いた笑みを浮かべている。

「・・・っていうか麻衣、今何考えてたの?」

こそ、何考えてたの?」

お互い顔を見合わせて、一拍後にヘラリと笑顔浮かべる。

ここはお互いの為に、追求は止めておいた方が良さそうだ。―――最も麻衣がどんな事を考えていたのかは、には大方の想像がついたけれど。

そんな2人は、不意にエヘンという滝川の咳払いに気付いてそちらへと視線を向ける。

「・・・あ」

うっかり、滝川の呟きをスルーしてしまっていた。

それに気付いて改めて話を振ると、滝川は少しだけ呆れた様子を見せながらも、もう一度咳払いをしてから口を開いた。

「だから、綾子だよ。あいつは何者なんだろうなって」

「何者って・・・」

「さっきの除霊だって完全に失敗だろ?あいつが役に立ったの見た事あるか?」

だから、巫女でしょ?

そう答えようとしたは、しかし続けられた言葉に思わず口を噤んだ。

確かに滝川の疑問ももっともだ。

初対面の時からそうだったが、森下家では除霊に失敗しただけではなく、1人じゃ怖いから付き添ってと言い出す始末だ。

その後も様々な場面で除霊を行っていたが、そのすべてが見事なほど失敗に終わっている。

「大体、巫女って事自体が胡散臭いんだよ。ちゃんとした神社に所属する巫女さんが、ふらふら勝手に除霊して回ったりするもんか」

「え、そうなの!?」

思わず考え込んでしまったを認めて、滝川がそう言葉を続ける。

それに驚きの声を上げる麻衣にしっかりと頷いて、滝川は考えるように口を開いた。

「あくまで『自称・巫女』って事だろう。だからって巫女の装束を着てるだけの霊能者っていうのとも違うしな」

「そうなんだ・・・」

「一応、両部神道の方式に則ってるからな。どっかでちゃんと修行したのは間違いねぇんだろうし・・・。―――第一、ほんとに無能ならナル坊がつれてくるか?」

逆に問い掛けられて、はこれ以上ないほど納得して頷いた。

は神道の方式などには詳しくないし、綾子の除霊がどれほど巫女として形式に則ったものなのかは判断できないけれど、確かに滝川の言う事ももっともなのだ。

あれほど現実主義者で無駄な事を一切嫌うナルが、これまで結果が散々だった綾子へ助っ人の仕事を依頼しているのだ。

そこに何かあるのかもしれないと勘ぐっても、それは仕方のない事だろう。

まぁあまり役に立っていると胸を張って言えない辺り、としても強気な発言は控えなければならないだろうが。

「ま、でも確かにそうだよねぇ。だからって、ナルが何考えてんのかは解んないけど。―――って、麻衣どうしたの?・・・あ」

滝川の言葉に素直に同意したは、納得したように頷いて・・・―――そうして同じように相槌を返した麻衣が突然食い入るようにモニターを見つめ固まったのに気付き、は訝しげに首を傾げた。

「お、なんか映ってる?」

同じくそれに気付いた滝川もまたモニターを覗き込む。

そうしてそこに映し出されていたものを認めて、呆気に取られたような感心したような複雑な面持ちで口を開いた。

「あらららら〜。こりゃまたなんとも・・・」

「え、なに?―――うわっ」

滝川のそんな声に興味を引かれて同じくモニターを覗き込んだは、そこにしっかりと映し出されている光景に思わず声を上げた。

モニターには、廊下で立ち止まっているナルと綾子の姿が映し出されている。

それだけならば何も問題はない。―――具合の悪いナルを部屋に送り届けに行った綾子が彼と2人でいる事は、なんら不自然なことではない。

それでも3人が思わず声を上げてしまったのは、ナルが綾子に覆いかぶさるように顔を近付けていたからだ。

カメラに背中を向けている為に決定的な場面は映っていないものの、それが何を意味するのかは想像に難くない。

「うわー、ナルが年上好きだったとは。そして実はムッツリだったとは・・・」

「っていうかよりによって綾子って・・・。いや、綾子だって十分美人さんだけどさぁ」

ぶつぶつと呟きながら、チラリと隣の麻衣を見やる。

麻衣はの視線にも気付く余裕はないのか、モニターに釘付けになったまま顔を青くしている。

ここで自分に想いを寄せている麻衣や真砂子を選ばないところが、ナルの天邪鬼さを顕著に表している気がしてならない。―――いや、2人の想いをナルが気付いているかどうかはともかくとして。

普通に考えればあの聡いナルが気付かないはずはないけれど、事恋愛に関しては程遠いところにいそうなナルの事だから、はっきりと気付いているだろうと言い切れないところが微妙だ。―――最も、そんなことはに言えた義理ではないだろうが。

「やるなぁ、ナルちゃん」

別にナルが綾子を選ぶのならそれは構わないが、そうなるとこの絶妙に重苦しい空気はどうすればいいのだろうかと、は滝川の感心したような声を聞きながらぼんやりと思う。

せめてここに真砂子がいなくて良かった、とも。

そうでなければ、この場の雰囲気は氷点下になっていたに違いない。

そう思うと、思わずの口からホッと安堵の息が零れる。―――ちょうど、その時だった。

「ぼーさん?」

「え、なに?どうしたの、ぼーさん!!」

麻衣の不思議そうな声に我に返ったその時には、滝川はもう立ち上がっていた。

慌てて声を掛けるも、滝川は焦ったように廊下を飛び出していく。

「リン、来い!!」

何故かリンを連れてベースを出て行った滝川を見送って、は麻衣と共に訝しげにモニターを覗き込んだ。―――あの滝川の慌て様は、何かあったに違いない。

「・・・え?」

「うそ、なんで?」

そうしてと麻衣は目撃した。

モニター越しの小さなものではあるけれど、今ならばそこで何が起こっているのかはっきりと理解できた。

綾子に覆いかぶさるナルの姿。

一見ラブシーンのようにも見えるそれは、しかしそんな艶めいたものではなかった。

苦しげな綾子の表情。

伸ばされたナルの手は、しっかりと綾子の首を掴んでいた。

「・・・なんで、ナルが綾子の首絞めてんの!?」

「っていうか、こんなトコで見てる場合じゃないって!!」

思わず声を上げた2人は、先に飛び出していった滝川とリンを追うようにベースを飛び出す。

そうしてほど遠くない場所でナルと綾子の姿を見つけた頃には、既に事態は強制的に収束させられていた。

おそらくは意識を失っているだろうナルを抱えているリンと、その傍らで激しく咳き込んでいる綾子の姿。

「綾子!!」

思わず声を荒げて駆け寄れば、綾子は咳き込みながらもへと視線を向けた。―――その顔色は当然ながら悪い。

「大丈夫、綾子!?」

今もまだ咳き込み続ける綾子の傍らに膝を付けば、強い力で腕を掴まれる。

それが綾子の苦しさや恐怖を表しているような気がして、はその手を強く握り返した。

「・・・ナルは?」

「リンが手刀で一発」

リンに抱えられたまま動かないナルを見つめながら麻衣が問い掛ければ、滝川がジェスチャーつきでそう答える。

流石に暴れる栄次郎をあっさりとねじ伏せただけはある、と思わず感心しながら2人を見ていたは、しかしすぐに表情を真剣なものへと変えた滝川に気付いて視線を戻した。

「・・・こいつはちょっと厄介な事になったかもしれねぇな」

「・・・え?」

「さっきの奴だ。てっきりナルの身体と壁をすり抜けて逃げたと思ってたんだが、そうじゃない。―――奴はナルの中に入り込んだんだ」

滝川の言葉に、心臓がドクリと音を立てる。

自分を庇って霊に襲われたナル。

その結果が、これなのだとしたら・・・?

「・・・それって」

否定して欲しいような気持ちで口を開くも、既に現状は誤魔化しきれないところまで来ていた。―――もっとも、ここで誤魔化したところで何かが変わるわけではなかったが。

「ナルは奴に憑依されてる」

キッパリと告げられた現実。

あまりの出来事に、は思わず眩暈を感じた。

 

 

ベースは、奇妙なほどに静まり返っていた。

事態は、思わぬ展開を見せている。―――こんな事態を、一体誰が想像しただろうか。

そんな中、流石にこの沈黙を破ることが出来ずに口を噤んでいたは、続き間になっている隣の部屋で布団に横たえられているナルを横目で見やった。

ナルが眠っているところなど、初めて見たような気がする。

これまで何度も調査を共にし、その際には泊り込みのものもいくつかあったが、こうしてナルの寝顔を見るのは初めてだ。

それどころか、ナルが休んでいる姿を見る事自体が稀な事だったが。

そんな事を考えながら、いかんいかんとは僅かに首を横に振った。

事態は深刻なのだ。

こんな現実逃避のような事をしていても仕方がない。―――否、現実逃避のような・・・ではなく、間違いなく現実逃避に違いないが。

「・・・さて、これからどうするか」

ベースの重い沈黙を破ったのは、滝川だった。

発せられた声に弾かれたように顔を上げると、全員が眠っているナルを見つめている。

「栄次郎さんみたいに縛っておいた方がいいんじゃないの?」

少し怯んだような戸惑ったような面持ちで綾子がそう口を開く。

彼女のその考えも当然の事だと言えた。―――何せナルに首を絞められた被害者であるのだから。

もう二度とあんな目にあうのはごめんよ。と告げる綾子を前に、滝川は複雑な面持ちで口を開いた。

「ナルをか?あとで何言われるか解んねぇぞ」

確かに・・・とそう納得できるところが妙に嫌だ。

深刻な顔をしてコクコクと頷き同意を示す麻衣を認めて、綾子が顔を青ざめさせながら僅かに身体を仰け反らせる。

縛り上げられた状態でナルが目覚めたら・・・―――本当に、これまでのような嫌味で済めばいいが・・・。

「でもさ、この状態ってとんでもなく危ないじゃない。ナルだって知らない内に殺人犯になるよりは、まだ縛られてる方がいいんじゃないの?ちゃんと話せば、ナルだってきっと解ってくれるよ」

むしろそうあって欲しいという思いを込めて口を挟めば、これまでずっと沈黙を守ってきたリンがおもむろに口を開いた。

「・・・縛ったくらいでナルを止めることは出来ないと思います」

いやにあっさりと告げられた言葉に、全員が目を丸くしてリンを見やる。

しかし当の本人は、いつもと変わらない冷静な面持ちのまま。―――今もまだ眠り続けるナルをじっと見つめている。

「どういう事だ?」

「言葉通りの意味です。松崎さんは運が良かったのだと思いますね」

足りない言葉の説明を求める滝川にも、リンはあっさりとそう答える。

そうしてじっと視線を注ぐ全員へとゆっくりとした動きで視線を戻したリンは、静かな声色で言葉を続けた。

「おそらく、ナルに憑依した者もまだナルの使い方がよく解っていないのでしょう。でなければ松崎さんはとっくに死んでいますよ」

リンの言葉に、咄嗟に綾子は顔を青くさせながら自分の首へと手をやった。―――今もまだ、あの時の苦しさと恐怖がありありと残っている。

「奴が本格的にナルを使う事を覚えたら、我々に対抗手段はありません。縛り上げようと監禁しようと無駄です。我々もナル自身も・・・―――生き残る事はできないでしょう」

キッパリと告げられた思わぬ発言に、全員が言葉もなくリンを見つめた。

言われた意味が解らない。

何故そんな結論になるのか。―――そう問いたげな麻衣の隣で、は僅かに眉根を寄せた。

「・・・どういう事なのか、聞いたら教えてもらえるかね?」

「申し訳ありませんが、私の一存では」

更に重くなった空気の中で、果敢にも滝川がそう問い掛けるもリンは控えめに拒否を示す。

「あのなぁ!」

「ご不満は解りますが、私には申し上げられません。ここは信じていただくしかないんです。ナルはあなた方が想像している以上に危険な人間だという事を」

それに抗議の声を上げる滝川を遮って、リンは更にそう言葉を続けた。

滝川たちにとっては、訳が解らない事だらけだ。

ナルが危険な人間だといわれても、どんな風に危険なのかがはっきりしない。―――まぁ、怒らせるとある意味危険な人物であるという事は否定しないが。

それにしたって、リンの口から告げられる言葉は物騒なものばかりだ。

その正体がはっきりしないのに、不安だけが募っていく。―――そしてその理由は、どうあっても告げられないのだと。

「・・・ひとつ、聞く」

しかしこうもはっきりと拒否された以上、これ以上問い詰めたところでリンが口を割らないのは目に見えている。

もとよりおしゃべりな方ではないから、うっかり口を滑らせる期待も出来そうにない。

そう結論付けた滝川は、違う方向からの確認を・・・と考えを巡らせながら口を開いた。

「お前さん、喧嘩は強いか?」

「おそらく」

「ナルとどっちが?」

栄次郎をいとも容易くあしらって見せたリンの腕前は、聞かずとも既に判明している。

それでもそんな問いを投げ掛けた滝川に、リンはどう答えようかとしばらく考えを巡らせて。

「殺し合いなら、ナルの圧勝でしょうね」

静かな静かな声で告げられたリンの言葉に、場が一斉に静まり返った。

全員が言葉もなくリンを・・・―――そして隣の部屋で眠るナルを見やる。

「・・・怖っ!」

そんな中、わざとらしく自分自身の身体を抱きこんで声を上げるに、隣に座っていた麻衣ががっくりと肩を落とした。

「・・・

「いや、だって殺し合いって。何その物騒な表現」

「気持ちは解るけどさ・・・」

だからってその感想もどうなのよ・・・と、他人事のように場を眺めながら、綾子がひっそりと感想を漏らす。―――まぁ、の場合は解ってやっているのだろうが。

おそらくは滝川もそれは承知しているのだろう。

少しだけ緩んだ場の空気に深く深くため息を吐き出しつつ、了解と呟いた。

「つまり簀巻きにして物置に放り込んでも無駄なんだな?―――となりゃジョンを待ってる余裕はない。今のうちに除霊してみるしかねぇわけだ」

「たとえブラウンさんでも無理だと思います」

「にゃんだとう!」

あまりの展開に何とか活路を見出そうとする滝川の提案に、しかしリンはあっさりとそれを否定した。

「ナルのようにきわめて意思が強く自制心に優れている人間・・・―――つまり我が強いタイプの人間は、通常は憑依されにくい。その代わり、一旦憑依されると霊を落とすのは容易じゃありません。下手に手出しをして暴走させると危険です。特にナルの場合は」

それじゃまるであまりにも霊に憑依されやすい私は、意志も自制心も弱いと言ってるみたいじゃない。―――と心の中で見当違いの反論をしながら、はチラリとナルを見やる。

まぁ、ナルと比べれば確かに意思も自制心も弱いだろうが。

「・・・じゃ、どうすりゃいいんだ」

リンの言葉に、とうとう滝川はがっくりと肩を落として深くため息を吐き出した。

まさに四面楚歌。

この状況を、一体どうすればいいのか。

そんな滝川を見つめて、しかし相変わらず変わらない表情と声色のままリンは言葉を続けた。

「解りません。憑依した霊の正体が掴めれば、有効な除霊方法が見つかるかもしれません。あるいは、私にも落とせるかも」

そう呟いて、リンはチラリと横目でを見やった。―――その視線に気付いたのか、滝川もまた視線をへと向ける。

「・・・なに、その視線」

2人から向けられる無言の訴えに、は僅かに頬を引きつらせながら背を逸らした。

彼らが自分に何を求めているのかは、おぼろげながら理解している。

しかしそれにしっかりとした答えを返す事が出来ないことも、自身が一番よく理解していた。

「期待してくれてるとこ悪いけど、今ははっきりした事は解らないよ。私だってどういう事なのかよく解ってないんだから」

「・・・どういう事か解っていない?」

「なんか・・・ややこしい感じっていうか、今まで感じたことがない感じっていうか。―――いや、まったく感じた事がないかといえばそうでもない気もするんだけど」

しどろもどろと考えながらそう答えるを認めて、滝川が不思議そうな面持ちで首を傾げた。

「なんじゃそりゃ?」

「だからそれは私の方が聞きたいってば。―――とにかく、ナルに憑依した霊の正体をはっきり知りたいっていうなら、今の私にははっきり答えられないって事だけは確かかな。申し訳ないとは思うけど」

そう締めくくって、は再びナルを見やる。

そんなを見つめて、今まで口を噤んでいた綾子がおもむろに口を開いた。

「こんな事言うのもなんだけどさ、そのブレスレットを外せばちょっとは違うんじゃないの?」

「そう・・・かな。んじゃ、とりあえず試してみる?」

「駄目です」

しかしそんな綾子の提案は、当のではなくリンによってあっさりと却下された。

それに揃って視線を向けると、相変わらずの無表情のまま・・・―――しかしいやに強い光を宿したリンの瞳が、逸らされる事なく注がれている。

「・・・リンさん?」

「それでもし貴女までが憑依されたらどうするんですか?」

「そんな深刻に考えなくても・・・。ナルと違って、私は憑依霊を落としにくい体質じゃないし」

「・・・本当にそうでしょうか?」

返ってきた疑問に、と綾子が不思議そうに首を傾げる。

そんな2人の前で、リンはムッツリと黙り込みチラリとナルに視線を向ける。

確かに今まではそうだった。―――は霊に憑依される回数も多かったけれど、いつだってそれほどの抵抗もなく霊を落とす事が出来ていた。

だからナルが家当主から『の能力と対処法について釘を差された』と聞いた時、彼女がどれほど霊に憑依されやすいのか・・・、そして霊に憑依された時の危険を教えられたのだと思っていた。

けれど思うのだ。―――本当に、それだけなのだろうかと。

何か具体的な根拠があるわけではない。

ナルに抱く危機感と同じものが、にあるとも思わない。―――けれど漠然とした不安のようなものが、どうしても拭い去れないのだ。

だからこそ、ナルはの能力を多用しなかったのではないかと。

そんな考えを読み取ったのか、はたまた滝川自身にも思うところがあるのか、訝しげな表情を浮かべている女3人をチラリと見やって、滝川は仕切りなおしとばかりに口を開いた。

「ま、それはとりあえず保留って事にしとこうぜ。やろうと思えばいつだってやれるんだし」

「それはまぁ、そうだけど・・・」

場の雰囲気を読み取ってか、綾子はそれ以上何も言わずにひとつ頷く。―――それを確認してから、滝川が更に言葉を続けた。

「・・・となると、とにかく調査を続行するしかないわけだ。でなきゃナルに憑いた霊の正体も解んねぇしな。―――でもその間、ナル坊はどうする?縛っても何してもダメなんだろ?」

「私が禁じておきます。金縛りをかけてこのまま眠らせておくのが最善でしょう。意識があると危険ですので」

「・・・なんかもう、言いたい放題な気が」

確かにリンのいう事は間違っていないが、これをナル本人が聞けば強い怒りを買いそうだ。

しかしそれ以外に方法はないのだ。

縛ってもナルを止められない以上、このまま静かに眠ってもらう以外に手はない。

しかし問題はそれだけではないのだ。

「そうすっと、ナル坊がまったくの無防備になっちまうぞ」

この吉見家には、今正体不明の霊がいる。―――それもおそらく、何体か。

もう既にナルの中に霊がいるとはいえ、更に狙われないとも限らない。

それがリンが認めるほど、危険な人間だというのならばなおさら。

しかしそれに対しても、リンは動じた様子なくひとつ頷いて。

「式を残しておきます」

「アテになるのか?」

「全部を残せば」

滝川の問いに条件付ではあるが肯定を返して、リンはチラリとへ視線を向けた。

リンの持つ式は五つ。

それぞれに得手があり、不得手がある。―――五つでお互いに補い合うようになっているのだ。

「全部を残せば完全に安全ですが、その代わり私に出来る事はいくらもありません」

「つまりお前さんがパワーダウンしちまうわけだ」

「そういう事になります」

リンの説明に滝川が納得したように頷けば、リンもまた同意を返す。

たとえばそれを自分が出来たのなら、状況は少しは好転したのかもしれない。

しかしにはナルを完璧に押さえられる自信などなかった。

リンが口に出しては言えなかった部分も承知しているには、そんな大口は叩けない。

もう既に出てしまった結論を前に、滝川は脱力したように肩の力を抜いた。

「よし!仕方ないが、それで行こう。ナル坊にうろつかれちゃ厄介だ。危険物ってんなら尚更な。―――んで、、綾子、麻衣、お前たちはどうする?」

そう結論を出した滝川に唐突に視線を向けられ、名前を呼ばれた3人は揃って顔を見合わせた。

「どうって・・・」

「つまり、俺たちはナル抜きでやらなきゃいけねぇって事さ」

戸惑いのままに口を開いた麻衣に向かい、滝川はキッパリとそう告げる。

それに解っていたはずだというのに改めてそれを実感した麻衣は、軽く目を見開いたまま言葉もなく滝川を見返した。

そんな麻衣の視線を真っ向から受け止めて、滝川は更に言葉を続ける。

「あいつはまったく役に立たん。この状態じゃ連れて逃げ出すわけにもいかんだろう。やれる限りの事をやるか・・・―――それともナルを見捨てて逃げるか」

「みっ!見捨てるなんて出来るわけないじゃない!!」

「んじゃ、麻衣は残るんだな」

こちらも予想通りの返答に、滝川は納得したように頷いた。―――もとより、ここで麻衣が大人しく帰るとは思っていなかったが。

、お前は?」

「っていうか、このまま帰れるわけないじゃん。こうなった一端は私にもあるんだから」

問い掛けられたは、不本意そうに・・・けれどしっかりと強い光を瞳に宿してそう答える。

こちらもまぁ、予想通りの返答だ。―――多少、素直じゃない部分もあるけれど。

そう心の中で感想を漏らした滝川は、残る綾子へと視線を向けて。

「そう言うと思った。・・・で、綾子は?」

しかし問い掛けられた綾子は、困ったように眉を寄せたまま口を噤んだ。

これまでだって危険な事は山ほどあった。

今から思い返せば、よく無事でいられたものだとそう思う。

そこにナルの指示があったからだという事も不本意ながら解っている綾子は、麻衣やのように即答で残ると答えられない。

ここから先、何が待っているか解らないのだ。

そして、綾子のその考えは間違っていないだろう。

「自信がなきゃ引っ込んでろ」

しかし滝川の軽い挑発に、綾子はあっさりと乗ってしまった。

「・・・あんたは自信があるようねぇ?」

「何とかなるんじゃねぇの?まぁナル坊が使えんのは痛いが、俺たちには奴にないもんがあるからな」

「あーら、それは初耳だわ。何なのか聞かせてもらっていいかしら?」

嫌味たっぷりでそう告げるも、滝川は大して気にした様子もなく飄々と言ってのける。

それに更に怒りのボルテージを上げながら問い掛けた綾子に向かい、滝川は平然とした様子でにやりと笑った。

「謙虚な姿勢と親切な性格」

あっさりと返ってきた言葉に、一拍の間を置いてと麻衣と綾子はほぼ同時に噴出した。

「言えてる!」

「確かに!!」

お互い顔を見合わせて笑いながら、これはもう仕方がないなと眉を下げて。

「しょうがない、助けてやるか。ナルを見捨てるようじゃ人間お終いだもんね」

「ねー」

綾子の素直ではない言葉に、はもう一度勢いよく噴出した。

本当に、言いたい放題だ。

けれど、本当は最初から答えなんて解っていたのかもしれない。

たとえどんな状況であったとしても、ナルを見捨てて逃げられるような人間などここにはいないのだから。

今この状況をどうにかできるのは、きっと自分たちしかいない。

ナルを助ける事も、吉見家の人たちを守る事も。

そんな奇妙な使命感にも似た想いが、胸の中に湧いているから。

「もうこうなったらナルに『危険物』ってシールでも貼っとこうか。手を触れないでくださいって」

「動物園の猛獣かよ」

隣の部屋で眠り続けるナルを見やりそう口を開けば、滝川のテンポのいい突っ込みが返ってくる。

この空気だ。

この不思議と温かくて居心地がいいこの空気を、失わない為に。

「さてと、頑張りますか!」

の気合の入った声に、全員が同意したように頷いた。

 

 

◆どうでもいい戯言◆

今回はナルの出番は更に減りそうな勢いですが。

でもこの回って、ぼーさんとリンがなんだかパートナーみたいで、ちょっとわくわくするんですよね。(なにそれ)

今回はぜひ主人公にも活躍して欲しいところですが。

作成日 2008.5.1

更新日 2009.8.12

 

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