時計の針が時を刻む音を聞きながら、は目の前に座る青年を見詰める。

何度体験しても、この瞬間だけはいつまでも好きになれない。

宣告を待つ囚人はこんな気持ちなのだろうか・・・と、頭の片隅でぼんやりと思う。

勿論この状況が囚人よりも悪くはないだろう事は、承知しているけれど。

「・・・まぁ、良いだろう」

十数分ぶりに耳に届いた音らしい音に、は思わずホッと息を吐き肩の力を抜く。

ダメ出しをされなかった事に安堵した。―――報告書を一から作り直す手間も避けたいが、何よりも今回の事件ではは何もしていないも同然だったのだから、そこを突かれれば反論のしようがない。

それを知っていながら気付かぬフリをしつつ、一清はに提出された今回の事件についての報告書を静かにテーブルの上に置き口を開いた。

「ご苦労だったな」

とても相手を労わっているとは思えない声色で告げられる労わりの言葉に、ヒョイと肩を竦めて苦笑する。

これで本当に仕事は終わったのだ。

もう学校を休む必要もないし、夜中に不気味な校舎をうろつくもない。

だというのに、何故だろうか?―――真実のすべては判明したというのに、今もまだ胸の内がすっきりとしないのは。

「・・・どうした?」

「どうもしないよ」

ピクリとも表情を動かさずに問い掛ける一清に、もまた無表情のままそう返した。

 

さな約束

 

「はい。これで全部かな?」

「あー・・・ありがとう」

椅子に座ったままのを見下ろすように机の前に立ち、にっこりと微笑む親友に引き攣った笑みと共に礼の言葉を告げる。

親友・武藤奈月は、返って来た言葉に満足げに笑みを深めた。

勿論、礼を言われて嬉しいからではない。―――これからのの苦労を察し、その過程を考えて楽しんでいるのだから性質が悪い。

もっとも、それを差し引いても彼女の存在はありがたいものだったが。

予想していたとはいえ、実際に目の前に積まれた分厚いルーズリーフの束を見詰めて、は深くため息を吐く。

仕事の為に学校を休んでいたが受けられなかった、約一週間分の授業ノートのコピーをパラパラと捲りながら、更に込み上げてきそうなため息を何とか飲み込む。

歴史などの暗記系は、この際仕方がない。

数学も応用問題ばかりで先に進まなかったのは幸運だった。

しかし毎日の授業をこなしつつ、予習復習も怠らずにこれを捌くのは、それほど簡単な事ではない。

これからも当分は睡眠時間を削らなくてはならないだろうと思うと、八つ当たりだと解っていてもこの苛立ちを上司にぶつけたい思いが湧いてくる。

もっとも、そんな事をすれば倍どころか3倍にも4倍にもなって返って来る事は解っていたから、あえてそんな愚かな行動に出はしないけれど。

「あ、忘れてた。それからこれ・・・これが、が休んでた間に出た課題ね。良かったね、提出期限が休んでる間じゃなくて」

にっこりと悪魔のような笑顔で差し出された課題に、今度こそ隠す事無く表情を歪ませたに、奈月は至極楽しそうにクスクスと笑う。

どうして自分の周りにはこんな人間ばかりなのだと今更ながらにそう思い、手渡された課題を流し見する。

しかし奈月の言う通り、提出期限が休んでいる間でなくて良かったとしみじみと思った。

確かには特別に許可を得て学校を休んではいるけれど、残念ながら提出期限までは待ってくれない。

勿論提出期限が過ぎた提出物でも受け取ってはくれるが、期限外提出と処理されてしまうのだ。―――それを避ける為には、出された課題を何とか終わらせ、誰かに提出してもらうという手を使うしかない。

とは言っても、仕事内容が特殊なだけに、仕事をしながら課題を終わらせるなど不可能に近い。

もはやこうなっては、休みと提出期限が重ならないよう祈るしかないのだ。

机の上に更に積まれた紙に、いっその事燃やしてやろうかと殺意を抱くが、そんな事をして困るのは自分なのだと解っているだけに手も足も出ない。

「ね、

げんなりとしながらルーズリーフのコピーを手に取り中身の確認を始めたに、自分の責任は済ませたとばかりに奈月が目を輝かせての顔を覗き込む。

「それで、今回の事件はどんなだったの?やっぱり怖〜い幽霊とか、いた?」

興味津々に問い掛ける奈月を見返し、は困ったように苦笑する。

彼女がそれを聞く事に、言葉以上の意味はない。

ただ単に好奇心からの他愛無い問いなのだ。―――有名進学校に通うとはいえ、その辺りは普通の女子高生と変わりない。

もっとも、彼女は勉学だけに情熱を注ぐ他の生徒と比べても、ある意味浮いた存在である事も否定はしないが・・・。

更に上の大学への進学を望む生徒たちは、ライバルになるかもしれない者に対し、親切にも授業ノートのコピーなど取ってはくれない。―――だからこそと気が合っているというのも確かだ。

この一風変わり者の親友を前に、は手にしていたコピーを置いて困ったように頭を掻く。

そういうのは守秘義務というものにより、口外するのは好まれないのだけれど。

それでもには奈月に世話になっているという引け目がある。―――勿論話をしなくても、彼女は今までと変わりなくノートのコピーを取ってくれるのだろうが。

そして、奈月が誰よりも口が堅いという事をは知っている。

だからこそはいけない事だと解っていても、簡単にだが話してしまうのだ。

勿論深いところまでは話したりはしない。―――こういう噂のある古い校舎に、こういう事件が起きて、真実はこうだったのだと。

学校名も、関わった人物の事も、何も話さない。

ここだけはとしても譲れないところだった。

そうして奈月は、まるで何かの小説の話を聞くようにそれを聞く。―――それが本当なのか嘘なのかも、彼女にとってはそれほど重要ではないのだ。

「へぇ〜。地盤沈下ねぇ・・・」

簡単に事件のあらましを聞き終えた奈月は、体勢を整えるように背を逸らし天井を見上げて。

「でもただの地盤沈下でも、見方によっては幽霊がいるように見えるんだから、人間の思い込みって怖いよねぇ〜」

そうして何気なく呟かれた言葉に、も同意を表すかのように苦笑する。

そうなのだ。

結論で言えば、今回の事件は地盤沈下が原因だった。

その後の黒田の無意識の暴走が余計に話をややこしくしていた事はともかく、窓ガラスが割れたり、黒板にヒビが入ったり、どこからか木の鳴る音が聞こえて来たとき、ほぼ全員がそれをポルターガイスト現象だと疑いもしなかった。

それは、あの旧校舎には霊がいると、誰もがそう認識していたからだ。

もしもあそこに霊がいるかもしれないという話を聞かずにあの場にいたなら、突然窓ガラスが割れた原因はなんなのだろうと広い視野で推理できたかもしれない。―――勿論それが霊の仕業だと思ったのは、それに関する知識をもっていたからという理由もあるが。

しかしナルが真実を究明してくれなければ、今もまだ無駄な調査をしていたに違いない。

パラパラとルーズリーフを捲りながらそんな事を考えていると、不意に目の前に座る奈月が静かになった事に気付き、どうしたのだろうと不思議に思って顔を上げた。

しかしはすぐさま顔を上げた事を後悔する。―――なぜならば、当人である奈月が何かを含むような人の悪い笑みを浮かべていたからだ。

「それで・・・今回は同業者もいたんでしょ?どんな人たちだった?かっこいい人、いた?」

興味を隠す事無く問い掛ける奈月に、呆れたとばかりにため息を吐き出したは、視線を奈月からルーズリーフへと移し、昨日まで一緒にいた同業者を思い出す。

本音を言えばそのまま無視したかったが、それで騙されてくれるほど彼女が生易しい相手ではない事も良く解っていた。

「え〜っと・・・どういう人、って・・・」

そうして次々に脳裏に浮かぶ面々を思い出し、思わず苦笑する。

「冷たい雰囲気の美青年と、元気で明るくて可愛い女子高生に、金髪の可愛い青年と日本人形みたいな女の子。あとは妖艶って感じのお姉さまに、今風の茶髪長髪のお兄さん。ああ、そういえばほとんど面識ないけど、こっちも冷たい・・・っていうか堅い雰囲気纏った綺麗な顔したお兄さんもいたなぁ・・・」

口に出してみて改めて思う。

こう考えれば、なんて姿形だけは整った集団なんだ・・・と。

いささか性格に難のある者もいるが、基本的にみんな顔は良かった。―――彼らと一緒にいた時はあまり気にしなかったが、あの面々が全員揃っているところはさぞや圧巻だっただろうなぁと他人事のように思う。

そうしみじみと呟いたを見て、奈月は更に人の悪い笑みを深めた。

「・・・で?の好みは誰だったの?私としては、はちょっと危なっかしいから年上の人の方が良いと思うんだけど」

「・・・あのねぇ」

嬉々としてそう話を進める奈月を見返して、は呆れ混じりにため息を吐く。

そう返って来る事は解りきっていたが、残念ながらその期待には答えられそうにない。

「バカ言わないでよ。前にも言ったでしょ。私、霊能者って嫌いなの」

「・・・自分も霊能者のクセに」

「・・・ほっといて」

素っ気無くそう返したを見つめて、奈月は先ほどとは違い、困ったように微笑む。

とは高校に入ってからの付き合いだけれど、それなりに彼女の事情とやらも知っている。―――出会ってすぐに意気投合した2人は、その後起こった人生の転機とも言える出来事もしっかりと聞いていたから。

どこか不貞腐れたように今度は課題に目を通し始めたに、さてどうやって機嫌を治してもらおうかと奈月は密かに思案する。

しかし異変が起こったのは、その直後の事だった。

バタバタと激しい足音が廊下に鳴り響き、どこからか俗に言う黄色い声と呼ばれるものも聞こえてくる。

その異変に気付いたのだろうも伏せていた顔を上げ、奈月と顔を合わせて訝しげに眉を寄せた。

「・・・なんの騒ぎ?」

「さぁ・・・?」

2人が揃って首を傾げたその時、激しい足音が教室の前で止まったかと思うと、一拍後にまるで扉を叩き壊すかのように勢い良く開かれた。

ー!!一体これはどういう事なのよー!!」

教室中に響き渡るほどの大声で名指しされたは、訳が解らず表情を歪める。

それさえ気にせずに教室の中に足を踏み入れた少女は、興奮で赤く染まった顔を隠す事無くと奈月の前へと仁王立ちした。

「・・・どういう事っていうか、寧ろその質問がどういう事なの?」

「とぼけたって無駄だからね!今日こそはちゃ〜んと答えてもらうんだから!!」

興奮しすぎているのか、少女は声を押さえようともしない。―――自然に集まる好奇の視線に表情を引き攣らせつつも、なんとか動揺を押し隠して少女の言葉の続きを待った。

「あ〜んなかっこいい人、どこで捕まえてきたの!?前から思ってたんだよね。前も黒塗りの高級車に乗った着物姿のかっこいい人がお迎えに来てたでしょ!?遊んでる風でもないのに、ってホントどこであんな人と知り合う機会があるの?そこんとこ、じっくり聞かせてもらいたいんだけど!」

そう言ってポケットからメモ帳を取り出した少女は、爛々と瞳を輝かせてを見下ろす。

新聞部のホープでもある彼女は、そういった話題には目がない。

家業を手伝う為に学校を休みながらも学年トップの成績を維持するは、校内でも有名で興味深い対象でもあるため、こうして少女に詰め寄られる事も珍しい事ではない。

勿論その家業について知っているのは奈月だけなので、少女以下この学校の生徒はの仕事の内容など知りもしないけれど。

「あ〜・・・えっと・・・」

詰め寄る少女から背を仰け反らせながら距離を取って、はどう誤魔化そうかと素早く頭を働かせた。

黒塗りの高級車でお出迎えに来た着物を着た人物とは、彼女の上司でありパートナーである一清に他ならない。

普段はの迎えに来るのは藤野だけで彼が共に来る事はなく、それも学校から離れた場所で待機してもらっている為に生徒に目撃される事もないが、ごくたまに何を考えているのか、校門前に車を乗り付けて自分を待っている時があるのだ。

緊急の仕事が入ったわけでもない。

その不可解な行動を、はただの嫌がらせだと判断しているのだが・・・。

そこまで考えて、ははたと我に返る。

あ〜んなかっこいい人?

そう形容される人物に、心当たりはない。―――それが一清ではないのは、少女の言動から察する事が出来る。

しかしには、一清や藤野以外に自分を待つ人物にまったく心当たりがないのだ。

「ねぇ、あ〜んなかっこいい人って?」

「もう!惚けたって無駄だからね!それともそれが誰か解らないくらいかっこいい男の人の知り合いでもいるの?」

「あ・・・いや、そういうわけじゃ」

「ねぇ〜。その人脈を使って合コンしようよ!私もかっこいい彼氏欲しい!!」

握り拳を振り上げてそう叫ぶ少女を見上げて、は乾いた笑みを零す。―――既に話が摩り替わっているのは正直ありがたいが、この収拾をつけるのが自分なのだと思えば違う疲労感が滲み出てくる。

それはともかく、今問題なのはその『あ〜んなかっこいい人』だ。

「それってどんな人?のところに来たって事は、その人がを名指ししたとか?」

不思議そうに問い掛ける奈月に気付き、我に返った少女は改めてを見下ろして、それからにんまりと笑みを浮かべる。

「そうなのよ。ちょうど授業が終わる頃から校門のところでずっと待ってるからさ。騒いでた女の子たちの1人が『誰か待ってるんですか』って聞いたら、『この学校にって子がいるはずなんだけど知ってる?』って」

「ふ〜ん・・・。で、どんな人なの?」

「えっとねぇ。背がすごく高くて、こう・・・すらっとしてて。茶色に染めたちょっと長めの髪を後ろで1つにくくってるの。人当たりが良くて、笑うと意外に可愛いっていうか・・・。ともかくかっこいいお兄さんなのよ!」

力説する少女を呆れた眼差しで見詰めながら、説明を聞いた奈月がふと表情を訝しげなものへと変えて、チラリと横目でを窺った。

「その形容、どこかで聞いた気がするんだけど・・・」

「・・・は?」

奈月の言葉に間の抜けた声を上げながらも、もまたそれに思い当たる。

しかしありえないその予想にまさか〜と笑みを返した直後、そういえばと顔を上げた少女がおもむろに携帯を弄りだした。

「実は写真取ったんだよね。この人なんだけど・・・」

そう言って見せられた携帯の小さな画面に視線をやったは、目を見開いて呆気に取られた。

そこに映っているのは、まさにありえない人物だったからだ。

「・・・この人、校門前にいるの?」

「そうだよ。ず〜っと待ってるみたい」

少しだけ低くなったの声色にも気付かず、少女は明るい様子でそう告げる。

それに引き攣った笑みを無理矢理貼り付けたは、ゆっくりと立ち上がり、こちらを楽しそうに見詰めている奈月へと目をやった。

「頑張ってね〜」

からかうような奈月の言葉に返事を返すこともなく、は勢い良く教室を飛び出した。

 

 

何故かきゃあきゃあと高い声を上げて自分を見詰める少女たちの視線を感じて、滝川は居心地の悪さを感じながらも、何も言わずにガードレールに軽く腰を落としたまま、次々と生徒たちを吐き出している校門へと視線を注ぐ。

どことなく居た堪れない空気に小さくため息を吐き出しつつ、俺は一体何やってるんだという疑問を声に出す事無く飲み込む。―――その問いは、既にここに来る前に何度も何度も吐き出していたからだ。

それでも結局ここに来てしまっているのだから、今更何を言っても仕方がない。

『なぁんて顔してんのよ』

不意に脳裏に甦った声に思わず苦笑する。

それは忘れもしない、昨日の事。

一週間近く掛かった仕事の間に顔を合わせた、1人の女性のからかいの言葉。

「それじゃね。また縁があったら、その時はよろしく」

「あ、おい!・・・!!」

明るい笑顔と共にそう言った少女は、咄嗟にかけた滝川の呼び止める声に振り返る事はなかった。

サラリと流れる黒髪を風に靡かせて走り去っていく少女の背中を、滝川は成す術もなく見送る。―――伸ばしかけた手は行き場なく、力を失ったようにその場に落ちた。

その一連の動作を見ていた綾子が、クスクスと笑みを零しながら呟いたのだ。

「なぁんて顔してんのよ」

明らかなからかいの混じった声に振り返れば、そこには心底楽しげに笑む綾子と、困ったようにおろおろと2人の顔を見詰めるジョンの姿。

「・・・なぁんて顔ってどんな顔ですかね」

取り繕うように顔を顰めた滝川が更に笑いを誘ったのか、綾子はその綺麗な顔に妖艶な笑みを浮かべ、殊更ゆっくりと滝川に近づくと、そっと手を頬へと伸ばした。

「まるで恋人に逃げられた情けない男みたいな顔に見えるけど・・・」

「バカな事言ってんじゃないよ。誰と誰が恋人だって?」

「ごめんなさい。少なくとも恋人じゃないわよね。あんたとは」

睨みを利かせる滝川にも怯む様子なく、綾子は更に笑みを深くする。―――それを認めてどうやら分が悪いと判断したのか、滝川は深くため息を吐き出した。

「期待してるとこ悪いけど、そんな色めいた話じゃねぇよ」

「でも気になってるんでしょ、あの子の事」

サラリと言い返され、思わず口を噤む。

確かに気になっているという事には間違いはない。

滝川は確かに、が気になっていた。

それは綾子の邪推するような事柄ではなく、もっと違うものであるのだけれど。

の歳相応の明るさの裏に垣間見える、いやに大人びた顔が気になった。

まるですべてを諦めたようなそんな表情と、けれどそれに抗うような彼女の言動と。

地位も名誉も、一部の世界の中ではあるがその高みを手に入れただろう少女の、それでも見える決して満たされない何かが気になった。

1人で立ってしっかりと歩いているのに、今にも転びそうな危うさにも似た雰囲気の、その理由を知りたかった。

それは出会って間もない自分が踏み込んで良い領域ではないと解っていたけれど、それでもこのまま何も見なかった事にして忘れてしまうには、その存在感は強すぎて。

呼び止めてどうしようと思ったのかは解らない。―――けれどこのまま別れる事だけはしたくなかった。

その感情の意味など、今の滝川には理解出来なかったが。

自分の一言ですっかり思考に取り付かれてしまった滝川を見やり、綾子は呆れたとばかりに肩を竦める。

「ったく、青臭いガキじゃあるまいし・・・。そんなに気になるなら、連絡でも取れば?」

最初はただからかっていただけの綾子も、滝川の神妙な顔つきにほだされたのか・・・たきつけるように促す。

傍若無人なように見えて、彼女は意外に面倒見が良い。―――そこがどんな発言をしても彼女が心底嫌われない理由なのかもしれない。

しかし滝川は綾子のその発言になんの反応も示さなかった。

それを訝しげに見詰めて・・・―――そうしてそれが意味するところを正確に察した綾子は、隠す事もなく大袈裟にため息をついてみせて。

「まさか携帯の番号も聞いてないんじゃないでしょうね」

回りくどい言い方などせずずばりとそう言い放った綾子は、滝川の肩がピクリと動くのを確かに見た。

それに今度こそ呆れしかないため息を吐き出して、そうして綾子はくつくつと喉の奥で笑みをかみ殺す。

もう20代も半ばになろうかという男が、女子高生の携帯の番号の1つすら聞き出せないとは。

傍から見ても意気投合して仲が良さそうに見えたのだから、余計に可笑しくて仕方がない。

外見はそういう事に慣れていそうに見えるというのに・・・―――もしかしたら意外と純情なのかもしれないと、浮かんだ考えに思わず吹き出した。

恨めしげにこちらを睨む滝川をサラリと無視して、綾子はなんとか笑みを殺す為に大きく息を吐く。

「そうなると、と連絡を取るには家本家に電話するしか方法はないのね。ま、家は有名だから、連絡先くらい調べればすぐに解ると思うけど・・・」

「あの・・・さんのお家がどのくらい有名なんかは解りまへんけど、さんも結構名の通ったお人なんですやろ?そう簡単に取り次いでもらえますやろか?」

ジョンのもっともな言葉に、綾子はグッと息を詰まらせる。

綾子自身、家と連絡を取った事は一度もないが、ああ見えても相手はその世界では有名な家の、それもナンバー2の地位にある月華なのである。―――たとえがそこらへんの女子高生と変わらなく見えて、想像していたよりも人当たりの良い、親しみやすい人物だったとしても、だ。

考えれば考えるだけ難しいような気がして来た綾子は、乾いた笑みを浮かべて小さく首を振った。

「そっちがダメなら、こうなったら学校の前で出待ちするしかないんじゃないの?幸いな事にあの子の通ってる学校は解ってるんだし」

その言葉に、そういえば確かに聞いたの通う学校名を思い出す。

都内では有名な進学校。

そんな学校の前で出待ちなどしていたら、生活指導か何かの先生に怪しい人物と誤解されて警察に通報されかねない。―――できれば・・・いや、絶対にそんな事態は避けたかった。

「ま、あんたがどうするかなんて所詮あたしには関係のない話よね」

「・・・おいおい」

じっと考え込む滝川から視線を逸らして、綾子は何事もなかったかのように踵を返す。

そうして手をヒラヒラと振って、ちらりと意地の悪い笑みを向けた。

「ま、頑張って」

まったく誠意のない応援の言葉に滝川が顔を引き攣らせたのも気にせず、仕事は終わったとばかりに綾子は颯爽とその場を去って行った。

それに続いてジョンもまた礼儀正しくおじぎをしてから、逃げるようにその場を後にする。

1人残された滝川は、無責任にも放り出された提案を前に、痛み出したこめかみを押さえて大きくため息を吐き出したのだ。

そうして数々の葛藤の末に今、滝川はここにいる。

綾子の思惑に嵌められた感じがしないでもないが、今ここに立っているのは他でもない滝川本人の意思。―――それを今更人のせいにするわけにもいかない。

そもそもこの場に綾子はいないのだから、憤りをぶつける事もできないのだけれど。

滝川はもう一度ため息を吐き出して、俯いていた顔を上げる。

ふと目が合った少女にへらりと愛想笑いを向けると、とたんに歓声が上がった。

女子高生は勿論嫌いではないが、正直このノリにはついていけないとも思う。―――俺も歳取ったかなぁと心の中で独りごちたその時、更に上がった歓声に訝しげに視線を向けると、そこには待ち人である少女の姿があった。

見るからに顔を引き攣らせて、これ以上ないほど鋭い眼差しでこちらを睨みつけている。

「よーお、遅かったなぁ」

そんなを相手に、先ほどまでの葛藤など微塵も感じさせない様子で、滝川は呑気に手を上げてにっこりと微笑んだ。

それを認めた滝川は、の頬が更に引き攣るのを見て、どうしようもない笑みが込み上げてくるのを必死に堪えた。―――ここで笑っては、彼女の機嫌を損ねるだけだ。

けれどあの呆気に取られた表情は、まるで悪戯が成功した時のように楽しいものだった。

「なっ!何でこんなとこにいるの、ぼーさんっ!!」

怒り・・・とは違うだろうか?―――驚きと、注目を浴びる恥ずかしさと、突然の出来事への混乱が複雑に交じり合ったハイテンションの状態で、は声を荒げる。

それこそが更なる好奇の視線を集めている事に、果たして彼女はいつ気付くのか。

先ほどまでいっぱいいっぱいだった滝川は、しかし目の前に立つ少女のいっぱいいっぱいさを見て少し余裕が出来たのか、にやりと口角を上げてゆっくりとに歩み寄る。

そうして自分よりも遥かに背の低いを見下ろして、用意してきた言葉を向けた。

「約束を守ってもらおうと思って」

「は?・・・約束?」

案の定、訳が解らないとばかりに目を丸くするを見下ろして、滝川は小さく笑う。

きっと覚えてはいないだろう。

滝川とて、あの時はノリでそう言ったに過ぎない。―――まさか今こんな場面で、同じ台詞を口にするとは思ってもいなかったけれど。

「お返しはデート一回で良い、って言っただろ?」

「・・・はぁ!?」

予想通り、間の抜けた声を上げるに、それがなんであるかを殊更丁寧に説明してやった。

が旧校舎で初めて仕事をした時、旧校舎内を歩き回るについて滝川が歩いたあの時の事を。

はっきり言って滝川はあの時何もしていない。―――ただ訳も解らず、1人で行動するの後に付いて歩いていただけだ。

しかしその行動をはありがたかったと言い、お礼はデートで良いと言った言葉にもはっきりとした否定の言葉は返さなかった。

正真正銘、ただの揚げ足取りに過ぎないのだけれど、今滝川の行動を誤魔化すには十分な理由でもある。

「あれ、本気だったの?」

「もちろん」

呆れた眼差しを向けるににっこりと笑顔を向ければ、諦めたのかがっくりと肩を落としてため息を吐き出す。

約束は守られるべきだ。

たとえその約束が、約束として成り立つかどうかも怪しいものだとしても。

そんな約束ともいえないような約束の為にここまで出向いた滝川を、このまま追い返すのは無理だと察したらしい。

飄々とした笑顔を浮かべる滝川を恨めしげに見上げて、荷物取って来ると言葉少なに返したは緩慢な動作で踵を返した。

「逃げるなよ〜」

「逃げないよ!・・・ちくしょう」

小さく悪態を吐いて、は好奇の視線に晒されながら教室へと向かう。

今度は呼んでも振り返るだろうの背中を満足げに見送って、滝川は女子男子学生の憧れと嫉妬と羨望の入り混じった視線を一心に浴びながらにっこりと笑んだ。

荷物を持ったが自分の前へと現れたら。

とりあえずは真っ先に携帯の番号を聞きだそう。

そう密かに決意を固めて、滝川は再びガードレールに浅く腰を下ろすと、立派な造りの門を見詰めて眩しそうに目を細めた。

 

 

◆どうでもいい戯言◆

なんでこんなに長くなってんだっ・・・!!

というわけで(どういうわけだ)、第一シリーズ『月の華』はこれで終了です。

ぼーさんがなんだかへたれになってしまって申し訳ありません。

でもきっとこれからもこんな感じになってしまうと思います(反省の色なし)。

それでもなんとかかっこいいぼーさんを目指しつつ、とりあえず次はあの人だ!!と心躍らせてみたり。

作成日 2006.10.30

更新日 2007.10.9

 

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