厚い雲が月を覆い隠し、地上を闇へと塗り替える。

巨大な船は音もなく、滑るように空を泳いでいく。

「各々方、万事抜かりのないようお願い致します」

抑揚のない声が、その場に在る者たちへそう声を掛けた。

「心配しなくても大丈夫っスよ、センパイ」

「当面表立って動くのは拙者だけでござるからな」

それに答える女と男の声。―――飄々とした静かな声で、自信に満ちた・・・その声で。

不意に煙管を手に悠然と立っていた男が視線を上げる。

空に浮かぶのは淡い光を放つ月。

光に魅せられたのは、果たして誰か。

「ああ、ひとつ言い忘れてたが・・・、コイツには手ぇ出すんじゃねーぞ。見付け次第、俺のところへ連れて来い」

くつくつと笑みの混じったその言葉に、刀を腰に差した男が顔を上げた。

・・・・・・?」

「ああ、アンタは会った事なかったんだっけ。笑顔と愛想振りまく割にはえげつない女っスよ」

何かを思い出したのか・・・嫌そうに表情を歪める女を横目に、男は静かに口を開く。

・・・ですか。何故それほどまでに彼女を引き込もうと・・・?」

場を仕切る役目を与えられているのか、男が抑揚のない声色で問いかける。

その口ぶりには、興味があるのかないのか判断が付き難い。―――それでも知っておかなければならない事だとは思っているらしい。

男の問い掛けに、煙管を手に持つ男は軽く眉を上げて。

「あぁ?あいつは俺の・・・」

風が吹く。―――口を開いた男の言葉を遮るように、強い、強い風が。

厚い雲は流され、柔らかな月の光が優しく大地を照らし出す。

淡い光に、男の笑みが浮かび上がった。

 

 

後悔って後からしか出来ないものだけど、

実際味わってからじゃ遅すぎるよね

 

 

柔らかい月の光を灯りにして、桂とは暗い夜道を歩く。

もう遅い時刻故に、他の人々の姿はない。―――そうではなくとも、辻斬りが出るというこんな時分に、わざわざ出歩く人もいないだろうけれど。

それでも2人がこんな時間に出歩いているのは、たまたま帰りが遅くなってしまったからだという事と・・・―――万が一辻斬りに襲われたとしても、十分撃退できるだけの実力があると解っているからである。

「そういえば・・・こんな風に小太郎ちゃんと2人だけで出掛けるのって、随分久しぶりだよね」

「ああ、そういえばそうだな。最近ではいつもエリザベスが一緒だからな」

会話をする2人の傍に、誰が見ても怪しいと評されるだろう白い物体はいない。

たまには2人きりで・・・とエリザベスが気を遣ったなどという事は、勿論意外に鈍いこの2人が気付く筈もなかったけれど。

「・・・あっ!」

何の前触れもなく吹いた強い突風に、が小さく声を上げる。

の髪を纏めていた優しいピンク色のリボンが、まるで意思を持ったかのように空を舞う。―――長い長いの髪が、同じく風に弄ばれて宙に踊る。

それはやがて勢いを弱めた風から外れ、ふわりと音が聞こえてきそうなほど軽く木の枝に引っかかりその動きを止めた。

「あ〜あ、木に引っかかっちゃった」

ぐしゃぐしゃになってしまった髪の毛を軽く整えながら、は少し高い木の幹に引っかかってゆらゆらと揺れているリボンを見上げ小さくため息を吐く。

はついてないなぁと独りごちて、同じく舞い上がるリボンの行方を視線で追っていた桂へと振り返り、少し不機嫌そうな表情で口を開いた。

「小太郎ちゃん、ちょっと待っててね。すぐ取って来るから!―――どっちかっていうと明らかに私の趣味って言うよりは辰馬ちゃんの趣味だろっていうか、どうせプレゼントするならもっと生産的なもんにしろよってくらい私にとっては馴染みのないものだけど、でもせっかくのプレゼントだから」

辛口のコメントを織り交ぜそう言うに、桂は小さく笑みを零す。

なんだかんだと言っているが、があのリボンを気に入っていた事を桂は知っている。

そうでなければ、が身に付ける筈がない。―――そうして労力を使ってそれを取り戻そうともしないだろう。

ちゃらんぽらんに見えても坂本の見立ては正確だったし、もまたそれを知っている。

あの優しいピンク色のリボンは、まるであつらえたようにに似合っていたのだから。

「俺が取ってやろうか?」

「あれくらいの木なら大丈夫だよ。小太郎ちゃんよりも私の方が身軽なんだから」

だから・・・というわけではないが、そんな桂の提案に、しかしは軽く笑って軽快な足取りで木へと駆けていく。

そんなの背中を見送って・・・―――桂が背後から声を掛けられたのは、その直後の事だった。

一方、は危なげなく木へと登り、そうして難なく己のリボンを取り戻して、微かに誇らしげな笑顔を浮かべて振り返る。

「よっ・・・と!―――取れたよ、小太郎ちゃ・・・」

風が、吹いた。

男の影が見える。―――そうしてその向こうに立つ影が、静かに崩れ落ちていくのも。

「・・・小太郎、ちゃん?」

先ほどまでの優しい空気は、今はそこにはない。

どうして気付かなかったのだろう。

こんなにも禍々しく、鋭い・・・まるで刃のような殺気に。

「小太郎ちゃんっ!!」

桂の名前を呼んで、登っていた木から飛び降りる。

取り戻した筈のリボンが、再び風に乗って宙を舞う。

「小太郎ちゃ・・・っ!!」

しかし咄嗟に駆け寄ろうとしたの前に、1人の男が立ち塞がった。

淡い月明かりの中でも確かに解る。―――それは以前に一度だけ、見た事がある顔。

「ぐっ!・・・、逃げろ・・・!!」

男の向こう側で、桂が苦しげに声を上げる。

しかしその言葉に従う事など出来るはずもない。―――また、目の前の男が自分を見逃してくれるとも思えなかった。

「おやおや、この匂い・・・。また会いましたねぇ。どこかで聞いた事がある響きだとは思っていましたが、まさか貴女がだったとは・・・」

歌うようにそう告げる男は、以前銀時と刃を交え倒れた男。

盲目の剣士、岡田似蔵と言っただろうか。

薄く笑みを浮かべる男をまっすぐと見据え、は先ほどの激昂が嘘のように静かな声で口を開いた。

「あなた・・・どういうつもり?ここのところ世間を騒がせてた辻斬りって、あなたの事なんでしょ?」

この状況から見て、おそらくは間違いないだろう。

もともとは人斬りと呼ばれていた男だ。―――辻斬りをやらかしたとて不思議はない。

しかし解らない事がひとつ。

「何で小太郎ちゃんを・・・」

怪我をし、動く事もままならないまま膝を付く桂をチラリと見やり、は眉間に皴を寄せる。

たまたま見つけた桂を切った。―――本当にただの辻斬りであったのなら、それは不自然な事ではないかもしれない。

街の人々は辻斬りを恐れて夜道を歩いたりはしていないのだから、桂が標的になったとしても不思議な事ではない。

しかし・・・何か違和感がある。

岡田の瞳の奥に、何か言い知れぬ闇があるようにには見えた。

そして・・・。

「俺も相棒も強者の血を望んでいてね」

「それで小太郎ちゃんと私を選んだってわけ?その選択眼はまぁ、確かなものでしょうけど・・・―――だけど解らないわ。どうして私たちを見るあなたの目に、それほどにまで憎しみが込められているのか・・・」

うっすらとだけ開かれた岡田の視線の先。

その先にいる自分と、そうしてチラリと向けられる桂への視線に、は暗く深い憎しみが宿っているように見えた。

しかし岡田はの問い掛けに答える様子もなく、再びへと視線を戻すとニヤリと口角を上げる。

「ふふふふ。かつては死神という名の異名をとった貴女の力、ぜひ見せてもらいたいねぇ」

どうやら彼女の疑問に答えるつもりはないらしい。

改めて紅桜を構える岡田を見据え、はいつもとは違う暗い笑みを表情に浮かべて、懐から小刀と拳銃を取り出し手で弄んだ。

「バカはいつまで経ってもおバカなのね。アンタ程度の男がどうやって小太郎ちゃんに傷を負わせたのかは知らないけど・・・」

「やめろっ!そいつは・・・っ!!」

桂が制止の声を上げるが、もう既に遅かった。

かつての異名に違わない鋭く暗い光をその瞳に浮かべて、は薄く微笑む。

「その愚行の代償はきっちり支払ってもらうわよ」

静かな静かな声が、その場に響いた。

次の瞬間、愉悦の笑みを浮かべた岡田が駆ける。―――それに合わせて、もまたその一歩を踏み出した。

甲高い音を立ててかみ合う刀と刀。

強い力に押されてたたらを踏んだは、その時漸く悟る。

何故、いとも簡単に桂が倒れたのか・・・その、理由を。

「・・・なっ!?」

目の前に迫る岡田を睨み付けていたの瞳が驚きに見開いた。―――自分の小刀で受け止めたそれは、確かに刀だったはずなのに。

「・・・くっ!!」

変則的な攻撃を何とか避けようと小刀をなぎ払い、よろめきながらも数歩距離を取る。

しかしあちらこちらから襲い掛かる触手のようなものの総てを避け切る事が出来ず、頬や腕に浅い傷が付けられた。

明らかな劣勢を強いられているを認め、岡田は至極楽しそうに笑う。

「ああ、忘れてた。あんたは無傷で連れて行かなきゃいけないのにねぇ」

「・・・連れて行く?」

明らかに刀というよりも兵器に近い武器を相手に、手持ちの武器でどう戦うかに考えを巡らせていたは、さらりと告げられた岡田の言葉に眉を寄せる。

連れて『行かなきゃ』いけない。

その言葉が示すものは、彼に命令を下す誰かがいるのだという事。

彼の物言いとその言葉に、それがどれほど強い発言力を持つのかが窺える。―――おそらくその命令者は、岡田にとって重要な位置にあるのだろう。

「一体誰の差し金?小太郎ちゃんを斬って、私を捕縛する。そんな事をあなたに命じるのは一体・・・―――まさか・・・!」

探るように岡田に向かい言葉を放ったは、しかし自らの発言に該当する人物に思い至り、驚きに目を見開いた。

人斬りと呼ばれた岡田を従えさせる事が出来、そしてを手に入れる事を望み、そしてまた紅桜に興味を示しそうな人物が、たった1人。

『話し合いはこれが最後だ。次からは実力行使で行くぜ』

脳裏にかつて聞いた言葉が甦る。

一度は桂との決別を決意させた、彼の言葉が・・・。

「仕方がないから選ばせてやろうか。このまま素直に付いてくるか、それとも無駄な抵抗でもしてみるか・・・さぁ、どうする?俺はどちらでも構わないぜ」

至極楽しげに笑う岡田を見据えて、は表情を変えず・・・しかし懸命に考えを巡らせる。

勿論素直に付いていくつもりなど毛頭ない。―――抵抗がまったくの無駄になるとも限らないのだし、たとえ相手が得体の知れない武器を手にしていたとしても、むざむざと捕まるつもりもなかった。

しかし今1人ではない。

1人ならば何とでもなる。―――逃げるにしろ戦うにしろ、考えるのは自分の身だけで良いのだから。

けれどこの場には、ついさっき岡田に斬られた桂がいるのだ。

彼の怪我がどの程度のものかは遠目では解らないが、それが決して軽い怪我などではない事くらいは解る。―――何の情報もなく紅桜を相手にしたのだ、無傷で済むはずがない。

「・・・・・・」

今自分が岡田を相手に戦うとして、果たして桂はどれくらい耐える事が出来るだろうか。

お尋ね者故に病院に駆け込む事も出来ない。

それどころか、巡回している真撰組にでも見つかってしまえばそこで終わりだ。―――運良くアジトに戻れたとしても、以外に治療を施せる人間はいない。

岡田を相手にしながら桂の治療が出来ない以上、彼の傷の具合によっては戦いを長引かせるわけにはいかないのだ。

しかし今自分にあるものは、小刀と銃のみ。

せめて刀があれば・・・と悔やまれるが、まさか日常でこんな規格外な男を相手にするとは夢にも思うまい。―――現状は仕方のない事だ。

おそらくはの答えを待っているのだろう沈黙を守る岡田を一瞥し、そうしてその向こう側にいる桂へと視線を移して、は軽く唇を噛み締める。

先ほど制止の声を放った桂は、今は何も言わない。

ただ地面に倒れ伏して、身動きひとつしなかった。

ああ、もう、なんだってこんな事態になってるのよ・・・と、苛立ちながら心の中で独りごちたの目に、ひとつの真実が映る。

目の前で嫌な笑みを浮かべる岡田と、その向こうで倒れている桂。

今、一番、優先されるべき事は?

迷う事無く出た結論に、は緩く口端を上げて握り締めた銃を上げた。

「・・・ふふふ。もう、やだな。私ってばこんな雑魚になめられちゃってるの?―――っていうかアンタみたいな危ない奴素直に付いて行くわけねーだろ、ちょっとはそのない頭使って考えろよ、ヴォケがっ!大体この私に命令しようなんて百年早いんだよ!!

今一番優先されるべきは、岡田をこの場から引き離す事だ。

信じるしかない。

・・・何を?

「くっくっく。残念だねぇ・・・」

「そうね、残念ね」

まったく残念そうではない面持ちでそう返した岡田ににっこりと微笑みかけ、は改めて目の前の敵と向き直る。

信じるべきは、自分。

自分の見たもの、自分の出した結論。―――そのすべてを信じ、今は行動あるのみ。

目的は、ただひとつ。

「この私にケンカ売った事・・・後悔させてあげるわ!!」

そう声を上げて、は一歩を踏みしめた。

 

 

鋭い、風を切る音。

刃と刃の噛み合う金属音と、そして時折響く銃声。

何度目かの紅桜の攻撃を受けて、その力の強さに耐え切れずに吹っ飛ばされたは、緩慢な仕草でゆっくりと身を起こした。

「これがあの死神と恐れられた者の姿かい?―――なんとも呆気ないもんだねぇ」

月明かりを背に口角を上げて笑む岡田を睨み付けて、は口の端に滲んだ血を乱暴に拭ってから改めて小刀を構える。

岡田の腕は悪くはない。

それは以前、銀時と戦っていた彼を見てそう思った。

しかし・・・。

「・・・もう、やんなっちゃうなぁ」

目の前で楽しげに笑う岡田を見やり、そう独りごちる。

確かに、岡田の腕は悪くはない。

けれどそれは銀時や桂とは比べるべくもなく、また同じように戦場を駆けたにとっても、通常であれば決して引けを取るつもりもない。

ただし、それは岡田の武器が規格外の兵器ではない・・・という事を前提としてだが。

「・・・ったく、刀って言うより寧ろそれって寄生されてるんじゃないのっていうか明らかにそれテメーの力じゃねーだろって状況で得意げに笑ってんじゃねーよ、このヴォケが。玩具持った子供か、テメーは」

たとえば今の自分が刀を持っていたら・・・―――そんな埒のない考えを抱き、自嘲してそんな考えを振り払うように緩く首を横に振る。

たとえばを考えても無駄な事だ。―――どうしたって、今の自分に刀はない。

ただ思うのだ。

もしも刀を持っていたら、こんなにも一方的にやられはしなかったのに・・・と。

「・・・そろそろ限界のようだねぇ」

改めて刀を構えた岡田の言葉に、は深く眉間に皺を寄せる。

僅かに唇を噛み、手にした小刀を強く握り締める。―――もっとも、何度も強力な太刀を浴びたおかげで、ほとんど力が入らなかったが。

「殺してしまっては意味がないからねぇ。残念だが・・・」

そこで言葉を切って、刀を構えた岡田が地を蹴る。

それを目に映しながら、は小刀を構えた。―――それでどれほど己の身を守れるかは、疑問の残るところであったが・・・。

「・・・・・・っ!!」

激しい衝撃と共に吹き飛ばされる身体。

その合間に見えたのは、岡田の楽しそうな笑みと・・・―――そして地に伏したままピクリとも動かない桂の姿。

どうか、どうかお願いだから・・・。

心からの願いを込めて、強く強く目を瞑る。

の意識は、そこで途絶えた。

 

 

それはまるで、泥沼の中に沈んでいるようだった。

酷く重い瞼をうっすらと開き、鉛のように重く感じられる身体を動かす。

最初に目に映ったのは、見知らぬ天井。

部屋の中は薄暗闇に包まれている。―――それを視線だけで確認したは、動かすのも嫌になるほどの倦怠感を感じながらも、ゆっくりと身を起こした。

「・・・つっ」

瞬間、身体中に走るズキリとした痛みをやり過ごす。

頬に手を伸ばせば、小さな切り傷がたくさんあった。―――それは頬だけではなく、身体中のいたるところにつけられている。

それを見下ろしながら、この傷を桂が見たならばきっと大騒ぎするのだろうと他人事のように思った。

「・・・やっと起きたか」

不意に室内に響き渡った声に、はゆっくりと視界を巡らせる。

そこに『彼』がいた事など、目覚めた時から気付いていた。―――長年慣れ親しんだ気配なのだ、いくら気配を殺していたとしてもが気付かないはずがない。

「気分はどうだ・・・?」

薄暗闇の中から掛けられる楽しげな声に、は盛大に表情を顰めて。

「・・・最っ悪」

そう悪態をつけば、それすら面白いと言わんばかりに小さな笑い声が返ってくる。

それを彼とは正反対に面白くなさそうな面持ちでため息を吐き出して、は改めて薄暗闇の中に溶けるように存在する彼に視線を向けた。

久しぶりに見る姿。

けれど想像していた人物の姿でもある。

「・・・やっぱり、晋助ちゃんの仕業だったのね」

サラリと肩に流れてくる髪を鬱陶しげに払いのけて、ため息混じりにそう呟く。

そういえば髪を留めていたリボンは、あのドサクサに紛れてどこかへ行ってしまった。

先日会った坂本からもらったばかりのものだというのに・・・―――あのリボンを殊更気に入っていた桂の顔を思い浮かべ、はもう一度重いため息を吐き出す。

そんなを認めて、惹かれるように薄暗闇から姿を現した高杉は、座り込んだままの彼女の前に立ち悠然と微笑んだ。

「誤解すんなよ。別に俺はアイツにヅラを襲えと言ったつもりはねぇ。―――まぁ、お前を見つけたら連れて来いとは言ったがな」

クツクツとそう笑い手を伸ばす高杉をそのままに、は薄く目を細めた。

「じゃあ、晋助ちゃんには小太郎ちゃんを襲う気はなかったって事?」

「さぁな。・・・だがいずれはこうなっていたはずだ。お前が素直に俺の元へ来ない以上・・・。―――俺は言ったはずだぜ?『次は実力行使で行く』ってな」

サラリと頬を撫でられ、くすぐったさに眉を寄せる。

そうしての頬についた浅い切り傷に指を這わせた高杉は、僅かに不機嫌そうに口角を上げた。

「無傷で連れて来い、と言ったはずなんだがな」

「そう思うんなら、あんな危険人物放置しておかないでよ。おかげでこっちはいい迷惑よ」

「アイツにはよく言い含めておくさ。―――ま、もっともお前を連れてきたのは奴だからな、そこは評価してやってもいい」

そう呟いて高杉は流れるような仕草でから手を離す。

そのどこか芝居じみた動作をぼんやりと眺めていたは、今もまだ悠然と自分を見下ろす高杉を睨みつけるように見上げて。

「・・・それで?私を一体どうするつもり?」

「とりあえずはここでゆっくりしてろや。色々と手伝ってもらいたい事はあるが・・・ま、ゆっくりやっていけばいい。―――どうせもうお前は俺のものだからな」

「私はものじゃないわ」

告げられた言葉をキッパリと跳ね返すけれど、高杉は楽しげな笑みを向けたまま。

この状況で何を言っても無駄だとは解っていたが、相手のあまりの余裕ぶりに苛立ちが込み上げる。

このヤロウ、この落とし前どうつけてやろうか・・・―――とが1人画策していたその時、室内に僅かなノック音が響き渡る。

それに2人揃って視線を向ければ、入り口に1人の女が立っていた。

廊下から差し込む光が逆光になって顔までは見えなかったけれど・・・―――シルエットから、おそらくはそれが鬼兵隊の幹部である来島また子であるのだと察しをつける。

は鬼兵隊の内部事情についてそれほど詳しくはないが、高杉の傍にいる女は彼女以外に見た事がなかった。

「あの、晋助様。先輩がお話があると・・・」

「ああ、解った。すぐ行く」

遠慮がちに声を掛けるまた子に軽くそう返事を返して、高杉はチラリと横目でを見やると、ニヤリと口角を上げた。

「じゃあな。俺が来るまでゆっくり寛いでおけ」

そう言葉を残して、高杉は入り口で待つまた子へと歩み寄る。

そうして何かを思い出したのか・・・入り口付近でふと足を止めた高杉は、首だけでへと振り返って。

「そうそう、言い忘れていたが・・・」

「・・・・・・?」

「ヅラの奴、死んだそうだぜ?その証拠に、岡田が奴の髪の毛を切って持って帰ってきたからな」

言い放たれた言葉に、しかしは表情を動かさずにじっと高杉を見つめ返す。

その反応に満足したのかそうではないのか・・・―――もう一度ニヤリと小さく笑みを浮かべた高杉は、それ以上言葉を続ける事もなく静かに部屋を出て行った。

漸く訪れた静寂の中、は深く深く息を吐き出して。

「・・・ったく。こんな何もない部屋でどう寛げって言うのよ」

不機嫌そうに悪態をついて、脱力したようにベットに身を投げ出した。

そうして薄いシーツを無造作に頭から被り、自分だけの気配しか感じられないその場所で、誰にも聞こえないよう小さく呟く。

「・・・小太郎ちゃん」

くぐもったその声は、やけに弱々しく己の耳へと届いて。

襲う不安を振り払うように、目を閉じたは強く強く拳を握り締めた。

 

 

「・・・あの、いいんですか?」

特に急ぐでもなく廊下を歩く高杉は、すぐ後ろに付き従っているまた子の問い掛けに僅かに眉を上げた。

無言の問い掛けに気付いたまた子は、チラリと背後を振り返って・・・―――その視線の先には、のいる部屋がある。

「見張りもつけずに、武器も取り上げないなんて・・・。確かにアイツは怪我してるみたいですけど、これじゃいつでも逃げろって言ってるみたいじゃないっスか」

もっともなまた子の言葉に、しかし高杉は気にも留めた様子もなくニヤリと笑みを浮かべた。

「必要ねぇな」

「・・・でも」

「必要ねぇ。―――そんな事しなくとも、アイツは逃げたりしねぇよ」

キッパリと告げられた言葉に、思わず目を丸くする。

自分からここへ来たわけではなく、むしろは無理やりここへ連れて来られたのだ。

そして彼女に鬼兵隊に加わる意思があったわけでもない。

なのにどうして逃げ出さないと自信を持って言えるのか・・・―――そう問い掛けたい衝動に駆られたけれど、また子はノド元まで出掛かったその言葉を飲み込む。

高杉がそういうのなら、それ以上口を挟むわけにはいかない。

それに・・・また子にしてみれば、が逃げ出そうがどうしようがどうでもいいのだ。―――むしろ高杉の心を占めるには、逃げ出してもらった方が都合がいい。

「それで、武市はなんだって・・・?」

「あ、はい。実は・・・」

思考を遮るように掛けられた問いに、また子は思考を切り替えながら口を開く。

今は、それよりも重要な事があるのだ。

「紅桜についてらしいっスが・・・」

「・・・そうか」

また子の言葉に、高杉の瞳に怪しい光が揺らぐ。

 

これはまだ、大いなる騒乱の序章に過ぎなかった。

 

 

◆どうでもいい戯言◆

というわけで、紅桜編スタートです。

前回までとはうって変わって、かなりのシリアスモード。

でもこういう方が書きやすいですよね。やっぱりギャグは難しいです。

そして念願の高杉再登場!

ここらでそろそろ一区切りつけたいところですが・・・。

作成日 2008.3.10

更新日 2009.1.16

 

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