がベルフォルマ家で下働きとして働き始めてから、3ヶ月の時が過ぎていた。

当初ハルトマンに勧誘された坊ちゃんとは、まだ一度も会った事はない。

下働きの自分がこの家の息子にそう簡単に会えるわけはなかったし、またにとっても殊更それを望んでいたわけではない。

ハルトマンのおかげで、こうして衣・食・住は保障されている。―――にはそれだけで良かった。

それだけで良かったというのに・・・。

今日も今日とて指導係のメイドから仰せつかった裏庭の掃除に精を出していたは、裏庭の隅で蹲ったまま動かない少年を見つけたのだ。

緑の髪の自分よりも幼い少年。

直接接した事はなくとも、それが誰だかは知っていた。

ベルフォルマ家の下の息子。―――スパーダ=ベルフォルマ。

彼がハルトマンの言っていた坊ちゃんだ。

「・・・うーん」

箒を抱えたままじっとスパーダを見つめ、は眉間に皺を寄せたまま小さく唸り声を上げる。

このまま何も見なかった事にするのは簡単だ。―――黙ってここから去ればいい。

けれどそれでは与えられた仕事をこなせない。

与えられた仕事をこなせなければ、メイドたちの説教は免れないだろう。

そうしてただの下働きである自分の立場も悪くなる。

最悪、ここから追い出されるかもしれない。―――そうなれば、今の自分には生きていく術などないのだ。

素性も知れない幼い少女など、雇ってくれるところなどそうはない。

だからといって、自分の立場上彼に声を掛けるのも躊躇われた。

何度も言うが、自分はただの下働き。

そもそも、この家の子息であるスパーダに声を掛けられるような身分ではないのだ。

「・・・よし」

箒を抱えたまま考え込んでいたは、意を決したように1つ頷く。

彼とていつまでもこんな場所にいないだろう。

今は別のところを掃除して、後で戻ってきてここを掃除すればいい。

己の頭に浮かんだ名案に満足げに頷きながら、はクルリと踵を返した。

そう、見なかった事にすればいいのだ。

ここにスパーダがいた事も。

そして・・・―――彼の瞳に僅かに浮かんだ雫にも。

見なかった事にするのが一番良い。

それがこの家で平穏に暮らしていくもっとも有効な手段なのだ。

そう・・・思うのだけれど・・・。

数歩足を踏み出したは、しかしその場で立ち止まり、眉間に皺を寄せながら小さく唸る。

そうして耐えかねたようにまたもや踵を返したは、今度こそ迷いのない足取りで裏庭の端で蹲るスパーダの元へと歩き出した。

「こんにちは、スパーダさま」

右手には箒を持ったまま、蹲る少年を見下ろすようにそう声を掛ける。

その瞬間、弾かれたように顔を上げたスパーダの驚きの表情に、思わずの方がたじろいだ。―――まさかここまで反応されるとは思ってもいなかったからだ。

「・・・なんだよ」

しかしその驚きの表情もすぐに消え、泣いていた事を隠すように素っ気無い返事が返ってくる。

それに小さく笑みを零したは、持っていた箒を前へと差し出しながらにっこりと微笑んだ。

「ここのお掃除をしたいのですが、お邪魔してもよろしいですか?」

「・・・勝手にしろよ」

素っ気無く返ってきた了承の返事に更に笑みを深めて、そうしてはまるで何事もなかったかのように掃除を開始した。

裏庭は掃除の手が行き届かないのか、枯葉が地面を覆い隠すように降り積もっている。

それを丁寧に箒で掻き寄せて・・・―――単調な作業だけれど、はこの作業が嫌いではなかった。

少しづつ綺麗になっていく庭を見るのは、爽快な気分にさえなる。

ついつい鼻歌を歌いながらひたすら箒を動かしていると、顔を伏せていたスパーダが再び顔を上げたのが視界の端に映った。

「・・・お前、下働きのやつか?」

「はい、そうです」

「最近、新しい下働きの奴が入ったってハルトマンが言ってたけど・・・」

「それ、私の事です。ハルトマンさんの紹介で働かせてもらってますから」

「・・・ふ〜ん」

掛けられる声に答えつつも、の手は止まらない。

少しづつ綺麗になっていく裏庭の様子を眺めながら、スパーダは気のない様子で相槌を打った。

それをもう一度視界の端に映しつつ、は声を掛けるかどうか迷って・・・―――ここまでくれば一度も二度も同じだろうと、そうあっさりと結論を下して更に口を開く。

「スパーダさまは、どうしてこちらに?」

「・・・・・・」

「遊びには行かれないのですか?」

そう声を掛けると、スパーダの肩がビクリと震える。

それを訝しく思う間もなく、スパーダが消え入るような小さな声で呟いた。

「・・・友達なんていねーもん」

返ってきた言葉に、はしまったと眉を寄せる。

スパーダの交友関係などの知るところではないが、この屋敷の中での事ならば多少は事情も知っている。

この家の人間は、スパーダに冷たい。

いや、冷たいのではなく、きっとそれほど関心がないのだろう。―――兄弟が多いとなると、1人1人に構ってはいられないのかもしれない。

だから彼に積極的に関わろうとするのは、この屋敷の中ではハルトマンだけだった。

着る物も、食べる物も、住むところもすべて揃い、何不自由なく暮らしているスパーダの心にも闇がある。

それは何一つ持たない者にとっては贅沢な悩みかもしれないけれど・・・―――それでもにはスパーダにないものをたった1つ持っている。

それは自由だ。

は自分の意思で、自分の思うように行動する事が出来る。

もっとも、それに伴う責任も負わなければならないが。

「・・・スパーダさま」

掃除をする手を止めて、はスパーダと向き合う。

これはきっと言ってはいけないこと。

きっと、それは自分の首を絞める事でしかないだろう。―――それでも・・・。

「私でよければ、いつでも話相手になりますよ」

にっこりと笑顔を浮かべてそう告げれば、暗い表情をしていたスパーダの瞳が大きく見開かれた。

「・・・お前」

「ですが、今はダメです。ハルトマンさんがスパーダさまの事を捜しておられましたから」

そろそろ稽古の時間なのではないですか?

怖いもの知らずにもそう告げれば、スパーダは苦々しい表情を浮かべる。

決して稽古が嫌いなわけではないだろうが、それでも子供にとっては両手を上げて喜ぶようなものでもないのだろう、きっと。

それが剣の稽古ではなく、マナーの稽古ならばなおさら。

「・・・お前、名前は?」

、と申します」

渋々といった様子で腰を上げたスパーダからの問い掛けに、再び掃除を再開しながらもは答える。

それをじっと見つめていたスパーダは、クルリと踵を返すと同時にキッパリと言い放った。

「明日のこの時間、ここに来い」

「・・・え?」

「絶対来いよ!」

それだけを言い残し、の答えを待つ事もせずにスパーダは勢い良く駆け出して行った。

思わず掃除の手を止め、呆然とその後姿を見送ったは困ったように眉を寄せて。

そんな、一方的に約束を取り付けられても・・・。

下働きの仕事はそれほど少なくはないのだ。―――明日、この時間になど・・・。

「・・・うーん」

それでも種を蒔いてしまったのは自分なのだ。

この場所で蹲る彼を、あのまま見過ごせなかった。

そう、それはまるで・・・―――3ヶ月前、絶望の中、路地で蹲っていた自分を見ているようで。

あの時ハルトマンから掛けられた声は、にとっては何者にも変えがたいものだったから。

たった1人でこの場所で孤独に耐えているあの少年を、救ってやりたいとそう思ったから。

それが傲慢な事だと解ってはいたけれど。

「・・・仕方ないか」

出来るだけ早く仕事を終わらせて、ここに来る努力はするべきだろう。

一方的とはいえ、約束は約束なのだから。

ひらひらと枯葉の舞い落ちる裏庭で。

箒を抱えたまま、は困ったように微笑んだ。

 

裏庭の約束

 

 


主人公とスパーダの出逢い。

作成日 2008.1.5

更新日 2008.7.23

 

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